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なめくじ艦隊


本書は古今亭志ん生の半生記です。

昭和には数多の名人、大看板と言われる落語家たちが登場しましたが、あえて1人だけに絞るとすれば、この"志ん生"の名前を挙げる人がもっとも多いのではないでしょうか。

もっとも私自身が生まれた時には志ん生はすでに亡くなっており、録音でしか噺を聴いたことがありませんが、実際に寄席で彼の落語を聴いたことのある人は高齢の方ではないでしょうか。

自伝のタイトルで「なめくじ艦隊」とは変わっていますが、これは赤貧時代に地面の低い湿地帯に建てられた家賃タダという長屋に住んでいた時代に四方八方から現れたなめくじから来ています。

ズウズウしてくて切っても突いても動じない"なめくじのしぶとさ"を自分自身の姿に重ね合わせて、さらにこの時の長屋風景を徳川夢声氏が「なめくじ艦隊」と名付けたところから本人が気に入ってそのまま採用したようです。

私自身ほとんど関心がありませんが、ここ数年、連日に渡って芸人の不祥事が大きくニュースで取り上げられています。

芸人になるような人間はロクなもんじゃないという昭和の風景が遠いものになりつつあると感じますが、明治生まれの志ん生はさらに数段その上を行っている破天荒さです。

志ん生の父は江戸時代生まれのサムライだったこともあり厳しく怖かったようですが、父親に反発するように放蕩息子に育ちます。

神田、浅草で育った孝蔵少年(志ん生の本名・∶美濃部孝蔵)は、13歳から酒場で冷酒をマスからガブガブ飲み、14歳から賭場へ出入りして博打でスッカラカンになり、父親の大事にしていたキセルを勝手に売り払ったりという、自らを末恐ろしい子供だったと回想しています。

今で言う中学生ですから、コンプライアンスのかけらも感じられません。

奉公にやってもすぐに逃げ出してくる孝蔵少年を持て余した家族は、逃げ戻ってこないよう彼を下関から船に乗せて京城(今のソウル)の印刷会社へ奉公に出しますが、それでもすぐに仕事を辞めて自力で東京まで戻ってくるという行動力です。

どんな仕事をやっても長続きしない彼は、友人の勧めで落語家になることを決心します。

それでも放蕩グセはまったく改まらず、営業先の浜松で一銭も持っていない状態で宿へ泊まり、留置所へ入れられ同じ部屋に入ってきたヤクザの親分相手に一席やったり、女房をもらったあくる日から遊びに出て、彼女が用意した箪笥、長持、琴などの結納品を1ヶ月半ですべて売り払ってスッカラカンにしてしまったというから驚きです。

それは子どもが生まれてからも改まらず、計6回も家賃滞納で家を追い出されるという経験をしています。

そして辿り着いたのが、冒頭に紹介したなめくじ艦隊が出没する家賃タダの長屋ということになります。

本書の秀逸なところは、自らの半生を語るほかにも江戸周辺の当時の風景、落語家仲間のこと、芸人界の伝統やしきたり、寄席の風景などが紹介されている点です。

本作品は、1956年(昭和31年)に発表されおり、当時の志ん生は66歳ということになりますが、すでに遠い記憶になりつつあった江戸、明治の風情を知る最後の世代だったといえます。

本書の文章は江戸弁の口語調で書かれており、おそらくインタビュー形式での取材をもとに文字起こしたと作品だと思われますが、まるで志ん生の落語のような雰囲気と調子があります。

大看板になってからも自分ほど貧乏を味わい尽くした人間はいないと胸を張って語った志ん生師匠の半生は味わい深いものです。

多くの有名人から半生記が出版されていますが、本書は傑作の中の1冊に数えられるべき作品ではないでしょうか。