ローマ人の物語〈42〉ローマ世界の終焉〈中〉
紀元410年8月24日、実に800年ぶりにローマは敵の手によって落ちることになります。
歴史上「ローマ劫掠(ごうりゃく)」と呼ばれるこの事件は、アラリックに率いられた西ゴート族の侵略によって引き起こされました。
アラリックと戦えば必ず勝利してきたスティリコ将軍はローマ皇帝自らが側近に惑わされ処刑していたのですから、ある意味では自業自得といえます。
当然のように蛮族たちの手によってローマからは財宝や人質が持ちだされました。
しかしこの事件でさえも、これからローマ帝国を襲う数々の悲劇の前触れでしかなかったのです。
テオドシウス帝が後継者となる2人の息子が共同統治するために分けた西ローマ帝国と東ローマ帝国でしたが、相次ぐ蛮族の侵入、ササン朝ペルシア、そして国内の内乱によりお互いが助け合う余裕など微塵もなく、この東西に分かれた帝国は完全に分裂してゆきます。
とくに古代ローマ人発祥の地であり、長らく「世界の首都(カプト・ムンディ)」であったローマを擁する西ローマ帝国の惨状は酷いものでした。
ジブラルタル海峡を渡って侵入してきたヴァンダル族によって北アフリカをなす術なく手放し、東ローマ帝国でさえもフン族による侵略の前に無条件降伏のような講和を結ぶしかない有様でした。
アエティウスのようなつかの間の平和をもたらす将軍も登場しますが、もはや安全保障のための最低限の軍事力さえなく、蛮族から侵入され、恫喝される度に金品によって和平を結ぶということを繰り返すのです。
しかも領土と共に著しく縮小した財政も"火の車"であるため、住民たちは重税によって苦しむという悪循環に陥っていました。
組織が慢性的に疲弊したローマ帝国に優秀な指導者が現れることなく、逆に蛮族側にその指導者が現れるに及んで、もはや手の施しようがない時代が到来します。
アッティラ率いるフン族、ゲンセリック率いるヴァンダル族のイタリア侵略によってイタリア半島の蹂躙を許し、とうとう運命の紀元476年、出身部族さえも定かでない蛮族の混成軍を率いてローマへ入城したオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡を迎えるのです。
その呆気ない帝国の最後を著者は次のように表現しています。
ローマ帝国は、こうして滅亡した。蛮族でも攻めて来て激しい攻防戦でもくり広げた末の、壮絶な死ではない。炎上もなければ阿鼻叫喚もなく、ゆえに誰一人、それに気づいた人もいないうちに消え失せたのである。少年皇帝が退位した後にオドアケルが代わって帝位に就いたのでもなく、またオドアケルが他の誰かを帝位に就かせたのでもなかった。ただ単に、誰一人皇帝にならなかった、だけであったのだ。半世紀前の紀元四一〇年の「ローマ劫掠」当時には帝国中であがった悲嘆の声も、四七六年にはまったくあがらなかった。
つまり軍勢を率いたオドアケルに対しローマには抵抗する戦力も気力も無く、無条件に城門を開いたのです。
都市国家として生まれてから1200年以上にも渡って存在してきた国家が、たとえば大阪夏の陣のような見せ場が一切ないまま終わりを迎えるのですから、ここまで長い間ローマ興亡史を見てきた読者も呆気にとられます。
ただ数々の戦いに勝利して広大な版図を築き、何よりも多くの民族と共生してきたローマが1度や2度の戦いに敗れて滅亡するにはあまりにも巨大であり過ぎ、それ故にローマ帝国の最後としては相応しいのかも知れません。
ローマ人の物語〈41〉ローマ世界の終焉〈上〉
いよいよ「ローマ人の物語」も最終章へ突入します。
もはや共和政ローマ時代のように破竹の勢いで快進撃を続けることも、初期から中期帝国時代のパクス・ロマーナ(ローマによる平和)がもたらす繁栄が二度と戻らないことを、5世紀に生きた当時のローマ人たちも感じていたに違いない時代が到来するのです。
