人民は弱し 官吏は強し
星新一の作品ということでショートショートだと思い込み内容を確認せず購入しておいた1冊ですが、本書は自身の父親である"星一(ほし はじめ)"を題材とした作品です。
星一は若くしてアメリカに渡り、学費を稼ぎながらコロンビア大学へ通うという苦学生時代を経験します。
そしてアメリカ時代に得た知識と経験を元に製薬会社を立ち上げ、順調に業績を伸ばしてゆきます。
まさしく今でいうベンチャー起業家であり、1915年(大正4年)には、それまで輸入に頼っていた麻酔として不可欠なモルヒネの国産化にはじめて成功するという業績を残します。
ただしモルヒネの原料はアヘンであるため当然のように政府によって統制されており、また原料を手に入れたとしても当時の日本にはモルヒネを生産する技術がありませんでした。
それを星たちはそれをアイデアと努力によって実現させるのですが、そこに留まらず日本ではじめての冷凍食品の生産へチャレンジするなど、まさしく起業家が成功してゆく過程の物語として構成されています。
しかし後半になって物語の雰囲気が大きく変わってゆきます。
それはモルヒネ原料であるアヘンの入手を知古であり台湾の民生長官、満鉄の初代総裁などを勤めた大物政治家・後藤新平の助力で行ったことに端を発しています。
選挙によって後藤自身が所属する政友会が敗れて憲政会が勢力を伸ばすと同時に、星の会社にも強い圧力がかかり始めます。
当時は民間企業であろうとも、政治家や官僚とうまく結びつかなければ成功が難しいという時代背景がありました。
星と後藤は親しい仲でしたが、裏金を政治資金として献金するなどのやましい行為は行っておらず、何より星自身がアメリカの自由市場主義に感化されていたこともあって、政治家との癒着によって事業を成功させるという考えをまったく持ち合わせいませんでした。
官僚の許可を経て保管していたアヘンを違法性を問われ、裁判にまで発展することになり、モルヒネの製造は滞り、風評被害まで流されてしまいます。
つまり物語後半の星は、事業を発展させるどころではなくなり、ひたすら政治家や官僚を相手に苦闘してゆくことになります。
しかも相手は一企業が相手をするには、あまりにも強大な国家権力であり、言いがかりのような理不尽な要求を前に絶望的な戦いを強いられることになるのです。
前半では違和感を感じていた「人民は弱し 官吏は強し」というタイトルも後半を読んでゆくと納得のいくものとなり、読者としては主人公を応援しつつも暗い気持ちになってゆくことは否めません。
まるで日本人の好きな判官贔屓を逆さまにしたような内容です。
こうした権力を濫用した国家でやがて軍国主義を台頭させ、敗戦というプロセスへ進んでいったという結果を星新一自身も若い頃に経験しているからこそ、作品中で当時の状況を父親のセリフを通じて痛烈に批判しているのです。
同時に現代においてもその可能性がゼロになったわけではないということを、寓話として残した作品であるともいえます。
さらに付け加えるならば、作品からは星新一がこうした苦い経験と無念な思い味わった父親を敬愛している様子も伝わってくるのです。
夜明けの雷鳴
慶応3年(1866年)にパリで開催される万国博覧会への出席とヨーロッパ諸国との親善を目的とした使節団が日本を出発します。
前水戸藩主・徳川斉昭の第18子昭武を代表とする面々であり、その中に一橋家に医師として仕えていた本作品の主人公である高松凌雲
凌雲は江戸で西洋医学を学び、またオランダ語や英語に堪能な人物ということで、幕府を代表して西洋医学を実地で学ぶ医師として抜擢されたのです。
そして予定通り凌雲はフランスのオテル・デュウ(HOTEL DIEU)で本格的な西洋医学を学び始めます。
そこで行われている麻酔を使った最先端の外科手術行にも感心しますが、何よりも彼が驚いたのは医学学校に併設された病院で、貧しい人たちに無料で医療を実施していたことです。
西洋で医学は神聖なものとされ、その貧民病院の運営は実業家や貴族たちの善意の寄付によって賄われており、その光景はのちの凌雲へ大きな影響を与えることになります。
一方で日本では幕末という激動の時期を迎えていました。
大政奉還、鳥羽・伏見の戦い、そして江戸無血開城と、凌雲らが日本を離れている間に彼らを派遣した幕府そのものが瓦解してしまったのです。
使節団は急いで帰国の途につきますが、そこには幕府の実態はなく、徳川慶喜も江戸を退いて水戸で謹慎中であることが判明します。
一橋家の医師である凌雲は当然のように慶喜の元に戻ろうとしますが、厳しく監視され拘束状態の慶喜のそばには近づくこともできず、途方に暮れることになります。
そして実兄であり、幕府の兵差図役でもある古屋佐久左衛門が官軍と徹底抗戦のために江戸から北上していったことを知り、自らも旧幕臣として幕府再興に身を捧げることを決意します。
すでに時流は薩長を中心とした新勢力へ傾き、保身と損得を考えるならば存在すら失われた幕府側に付くメリットはまったくありませんでしたが、その道をあえて選ぶのが凌雲という男だったのです。
凌雲は江戸湾の品川沖に停泊していた海軍副総裁・榎本釜次郎(武揚)の艦隊に同乗し、函館の地へ赴くことになります。
やがて榎本から直接、函館病院の頭取になることを要請された凌雲は、「病院のことは一切口出しをしない」ことを条件にその任を引き受けることになります。
病院の全権を任せられた凌雲は、周りの反対意見をよそに敵味方関係なく負傷者を治療する方針を取ります。
これも凌雲がヨーロッパで学んだ医者としての精神であり、西洋諸国では敵方の傷病者も治療するという常識に感化された結果でもありました。
幸いにも入院している兵士からは武器を取り上、敵兵が病院になだれ込んできたときも医者が身を挺して患者を守るという方針は、やがて函館に攻め込んできた官軍からも理解され、野戦病院として最終的に1338人もの傷病者を治療することになります。
箱館戦争終結後は明治政府からの誘いを一切断り、民間病院を経営する傍らで貧民を無料で診察する組織「同愛会」を設立したりと、ヨーロッパで学んだ医学の精神を実践し続けたのです。
凌雲と一緒にヨーロッパへ訪問したメンバーの中には渋沢栄一も名を連ねていました。
彼がのちに500社もの企業の設立や経営に携わり、「日本資本主義の父」と呼ばれたのと同様、凌雲は「日本医療の父」と呼ばれるようになります。
江戸から明治へと時代は大きく変わっても、志は変えなかった凌雲の人生が詰まった作品です。
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