本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

路地の子



路地」とは人家のひしめく狭い通路という意味があり、例えば"路地裏の名店"などといった使われ方が一般的です。

一方で「路地」は別の意味を持っており、それは被差別部落・同和地区を指す言葉としても使われてきました。
"路地"は日本各地に1000箇所以上存在するといい、特に大都市には大規模な路地が存在していました。

本書のタイトルにある「路地」はまさしく後者の意味で使われており、著者の上原善広氏は大阪の路地出身者者という出自を持っています。

私自身は同和問題(部落差別)といったものを殆ど意識せずに育ちましたが、私より一回りくらい上の世代になると少年時代にこうした差別を目にした経験を持つ人が多いように感じます。

作品の舞台は大阪堺市の東に隣接する松原市にかつてあった更池(さらいけ)という路地であり、そこは"えた(穢多)"と呼ばれる食肉処理、や皮革加工に従事する人が住む地区でした。

また、そうした歴史的背景を持つことから戦後には大規模な"とば(屠殺場)"が運営され、最盛期には住民の8割が食肉関係の仕事に従事していたといいます。

ちなみに穢多差別は平安時代に始まったとされ、長く根強い差別の歴史を持つことが分かります。

しかし本書は部落差別による人権侵犯がメインテーマではありません。

貧しく、識字率も低い更池の路地において、自身の腕っぷしと才覚だけで成り上がってゆく1人の男の半生を描いたものです。

主人公は著者の実父でもある上原龍造であり、彼は昭和24年生まれの団塊世代です。

龍造少年は、中学生の年齢にして学校に通わず、多くの路地の住民がそうだったように"とば"で働いていましたが、わずか15歳にして牛刀を手にヤクザを追い回すという、近所で評判の突破者(とっぱもん)、つまり向こう意気の強い何をしでかすか分からない乱暴者として知られていました。

本書のストーリーを乱暴に表現すれば、昭和の不良漫画と任侠映画を足して二で割ったような内容ですが、舞台が"路地"や"とば"であるという描写にノンフィクションとしてのリアルさと迫力を感じます。
牛が引きずり出されると同時に、為野はいつものように、何のためらいもなく勢いよくハンマーを眉間に叩きこんだ。
「ここで可哀そうや、思たらアカンで。動物やから、牛もそれをわかってすがってくる。そうなったら手元が狂って打ち損じる。その方が余計に可哀そうや。だから一発で決めたらなアカン」
四五歳になる為野は、そう教えられてハンマーを振るってきた。
~省略~
もろに眉間を打たれた牛は、一瞬で失神し、脚を宙に浮かせドッと崩れ落ちる。途端に左側の扉が開けられ、倒れた牛はザーッと音を立てながら職人たちが待つ解体場へと滑り落ちてゆく。

「なあ、為野のおっちゃん。エッタってなんや」
「・・・・・・そんな難しいこと、おっちゃんにわかるわけないやろ。ワシら、昔からずっとエッタだのヨツだの言われるんや」

負けん気と度胸、そして腕っぷしだけを頼りに龍造少年は成り上がりを目指し、やがて職人修行を経て自分の店を持つことになります。

龍造の信念は至ってシンプルなものであり、「金さえあれば差別されない」というものでした。

ただし龍造の店が大きくなるにつれ、極道右翼部落解放同盟共産党など、利権を巡っての人物が現れます。

怒涛のようなストーリーは圧巻であり、ある意味で龍造の半生は歴史上の偉人よりも劇的だったといえます。

時代と歴史が生み出した人間の熱量と狂気のようなものが作品全体から漂っている1冊です。

サイレント・マイノリティ



西洋史を題材にした作品で知られる塩野七生氏によるエッセイです。

今までも塩野氏の小説やエッセイは多く読んできましたが、本書は1985年に彼女が作家として初めて手掛けたエッセイ集です。

そのためか今まで読んできたどのエッセイよりも歯切れが良く、何気ない日常を取り上げるというよりも、自分の考えをしっかりと主張しているといった印象を受けました。

それでも作家活動を始めると同時にイタリアに移り住んだ著者は、本書が発表された時点で15年もの間イタリアに在住している経験がありました。

その交友範囲もイタリアの文化人や政治家、実業家など多岐に渡り、彼らを題材にしたエッセイも何編か収録されています。

また彼女の作家としての考えが明確に示されているたエッセイも掲載されています。

いわゆる歴史小説家は有名になればなるほど、世間から史実と異なる部分を指摘されたり、またその史観が公平ではないといった類の批判の声は大きくなっていきます。

そして塩野氏も本ブログでも紹介した長編小説「ローマ人の物語」によって、一躍有名作家の仲間入りをした1人といえます。

塩野氏の執筆スタイルは、その大部分を文献集めや取材に費やすようで、できる限り史実に忠実な歴史小説を書くことを心がけているようです。

しかし1人の人間が膨大な史料すべてに目を通して、間違いをゼロにすることは歴史学者にさえ困難なことであり、それが作家であればなおさらです。

さらに付け加えるならば、研究結果や作品を世の中に送り出してから、ある史実の定説が覆されることも珍しくないのです。

それを充分に承知した上で、彼女は次のように結論付けています。
「小説」を書こうという意図のあるなしにかかわらず、取捨選択は絶対に必要なのである。いや、それだけでは充分でなく、想像力や推理の助けなしには、つなげようもないくらいなのだ。