それも度重なる蛮族の侵入を防ぐどころか、蹂躙されるがまままの状態に陥ったのですから当然であるといえます。
この帝国末期の状況を著者は次のように分析しています。
人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇、ということである。
つまりローマ人の能力が衰えたり、侵入してくる蛮族たちが急激に強くなったわけではないのです。
しかも本書で触れられているのは近代日本や江戸幕府さえも遠く及ばない、本巻の時点でも1100年以上にも渡って繁栄した古代ローマ人たちの国家であることを考えると、どんな国であっても人間の寿命と同じようにいつかは"死(滅亡)"を迎える運命にあると感じずにはいられません。
共和政時代であれば執政官や独裁官、そして時には護民官を中心に、帝政時代であれば皇帝を中心としてローマ史を綴ることが出来ましたが、ローマ帝国の末期に登場する皇帝たちは、巨大化した宮廷の奥で政治に無関心になってゆきます。
そしてテオドシウスが後継者に指名した2人の息子(アルカディウス、ホノリウス)はその典型例となる人物でした。
そのテオドシウスが息子たち、そして帝国の行く末に不安を感じ、軍総司令官(事実上の後見人)として指名したのが、のちに「最後のローマ人」として称えられることになるスティリコ将軍でした。
しかもスティリコは、父親がローマ人が蛮族とみなしたヴァンダル族であり、母親がローマ人という「半蛮族」ともいうべき出自だったのです。
ただしこの「半蛮族」と呼ばれたスティリコは2人の皇帝の後見人として獅子奮迅の働きを見せます。
まずは族長アラリックに率いられ侵入してきた西ゴート族を撃退し、続いて北アフリカで起こった反乱を鎮圧、その後はラダガイゾ率いる東ゴート族を中心とした40万人ものゲルマン人がイタリア半島へ押し寄せてきますが、わずか3万人の急造ローマ軍で彼らを撃破するという離れ業をやってのけます。
これだけの活躍をしてさえ、繰り返される蛮族たちの侵入からローマ帝国を防衛することが困難だと判断したスティリコは、カエサルが征服して以降450年に渡ってローマの一部であり続けた広大な北部・中部ガリア地方を放棄することを決意するのです。
さらに加えて、かつての宿敵だった西ゴート族のアラリックと同盟を結び、西ローマ帝国防衛の一端を担わせるという大胆な戦略を実行します。
これは蛮族を使って蛮族を撃退する苦肉の策であり、実質的には西ローマ帝国がアラリックへ用心棒代を支払うことで成り立っていました。
厳しくはあっても公正であったスティリコは兵士たちからの信頼も厚く、彼の存在が無ければ間違いなくこの時期にローマ帝国は滅亡を迎えていたに違いありません。
人気と実力を兼ね備えたスティリコでしたが、その気になれば容易に掴み取れる皇帝の地位を決して狙うことはありませんでした。
先帝テオドシウスの遺言を忠実に守り抜き、何一つ判断も行動もしない皇帝を見捨てることは無かったのです。
一方で風雨に晒されることのない宮廷の奥で側近たちの言葉を信じたホノリウスは、スティリコを処刑してしまうのです。
半ば覚悟しての死を迎えたスティリコでしたが、この事件は著者の「人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇」そのものであり、ローマ帝国は自らの剣で深い傷を負っておきながら、その痛みさえ感じることの出来ない状態になってゆくのです。
ローマ人の物語〈40〉キリストの勝利〈下〉
キリスト教化されるローマ帝国の流れに逆らうように多くの改革を実行したユリアヌスでしたが、わずか2年という短い期間で彼の統治は終わりを迎えます。
続いてヨヴィアヌスが後継者として皇帝になりますが、彼の在位も7ヶ月間という短いものであり、しかもその政策のことごとくが先帝ユリアヌスの政策を廃案にするもので、ローマ帝国内には再びキリスト教が力を取り戻します。
