本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

磔(はりつけ)


解説には、「昭和44年~54年までの約10年間に書かれた吉村昭の短・中篇歴史小説五篇が集められている」とあります。

吉村昭といえば、当事者たちへのインタビューや当時の資料を元にしたして書かれた戦史小説、または記録小説という印象が強いのですが、かなりの数の長編歴史小説も発表しています。

そうした中で吉村氏の短編歴史小説を読むのは今回が初めてであり、新鮮な印象を受けます。

まず本のタイトルにもなっている「」では秀吉政権下で弾圧され、大阪から長崎へ連行され処刑されるキリシタンたちを扱っています。

頑なに棄教を拒み、苛酷な扱いを受けながらも神を信じ続ける彼らの姿を淡々と描いてゆく過程は、遠藤周作氏のキリスト教文学と驚くほど作風が似ています。

どちも作者が冷静な観察者に徹していますが、吉村氏がその後も同じ観察者、または記録者のような視点で幅広い題材を扱ってゆくことを考えると、この時期にスタイルが確立しつつあることを思わせます。

また同じく本書に収められている「動く牙」では、幕末において武田耕雲斎を首領とする水戸天狗党が上洛する途中で幕府に投降し、武士としての名誉ある切腹ではなく、まるで流れ作業のように次々と無残に斬首されてしまう出来事を扱っています。

時代や宗教・思想的な背景は異なりますが、いずれも時代の権力者によって抹殺された人びとを扱った点が興味深い作品です。


続いて「コロリ」では、明治初頭に安房で活動していた沼野玄昌という医師を主人公にしています。

まだ東洋医学が主流である時代にあって人体解剖を行い、積極的に西洋医学を取り入れた沼野は村で流行ったコロリ(コレラ)治療に奔走しますが、漁民たちの誤解によって殺害されるといった痛ましい事件を取り扱っています。

もし玄昌が東京で活動していれば名医として人生を全うできたかも知れないことを考えると、何か言いようのない虚しさが漂う作品です。

解体新書を完成させる過程を描いた前野良沢を主人公とした彼の代表作「冬の鷹」がほぼ同時期に発表されていることを考えると、双方の作品がそれぞれに及ぼした影響があるに違いありません。


残り2篇の「三色旗」、「洋船建造」では、江戸時代に日本を訪れた外国人を主人公にしています。

とくに「洋船建造」ではロシアのプチャーチンを扱っており、20年のちに彼とタフな折衝をくり返した川路聖謨を主人にした歴史長編小説「落日の宴」としてフルリニューアルされることを考えると感慨深い作品でもあります。


ともかく作家として歴史を扱うのであれば有名な人物や大きな事件を取り扱った方が商業的な成功を収めやすい中で、独自の視点でテーマを探し続けた吉村氏のスタイルが好みな私にとっては文句なしの1冊です。

幕末奇談


明治生まれの歴史小説家といえば吉川英治が国民的な人気作家であり、現代でもその知名度は抜群です。

一方で吉川英治とまったくの同年(明治25年)に生まれ、同じ歴史小説家として活躍した子母澤寛は現代においてそれほど知れられていないように思えます。

しかし例えば彼の代表作・新選組三部作を読めば、司馬遼太郎氏をはじめとしたのちに活躍した作家へ与えた影響がいかに大きかったかが分かります。

本書は大きく2つのエッセーの固まりで構成されており、前半が講演調(実際の講演内容を収録したのかも知れませんが)で書かれている幕末研究と題されているものです。

彼の史観は、幕末を官軍・賊軍と区別する無意味さを説き、政治上の意見を異にした者同士が確固たる信条と、そこへ多少の感情が交じりながらも遂に砲火をもって解決しただけの話だと主張し、さらに新撰組へ抱く暴力団のようなイメージも間違いだと指摘し、彼らは統制のとれた優秀な警察隊であったとします。

明治生まれの著者は、明治政府の母体となった官軍が礼賛される中で育ってきた世代であり、本書が執筆された昭和8年当時であってもそうした幕末史が主流であった中で、著者の考えがいかに先進的だったかは、逆に現代の読者である私たちが違和感なくそれを受け入れられることが証明しています。

著者は歴史家ではなく、あくまで作家として活動していましたが、実際に新撰組と身近に接していた人びとや元新撰組員の古老たちへ丁寧な取材を行い作品を書き上げてきました。

こればかりは後世の作家には真似の出来ない、著者の生まれた時代だからこそ与えられた特権であり、そうした経験の中で自らの歴史観をしっかりと形成してきたに違いありません。

そして後半には露宿洞雑筆という表題で、比較的自由なテーマの歴史エッセーが掲載されています。

たとえば渡世人の風俗や逸話といった話題を取り上げている箇所では、小金井小次郎国定忠治をはじめとした多くの侠客たちの逸話が収めされており、民俗学的な価値さえ感じられる内容になっています。

また時には当時流行った江戸怪談にも触れており、皿屋敷(更屋敷)四谷怪談にまつわる逸話や派生話を話題にしています。

さらには幕末のマニアックな剣豪談なども取り上げており、所々に著者が当時を知る古老から直接聞いた話が掲載されている点などは歴史ファンにとってたまらないのではないでしょうか。

