ローマ人の物語〈38〉キリストの勝利〈上〉
紀元337年に大帝コンスタンティヌスが62歳で病没しますが、彼は遺言で3人の息子、そして2人の甥へローマ帝国皇帝としての権力を分割して与える後継人事を発表済みでした。
これは先帝ディオクレティアヌスが考案した、4人の皇帝によりローマ帝国を治めた"四頭政治(テトラルキア)"の踏襲に近いものでしたが、何よりもコンスタンティヌス自身がライバル皇帝たちを次々と倒し唯一無二の皇帝となった、つまりディオクレティアヌスの体制を壊した張本人であったことを考えると、その真意がどこにあったのでしょうか。
ディオクレティアヌスの"四頭政治(テトラルキア)"は、まったく血縁関係の無い4人が皇帝として即位しましたが、ひょっとするとコンスタンティヌスは、濃い血縁で結ばれた5人の権力者が手を取り合い、団結してローマ帝国を治めることを期待したのかもしれません。
ただし権力と財力をめぐっての嫉妬や独占欲は、赤の他人よりも血縁関係にあるライバル同士の方が、より苛烈な争いに発展する傾向があります。
そしてその杞憂は、コンスタンティヌスの死後直後から現実のものとなります。
まず帝都コンスタンティノープルで行われたコンスタンティヌスの葬儀の直後に、そこに滞在していた次男コンスタンティウス以外の親族たちが何者かによって暗殺されるのです。
長男コンスタンティヌス二世、三男コンスタンスはまだ首都に到着さえもしていませんでしたが、早くも権力を分割されていた先帝2人の甥が殺害された親族たちに含まれていたのです。
どう考えても眉唾ものですが、この殺害に次男コンスタンティウスが関与していないこと、あくまでも暗殺者が独断で行ったことだけが正式に発表されます。
その後も長男コンスタンティヌスⅡ世は自滅という形で、そして三男コンスタンスは次男コンスタンティウスと10年間の共同統治という期間を経たのちに、不満を募らせた配下の兵士の手によって暗殺されることになります。
複数の皇帝が乱立し内乱を繰り広げるのも、配下の兵士によって皇帝の命が奪われる光景も残念ながらローマ帝国末期においては特筆すべき出来事ではありません。
そして三男コンスタンスの後に、兵士たちによって擁立された皇帝マグネンティウスとの激戦に勝利し、コンスタンティウスはただ1人のローマ皇帝となるのです。
しかし当時は蛮族が広大なローマ帝国の東西南北いずれから攻めてきても不思議でない時期であり、東の国境には強大なササン朝ペルシアが虎視眈々と勢力拡大を狙っていました。
ローマ皇帝にとって第一にくる責務は当然のように安全保障ですが、ローマ皇帝1人ではとてもすべての前線に駆けつけることが困難な状況下にありました。
しかも皮肉なことに、本来ならはその役割を分担してくれる兄弟、ライバル皇帝たちを全員倒してしまたったのはコンスタンティウス自身であったのです。
そこで帝国の辺境・カッパドキアで幽閉生活を送っていた、それもコンスタンティウス自身が殺害に関与したことが濃厚な親族の遺児を引っ張りだして副帝に任命するのです。
まず遺児の中では年長のガルスが副帝となりますが、彼は父親を殺されて幼少時代からの長い幽閉生活が影響したのか、それとも副帝に任命されて環境が一変したからなのか、ともかく初めから正常な精神状態ではありませんでした。
結果として副帝として叔父であるコンスタンティウス帝の側近たちとの折り合いがつかず、それを知ったコンスタンティウスによって簡単に抹殺されてしまうのです。
そしてあまりにも安直ですが、今度は遺児の年少の方であったユリアヌスを代わりの副帝に指名することになるのです。
自らの権力に脅かす危険性のある存在であれば兄弟であろうが躊躇なく始末してしまうコンスタンティウスですが、これは彼の冷酷な性格から来るのと同時に、本質的に臆病な人物であったと著者は評しています。
副帝に任命された時点でまだ24歳のユリアヌスは、学問その中でもとりわけ哲学に傾倒していた文学青年に過ぎませんでしたが、同時に聡明だったユリアヌスは自らの置かれた危険な立場をはっきりと理解していたに違いありません。
そんなユリアヌスの数奇な運命が次巻で紹介されることになります。