続いて登場したヴァレンティニアヌスはもはや恒例となりつつあったように、実弟のヴァレンスともに帝国を東西に分けて共同統治することになります。
ただしローマ帝国がキリスト教を優遇しようがしまいが、また帝国を分割統治しようがしまいが、蛮族たちの侵入が途絶えることはありませんでした。
ヴァレンティニアヌスの10年間の治世は蛮族相手に戦いに明け暮れる日々で過ぎ、そして弟のヴァレンスは侵入してきたゴート族との「ハドリアノポリスの戦闘」で戦死という結末を迎えることになります。
この皇帝自らが総司令官としてローマ軍を率い、不意打ちではなく正面から蛮族と激突した戦闘で大敗を喫すという結果は、ローマ帝国が強大な時代であれば考えられないことでした。
やがて帝国の西方をグラティアヌスが、東方をテオドシウスが統治する時代が到来しますが、この2人はユリアヌスによって一時的に停滞していたキリスト教の浸透をさらに加速する政策を打ち出します。
まずはグラティアヌスが打ち出した政策ですが、次のようにローマで長年に渡り信仰されてきた宗教を排除するものでした。
- 皇帝が兼任することが伝統であった最高神祇官への就任を拒否
- ローマの宗教活動を担っていた女祭司への援助打ち切り
- 元老院会議場の正面に安置されてきた「勝利の女神」像を撤去
- 結果としてフォロ・ロマーノの神殿の中で1135年に保護されてきた「聖なる火」が消える
次にテオドシウスの政策ですが、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した「ミラノ勅令」を更に推し進め、キリスト教以外の宗教を"邪教"として禁止したのです。
これ以降、キリスト教のみがローマ帝国唯一の公認宗教となり、まさに本巻の副題である"キリストの勝利"という結果をもたらすのです。
しかしこのキリストの勝利にもっとも貢献したのはグラティアヌスでもテオドシウスでもなく、彼ら以上に本書で言及されているミラノ司教アンブロシウスです。
特にテオドシウス帝はグラティアヌス帝の死以降、軍事上でも内政上でももっとも権力を持った事実上の専制君主となりますが、彼は若い頃に洗礼を受けキリスト教に帰依しています。
キリスト教徒としての規範を示すのは司教たちの仕事であり、当然のようにその正悪を判断するのも司教であるアンブロシウスであったのです。
しかも後世から"教会の父"と呼ばれるくらいキリスト教の組織化に長けたアンブロシウスは、宗教家としては必要以上に政治的人間であり、まるで皇帝を裏から糸であやつるように影響を与え続けたのです。
そして実際にアンブロシウスの機嫌を損ね、テオドシウス帝が人々の見守る中で膝を屈してアンブロシウスに許しを請う出来事が現実化したのです。
テオドシウスが熱心なキリスト教徒であったことも確かですが、もし皇帝自身が国教であるキリスト教を破門されることがあれば政治的にも致命的な失策となります。
やがて395年にテオドシウス帝の死によっていよいよローマ帝国は最後の1世紀を迎えることになりますが、それより一足先に本巻ではキリスト教によってローマ・ギリシア文明が終わりを告げることになるのです。
たとえアンブロシウスの操り人形という結果にしろ、キリスト教以外を禁止してその布教に貢献したテオドシウスは、コンスタンティヌス以来の"大帝(マーニュアス)"の尊称を得ることになります。
歴史上最初に"大帝"の称号を得たのはマケドニアのアレキサンダー大王でしたが、彼は東征によって広大なオリエント地方を征服することでヘレニズム文化を生み出した功績を残しました。
皮肉なことに同じ"大帝"であるテオドシウスは、領土の拡大どころか進行するローマ帝国の衰退をくい止めることさえ出来なかったのです。
ローマ人の物語〈39〉キリストの勝利〈中〉