歴史における国家の盛衰は、その国の国民の精神の衰微や、過去の成功に囚われ堕落してしまうことに起因するという説明は、一見すると説得力があるように思えます。

しかし彼女はヴェネツィア共和国の盛衰史を書いた「海の都の物語」を次のような仮設に基づいて執筆したと言っています。
国家であろうと民族であろうと、いずれもそれぞれ特有の魂(スピリット)を持っている。
そして、国家ないし民族の盛衰は、根本的にはこの魂に起因している。盛期には、このスピリットがポジティーブに働らき、衰退期には、同じものなのにネガティーブに作用することによって。


歴史小説というフィールドでは真実性も大事だが、同時に仮設を立てることも可能であり、最終的にそれが読者を楽しませるものかが問われるはずです。

そして塩野氏は、物語の奥行きを持たせるために、手の混んだ偽史料作りをして作品に登場させたこともあります。

それは専門家さえ欺くほどの手の混んだ偽史料であり、それは実在する史料を引用するよりも困難でした。

これにはイタズラ心もありましたが、その反響の大きさに少し反省した著者は次のように結んでいます。
少なくとも三年間は、偽史料づくりはしないと、と決心したのである。
三年間というのが、今年から続けて三年間にするか、それとも、1年ずつ飛び飛びにするかは、まだ決めていないのだけど。

その他にも作家としては珍しい自身の政治的信条を明らかにするエッセイがあったりと、もっとも新進気鋭だった頃の勢いを感じられる良いエッセイに仕上がっていると思います。

仕事と人生



三井住友銀行頭取、日本郵政社長を勤めた西川善文氏のインタビューをまとめた1冊です。

このインタビューは2013年から2014年にかけて行われたものであり、西川氏は惜しまれながらも2020年に死去しています。

インタビュー内容に応じて章立てされているようですが、どれも少し似通ったようなタイトルになっています。

  • 第1章 評価される人
  • 第2章 成長する人
  • 第3章 部下がついてくる人
  • 第4章 仕事ができる人
  • 第5章 成果を出す人
  • 第6章 危機に強い人

肝心の内容は典型的なビジネス書という感じで、インタビュー時点で完全に一線を退いていた西川氏が今までの経験から、優秀なビジネスマンに必要な要素を語るという形になっています。

西川氏の経歴の大部分はバンカー(銀行家)としてのものでしたが、本書で語られれている仕事へ取り組む姿勢、上司や部下との接し方などは、全てのビジネスマンにとっても当てはまるものであり、読みやすく頭に入りやすい内容です。

個人的に印象に残った部分として、三井住友銀行という巨大な組織においてスピード感を大切にしていたという点です。

組織が巨大になればなるほど意思決定は遅くなるものですが、西川氏は「スピードとは他のどんな付加価値よりも高い付加価値だ」という考えを持ち、バブル崩壊の際には迅速に不良債権の処理を行い、さくら銀行との合併の際にはいち早くコスト削減とリストラを実行し合併効果を挙げています。

スピードを上げるためには犠牲にするものも必要で、そのため100点満点を目指すのではなく、70点で手を打てれば御の字という経営を行ってきました。

確かに100点満点の成果を目指すために時間をかけるよりも、スピードを重視してその間に70点を何度も獲得した方が遥かに効率的だという点は私もまったく同意です。

もちろん高度な技術を要求される職人や他人の命を預かる医療従事者など、こうした例が当てはまらない職業も多いですが、多くのビジネスシーンに当てはまるのではないでしょうか。

次に見たくない現実こそ直視するという点です。

これは厳しい経営状況から目をそらさずに真正面から打開してゆくという局面に限らず、経営環境に追い風が吹いてうまくいっている状態が続いているとしても安泰に慢心したり安住することなく、良い状態はいつまでも続かないという不都合な現実から逃げずに、努力を継続するというものです。

1938年(昭和13年)生まれの西川氏には自分のバンカー人生に平時はほとんどなかったと振り返っています。

その中には耳障りの良いことばかりでなく、バンカーとして数々の企業が倒産した現場に立ち会い、経営者として多くの社員をリストラするといった決断もしてきたはずであり、本書では詳しく紹介されていない裏の現実にも思いを馳せて読んでゆく必要があると思います。