修羅場の経営責任
タイトルからは本の内容が伝わりにくいのですが、カバー内側にある簡潔な説明文を読めばその内容は明瞭であり、これに目を通して本書を購入することを決めました。
山一證券の破綻では「社内調査委員会」に入り経営責任を追求し、長銀事件では経営陣を守り国策捜査と戦う。歴史的金融破綻に立ち会った危機管理弁護士が問う、真の経営責任とは。
本ブログでも紹介した高杉良氏の「会社蘇生」は弁護士が保全管理人となり、倒産の危機に瀕した企業を立て直した物語でしたが、それが印象に残っていたことも本書を手にとった理由の1つです。
ただしこれは小説ではなく、弁護士である国広正氏が自らの経験を綴ったノンフィクションです。
バブル崩壊では多くの企業が倒産しましたが、本書に登場する山一證券と日本長期信用銀行の経営破綻はそれを象徴する出来事であり、その2つに同一の弁護士が深く関わっていたことは驚きです。
いかに大企業であっても業績不振によって倒産危機となる可能性がありますが、それ自体は市場の原理を考えると自然淘汰の意味もあり決して"悪"とは言い切れません。
ただしそれが不祥事や放漫経営、さらには違法行為であった場合には経営手腕以前に危機管理能力が問われます。
その最前線を終始経験してきた著者は、いきなり本書の冒頭で危機管理の要点を述べています。
危機管理で最も大切なことは何か。
それは、マスコミ対応の謝罪テクニックでもなければ、言葉尻をとらえられないための言い回しの技術でもない。最も大切なことは、不祥事という危機に正面から立ち向かう姿勢である。
危機管理の現場は修羅場である。知識や小手先の技術論は通用しない。成否を分けるのは、経営者の「危機に立ち向かう覚悟」である。これなしに危機を克服することは決してできない。
本書の構成はわかり易く、前半で山一證券を、後半で長銀のエピソードを振り返っています。
法的追求を逃れようとする旧経営陣、そして刑事責任ありきの国策捜査に著者はどのようにして立ち向かっていったのか?
詳しい内容は本書を読んでのお楽しみとしますが、バブル時代、そしてバブルが崩壊してから20年以上が経過している中で資本主義、そして経済的自由主義の時代がこれからも続いていくことを前提とするならば、本書の示唆するところは多いような気がします。
生き上手死に上手
1991年頃に発表された遠藤周作氏のエッセー集です。
発表された時期から推測して、実際にエッセーが書かれたのは1980年代後半だと思われますが、著者が60代中盤だった時期と重なります。
現在の60代というとまだまだ精力的に活動している人も多く、"老人"や"晩年"というイメージが薄らいでいるように思えます。
一方で本書のタイトルからは、遠藤氏が自らの人生を総括し始めていることを感じさせます。
そして戦争、海外留学、大病、そして長きにわたる作家活動を通じて、自らが人生で得たものを後世の人びと(つまり読者たち)に伝えようという意志が本書の至るところから伝わってくるのです。
たとえば、"マイナスのなかにプラスの可能性がある"という著者の言葉は、明日をも知れぬ大病を患い50歳にして実感できたことだと述べています。
マイナスを逆利用する、または悪もまた善となりうるという言葉は、著者の経験から得た教訓、そして先人たちの教えから自然に導かれた答えであり、自己啓発本にありがちなポジティブ思考とは違った、肩の力を抜いた自然さがあります。
日本のキリスト教文学を牽引してきた著者であれば聖書から引用してきそうなものですが、実際に引用されるのは良寛や小林一茶、与謝蕪村だったりするところからもそれを感じられます。
そもそも著者にとって本当の信仰とは合理主義や理屈を越えたものであり、言葉や思考では表せないものだという姿勢は、その作品からも伝わってくるテーマです。
ただし小説ならともかく、真面目一辺倒では遠藤周作、もといエッセイストとしての顔・狐狸庵山人には相応しくありません。
著者自身があとがきに、「読者も寝っころがって、気楽な気持でよんでください」と書いているように、ポツリポツリと語られる無駄話も充分に収録されています。
全編から伝わるのは堅苦しい老人の言葉ではなく、遠藤氏のやさしい視線とユーモア溢れる語り口であり、読者もリラックスして読むことができます。
やはりここは著者の言葉に甘えて横に寝っころがりながら読むことをお薦めします。
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