父親である大帝コンスタンティヌスの後を継いでローマ皇帝となったコンスタンティウスでしたが、彼は兄弟による帝国統治の分担という遺言に反し、兄弟や親族を次々と倒して唯一の"正帝"の座に就きます。
有力な親族が次々といなくなったため、いわば消去法で"副帝"の地位に就いたユリアヌスにとってコンスタンティウスは、父親を殺害し、さらに兄をも抹殺した張本人でもあったのです。
ユリアヌスは哲学に傾倒していたためか、聡明で冷静な思考力の持主であったために、副帝という権力を手中にした喜びよりも、次は自分が父や兄のような運命を辿ることになるという危機感の方が圧倒的に優っていたのです。
そもそもユリアヌスは権力や裕福な暮らしに興味はなく、ギリシア哲学の偉人のように素朴に人生を送りたかったに違いありません。
そんなユリアヌスは、叔父のコンスタンティウスの命令によりガリアにおける蛮族たちの戦いの最前線に送り込まれることになるのです。
しかも当時のガリアには蛮族の侵入行為が日常化し、ローマ帝国の防衛線(リメス)は崩壊状態にあり、兵士の数や物資も足りず、士気は低く、コンスタンティウスからはろくな援助も期待できないといった八方塞がりの状態でした。
学問しかしてこなかったユリアヌスがローマ帝国の副帝になるどころか、ある日を境にそんな蛮族との戦いを指揮する総司令官を務めることになるのですから、これは悲劇を通り越して喜劇に近いかも知れません。
一方で幼少の頃より数多く読んできた書物の中には、歴史書も含まれていました。
その中でもとりわけ有名な「ガリア戦記」も読んでいたユリアヌスにとって実戦での経験は無くとも、もはや伝説と化したユリウス・カエサルの成し遂げた偉業であれば知識として持っていたのです。
ともかくカエサルのように戦場の最前線で兵士たちを鼓舞し、がむしゃらに先頭を指揮するユリアヌスは局地的な蛮族との戦闘に勝利すると同時に、配下の指揮官や兵士たちの信頼をも勝ちとってゆくのです。
そして大挙して押し寄せたアレマンノ族との大規模な「ストラスブールの会戦」に勝利することによって配下の兵士から英雄として讃えられるに至るのです。
しかしユリアヌスが英雄という評判を得れば得るほど、正帝のコンスタンティウスは脅威を感じることになるのです。
つまりコンスタンティウスにとって、副帝ユリアヌスは"そこそこ有能で恭順な駒"であれば充分であり、自分の名声や権威を脅かすほどの存在になることを望んでいなかったのです。
そんな中、ササン朝ペルシアとの戦いに備え正帝からの有無を言わせない支援要請に憤慨した配下の兵士たちによってユリアヌスはコンスタンティウスへ対して反旗を翻すことを決意するのです。
ローマ帝国正帝の地位を巡って雌雄を決するために軍を進めるユリアヌスでしたが、幸運にもコンスタンティウス病死の知らせを進軍中に受け取ることになります。
自動的に唯一のローマ皇帝となるユリアヌスでしたが、そこで初めてユリアヌスらしい政策を打ち出します。
最初に大帝コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」によって公認され、その後は皇帝によって優遇され続けたキリスト教の特別扱いを廃止し、長く信仰され続けてきた多神教であるギリシア・ローマ宗教を復活させたのです。
また巨大な官僚組織をスリム化し、大規模なスリム化に取り掛かります。
皇帝の権力が絶対君主並みに強化されると共に皇帝の側近たちの数も増えた結果、巨大な宮廷組織が形成されつつあったのです。
皇帝の権威を誇示するかのような組織も、多くのことを1人で、もしくは少数の側近たちと決定してきたユリアヌスにとっては無駄にしか思えなかったのです。
それはまるで五賢帝時代の栄光を取り戻すための懐古運動のようでしたが、数年で頓挫することになります。
原因はすっかりローマ帝国の宿敵となりつつあるササン朝ペルシアへの遠征においてユリアヌスが戦死するためです。
もしユリアヌスの治世が数十年に渡っていたら、終焉の足音が聞こえつつあったローマ帝国の運命がどのように変わったのか興味のあるとことです。
ローマ人の物語〈38〉キリストの勝利〈上〉
紀元337年に大帝コンスタンティヌスが62歳で病没しますが、彼は遺言で3人の息子、そして2人の甥へローマ帝国皇帝としての権力を分割して与える後継人事を発表済みでした。
これは先帝ディオクレティアヌスが考案した、4人の皇帝によりローマ帝国を治めた"四頭政治(テトラルキア)"の踏襲に近いものでしたが、何よりもコンスタンティヌス自身がライバル皇帝たちを次々と倒し唯一無二の皇帝となった、つまりディオクレティアヌスの体制を壊した張本人であったことを考えると、その真意がどこにあったのでしょうか。
ディオクレティアヌスの"四頭政治(テトラルキア)"は、まったく血縁関係の無い4人が皇帝として即位しましたが、ひょっとするとコンスタンティヌスは、濃い血縁で結ばれた5人の権力者が手を取り合い、団結してローマ帝国を治めることを期待したのかもしれません。
ただし権力と財力をめぐっての嫉妬や独占欲は、赤の他人よりも血縁関係にあるライバル同士の方が、より苛烈な争いに発展する傾向があります。
そしてその杞憂は、コンスタンティヌスの死後直後から現実のものとなります。
まず帝都コンスタンティノープルで行われたコンスタンティヌスの葬儀の直後に、そこに滞在していた次男コンスタンティウス以外の親族たちが何者かによって暗殺されるのです。
長男コンスタンティヌス二世、三男コンスタンスはまだ首都に到着さえもしていませんでしたが、早くも権力を分割されていた先帝2人の甥が殺害された親族たちに含まれていたのです。
どう考えても眉唾ものですが、この殺害に次男コンスタンティウスが関与していないこと、あくまでも暗殺者が独断で行ったことだけが正式に発表されます。
その後も長男コンスタンティヌスⅡ世は自滅という形で、そして三男コンスタンスは次男コンスタンティウスと10年間の共同統治という期間を経たのちに、不満を募らせた配下の兵士の手によって暗殺されることになります。
複数の皇帝が乱立し内乱を繰り広げるのも、配下の兵士によって皇帝の命が奪われる光景も残念ながらローマ帝国末期においては特筆すべき出来事ではありません。
そして三男コンスタンスの後に、兵士たちによって擁立された皇帝マグネンティウスとの激戦に勝利し、コンスタンティウスはただ1人のローマ皇帝となるのです。
しかし当時は蛮族が広大なローマ帝国の東西南北いずれから攻めてきても不思議でない時期であり、東の国境には強大なササン朝ペルシアが虎視眈々と勢力拡大を狙っていました。
ローマ皇帝にとって第一にくる責務は当然のように安全保障ですが、ローマ皇帝1人ではとてもすべての前線に駆けつけることが困難な状況下にありました。
しかも皮肉なことに、本来ならはその役割を分担してくれる兄弟、ライバル皇帝たちを全員倒してしまたったのはコンスタンティウス自身であったのです。
そこで帝国の辺境・カッパドキアで幽閉生活を送っていた、それもコンスタンティウス自身が殺害に関与したことが濃厚な親族の遺児を引っ張りだして副帝に任命するのです。
まず遺児の中では年長のガルスが副帝となりますが、彼は父親を殺されて幼少時代からの長い幽閉生活が影響したのか、それとも副帝に任命されて環境が一変したからなのか、ともかく初めから正常な精神状態ではありませんでした。
結果として副帝として叔父であるコンスタンティウス帝の側近たちとの折り合いがつかず、それを知ったコンスタンティウスによって簡単に抹殺されてしまうのです。
そしてあまりにも安直ですが、今度は遺児の年少の方であったユリアヌスを代わりの副帝に指名することになるのです。
自らの権力に脅かす危険性のある存在であれば兄弟であろうが躊躇なく始末してしまうコンスタンティウスですが、これは彼の冷酷な性格から来るのと同時に、本質的に臆病な人物であったと著者は評しています。
副帝に任命された時点でまだ24歳のユリアヌスは、学問その中でもとりわけ哲学に傾倒していた文学青年に過ぎませんでしたが、同時に聡明だったユリアヌスは自らの置かれた危険な立場をはっきりと理解していたに違いありません。
そんなユリアヌスの数奇な運命が次巻で紹介されることになります。
ローマ人の物語〈37〉最後の努力〈下〉
本巻では引き続き、"四頭政治(テトラルキア)"を構成していたライバル皇帝たちを次々と葬り、唯一の皇帝となったコンスタンティヌスの治世を追っています。
前巻ではローマ帝国内におけるすべての宗教を信仰する自由を保証した「ミラノ勅令」について触れましたが、コンスタンティヌスは皇帝としての権力や財力を利用して、その中でもとくにキリスト教を積極的に支援しました。
その歴史的意義を著者は分かり易く次のように表現しています。
コンスタンティヌスが、ローマ史に留まらず世界史のうえでも偉人の一人とされてきた理由は、何と言おうが彼が、キリスト教の振興に大いなる貢献をしたからである。
また彼の名が一躍有名になるもう1つの事業が、ローマ帝国の新都建設です。
今までの首都ローマに代わり、それまで歴史的に重要でなかった地方都市であるビザンティウムへ首都を新たに建設したのです。
そして町の名前を自らの名前を冠したコンスタンティノポリス(英語ではコンスタンティノープル)と改名し、今でもトルコの首都として有名なイスタンブールの実質的な建設者となったのです。
そして帝政初期から中期にかけて皇帝へ対しても強権を発動できた元老院を完全に形骸化させたのもコンスタンティヌスです。
すでに元老院が実質的な権力が奪われて久しいですが、新都建設を機にそれを徹底して政策化したのです。
共和政ローマの頃よりローマ軍の司令官は、行政官としてのキャリアも充分に積んだ人物が就くことが慣例でしたが、元老議員が軍団司令官に就くことを禁止した法律の制定により、すべて生え抜きの軍人のみで占められるようになります。
軍の指揮官にはもちろん経験豊かなことが求められますが、オールマイティな人物が司令官として戦略レベルで視野の広い判断を下す、やはり真っ先に思い出すのがカエサルですが、彼のような文武両道の人物が生まれる土壌を国家システムとして完全に閉ざしたことを意味します。
要はすべての権力を皇帝1人へ集中させたのがコンスタンティヌス帝であり、この政策や政体が中世ヨーロッパの君主制の幕開けとなってゆくのです。
最後にもう1つコンスタンティヌス帝の治世で世界史に残る出来事といえば「ニケーア会議」が挙げられます。
この会議によってキリスト教のドグマ(教理)において三位一体派(神・精霊・キリストが一体であるとする主張する教団)の正統性が皇帝によって支持され、反対の立場をとるアリウス派が権力の中枢から遠ざけされたということです。
この"三位一体派"は後に"カトリック派"と呼ばれることになり、中世から近代史にいたるまでカトリックがもっとも伝統的で正統な教派とされる源流を生み出したのです。
それでも蛮族侵入に代表される安全保障の危機、貧富の格差拡大に象徴される経済力の衰退は相変わらず進行し続け、コンスタンティヌス帝が存命中にローマ帝国の繁栄へ対して貢献した実績よりも、のちの時代へ与えた影響力の方がはるかに大きいという不思議な人物でもあるのです。
ローマ人の物語〈36〉最後の努力〈中〉
前巻に登場した2人の皇帝、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの2人は同時に退位、つまり引退という形で政治の表舞台から姿を消します。
それでも4人の皇帝によりローマを治める"四頭政治(テトラルキア)"は後継者を指名することで継続することになります。
そしてディオクレティアヌスの治世のような安定した時代が続くと思われましたが、結果としては最悪の方向へ進むことになります。
つまり4人の皇帝が自らの担当地域を縄張り化(私領化)し、お互いに権力争いを繰り広げる内乱へと突入するのです。
4人の皇帝が次々と入れ替わり、さらにトーナメント方式のように勝利した皇帝が敗れた皇帝の領地を併合するという事態へ発展してゆきます。
ディオクレティアヌス時代の四頭政治は、あくまでも彼を頂点とした"1+3"の4人体制であり、また他の3人の皇帝もディオクレティアヌスの実力を認めていたからこそ維持できていたのです。
引退したディオクレティアヌスも現状を打開しようと口を挟みますが、一度権力を手放してしまった以上、再びそれが自らの手に帰ってくることはなく、"元皇帝の肩書を持った老人"にしか過ぎない存在となるのです。
そして内乱という権力抗争で生き残った人物こそが、のちに"大帝"と呼ばれることになるコンスタンティヌスです。
本巻ではこのコンスタンティヌスが権力抗争で唯一の勝利者となる過程に詳細に触れられています。
もっとも統治能力に秀でたコンスタンティヌスが皇帝の座の収まること自体、ローマ帝国にとってけっして悪いことではありません。
しかし内乱によって失われた優秀な指揮官や兵士は、蛮族襲来の危機に晒されているローマ帝国にとってかけがえの無い財産であったことも事実なのです。
また権力抗争の過程でリキニウスと2人の統治時代を迎えていたときに発令した紀元313年の「ミラノ勅令」にもページを割いて解説されています。
紀元1世紀にローマ帝国内で活動したイエス・キリストの時代から、キリスト教の置かれている状況について「ローマ人の物語」シリーズでは要所要所で触れられてきました。
まずキリスト教が誕生してから約200年は信者の絶対数が少なかったことから、小規模な弾圧を受けることはあっても基本的にはマイナーな宗教としての位置付けで終始します。
"五賢帝時代"から"危機の3世紀"を経て4世紀に入ると、キリスト教が急速な広がりを見せますが、ローマ人の大多数が信じる多神教との価値観の相違、つまり皇帝の権威を認めず、神の権威のみを認めるキリスト教徒たちは大規模な弾圧に遭遇することになります。
ローマ人古来の宗教はギリシア神話の神々を取り入れた多神教であり、経典も専属の司祭といった階級も存在しませんでした。
宗教上もっとも権威を持った人物はカエサル以降、皇帝が最高神祇官として兼任するのが恒例となっており、司祭も兼業という形で市民の中から選出されるという"ゆるい宗教"でした。
実に30万もの神々が役割ごとに守護神として存在していたと言われており、最高神ユピテル(ギリシア神話のデウス)から夫婦げんかを仲裁する神までが存在していました。
これは現代の西欧人よりも、八百万の神々が存在する神道、さらに仏教をも同時に受け入れる日本人の方が、古代ローマ人の感覚を理解できると思います。
ともかく「ミラノ勅令」によって弾圧を受けていたキリスト教含めて、ローマ帝国内における信仰の自由を保証したのです。
しかもその後、コンスタンティヌスは積極的にキリスト教の保護を進め、キリスト教を特別に優遇する政策を推し進めます。
コンスタンティヌスが"大帝"と呼ばれるのは、のちにヨーロッパにおいて絶対的地位を築き上げたキリスト教徒たちによる尊称であり、彼の存在なくして、世界三大宗教の1つとして数えられるキリスト教の地現在の地位はあり得なかったことを考えると当然といえます。
そんな世界史の中でも重要な位置付けとされるコンスタンティヌス帝ですが、神の国を説くキリスト教が公認されても、彼が治める現実世界のローマ帝国には問題が山積みだったのです。。
ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉
本巻ではディオクレティアヌス帝の統治時代に触れられています。
「危機の3世紀」では数年、時には数ヶ月単位で次々と皇帝が入れ替わりましたが、このディオクレティアヌスの治世は20年以上に渡ることになります。
すでにローマの覇権を拡大させる時代はおろか、安全を維持する時代さえも過ぎ去り、ディオクレティアヌスの最優先課題は、帝国の衰退を食い止めることでした。
これは破産しかけた会社の再建が急務であるのと同じ状況でした。
3世紀の皇帝たちは1人体制で蛮族や敵国の侵略を食い止めるために奔走してきましたが、ディオクレティアヌスは友人であり優れたローマの将軍であったマクシミアヌスをもう1人の皇帝とすることで役割と責任を分担します。
1人の皇帝が各地の戦場へ赴くのではとても時間が足りず、さらに自らがカエサルのような天才型の人間でないことを自覚していたディオクレティアヌスは、地域ごとに責任者(皇帝)を置くという効率的な方法によって防衛線(リメス)の維持を試みたのです。
結果としてこの方針は功を奏し、在位8年にしてローマ帝国の国境にはひとまずの平和が訪れることになります。
そしてディオクレティアヌスは、その体制をさらに一段と推し進めます。
ローマ帝国を東西に分け、そこにそれぞれ正帝と副帝を置くことで帝国の領土を4人の皇帝で統治する体制を実現します。
これを"四頭政治(テトラルキア)"といい、各皇帝は自らが担当する地域にける軍の最高責任者でありましたが、抑えておくべきポイントは以下の通りです。
- ローマ帝国を4分割したわけではなく、あくまでも1つの帝国として国体を維持したこと
- 4人の皇帝の中でディオクレティアヌスが明確にもっとも強大な権力を有していたこと
分かり易く言えば、4人の皇帝の実力が拮抗していたわけではなく、実質的にディオクレティアヌス自身が他の3人の皇帝を指名したのです。
もちろんこれはディオクレティアヌスが謙虚だった故に権力を割譲したのではなく、危機的状況下にあって広大なローマ帝国を効率よく治めるために生み出したアイデアでした。
結果として四頭政治(テトラルキア)は、ローマ帝国に一時的な安定をもたらしましたが、これは増強した軍事力に依存した安定でもあったのです。
具体的には、外敵との絶え間ない争い、そして兵士たちの質の低下を補うために帝国全土の兵士の人数を30万人から、一気に2倍の60万人に増やします。
これは必然的に軍事費の増大となって現れますが、この軍事費についても増税という単純な方法で補います。
一昔前であれば、たとえ皇帝であっても増税政策を打ち出せば、元老院、そしてローマ市民たちの反発によってその地位を失いかねない事態になることは珍しくありませんでした。
しかし3世紀末から4世紀初頭にかけて皇帝となったディオクレティアヌスは、軍団の絶対的な支持を背景にした武力と、皇帝を頂点とした巨大な官僚組織をつくり上げることで、その反発を簡単に抑えこむ実力を持っていました。
この末端まで組織された官僚体制は、当時のローマ人が「税金を納める人の数よりも、税金を集める人のほうが多くなった」と皮肉るほどでした。
そしてディオクレティアヌスは、自らが目指した政策をひと通りやり終えると、同僚の皇帝であるマクシミアヌスと共に引退してしまうのです。
終身制が普通であったローマ皇帝にとって引退自体が異例のことでしたが、この潔い勇退が必ずしも良い結果とならないのも衰退するローマ帝国を暗示していたように思えてなりません。
さすがに4世紀のローマ史ともなると、口から泡を飛ばして元老議員と議論する皇帝クラウディウスのような、民衆たちと一緒に公衆浴場(テルマエ)へ通う皇帝ハドリアヌスのような民衆にとって身近な皇帝が2度と現れることが無いことに寂しさを覚えてしまいます。
登録:
投稿
(
Atom
)