クオリティ、そして本書に収めされているエピソードの希少価値ともに文句のない時代を超えた名作といえる1冊であり、歴史ファンであれば必読の1冊といえるでしょう。

木曽義仲 (読みなおす日本史)


原本は下出積與(しもでせきよ)氏の執筆で1966年に人物往来社から刊行されていますが、2016年に吉川弘文館から「読み直す日本史シリーズ」として再刊行されました。

すでに出版社が無くなり、入手困難になった良書を再発刊してくれるのは一読者の立場としてありがたいですが、社会的にも意義のある取り組みではないでしょうか。


源平時代(平家物語)の悲劇のヒーローといえば源義経が有名ですが、一方で本書で取り上げられている木曽義仲にスポットが当たる機会は少ないのではないでしょうか。

義仲は信州木曽谷における旗揚げ後、瞬く間に横田河原の戦いで勝利し越後を占領、そして倶利伽羅峠の戦い篠原の戦いで立て続けに平家の大軍(討伐軍)を撃破し、源氏勢力の中では北陸道からいち早く上洛に成功した武将です。

さらに鎌倉幕府を開くことになる源頼朝とは従兄弟の関係であり、源氏(つまり武士)の棟梁たる資格を持つ八幡太郎義家の直系でもあったのです。

本書では軍功、血筋ともに申し分なかった義仲がなぜ天下を制することができなかったのかを、その経歴を追いながら著者なりの見解で解説しています。

一族間の争いによって2歳の頃に父親を殺され、孤児として木曽の中原兼遠によって育てられますが、そんな義仲を著者は"自然児"と評しています。

また木曾四天王、女傑として有名な巴御前をはじめとした苦楽を共にする仲間にも恵まれます。

つまり彼は自然児だけに武人としては優秀であり、彼の配下にいる武将も頼朝陣営と比べても決して劣っていませんでした。


一方で義仲に足りなかったものは何か?

それを著者は、側近に"有能な政治顧問がいなかった"ことを挙げています。
たとえ義仲自身に教養が足りなかったとしても、側近として上洛した後の政治工作や人心収攬、外交政策を助言する人物に恵まれなかったのです。

一方で頼朝は軍人というよりも完全に政治家タイプの人物であり、京で大胆な行動に出る義仲を横目に、自らは着々と関東で地盤を固め世論を味方にする政治工作を続け、武将としての仕事は義経をはじめとした部下に殆ど任せていたと言ってもよいくらいです。

対立関係に陥った朝廷を徹底的に制裁し、旭将軍(征夷大将軍)となった義仲を著者は次のように哀れみとともに評しています。

ここにいたるまでの義仲の行動は、見た目にはいかにも滑稽である。まるで、喜劇の中の人物のようだ。しかしその実、この滑稽さの裡には、自然児義仲の深い悲しみがかくされているのである。
寿永ニ年の後半に、京洛でひろげられた人間喜劇は、まさに深刻な悲劇であった。誰に義仲の振舞を笑う資格があるであろうか。

本書は歴史書でありながらも著者の木曽義仲へ対する思い入れが読者へ伝わってくる内容であり、読み終わった時の感慨深さが歴史小説のようでもあります。

続 聞き出す力


週間漫画ゴラク」に連載されている吉田豪氏のコラム「聞き出す力」の続編です。

プロインタビュアーとして地下アイドルから大御所俳優まで幅広い人たちへインタビューしていることもあり、前作はその面白エピソードばかりが目に付きましたが、本作では前作のスタイルを引き継ぎつつも、より著者のインタビューにおけるスタンスや手法へ言及している印象を受けました。

趣味が一緒で意気投合できる相手へのインタビューであれば何の問題もありませんが、やはりインタビュアーとしての本領が発揮されるのは、自分との相性が悪い相手、性格的に厄介な相手、現場の空気が悪いケースなどではないでしょうか。

吉田氏はそんな悪条件の中でもインタビューを無難にまとめる技術があるのかと思えば、実際は違います。

彼が何よりも最優先にしていることはインタビューそのものを面白くすることであり、そのためには相手の"タブー"と言われている危険領域にも踏み込むスタンスを崩しません。

そこでポイントとなるのは、単純にタブーに触れてNGになるということであれば彼は単なる空気の読めない毒舌インタビュアーで終わってしまいます。
きちんと結果として相手の本音や知られざるエピソードを引き出すことに成功しているからこそ、彼が第一線で活躍し続けているのです。

吉田豪氏にとってインタビューとはプロレスであり、技を繰り出しそれを受けるといった応酬で成り立つものなのです。
つまりインタビューは聞き手と話し手の共同作業であり、息が合わなかったり油断していると時にはケガ(失敗)をしてしまうこともあり得る緊張感のあるものなのです。

本書を読んでいると、メディアで掲載されているスポーツ選手やアーチストなどへのインタビューの大半がいかに退屈でつまらない内容であるかを再認識させられます。

もちろんイメージ戦略やSNSが容易に炎上し、そのたびに"コンプライアンス尊守"が叫ばれる昨今を考えると、マネジメント側が吉田氏のようなスタイルへ目を光らせるという事情も分かりますが、やはり読者(視聴者)としては知らない本音やエピソードを聞ける方が楽しいのは揺るがない事実でもあるのです。

私自身に著者のようなインタビューの機会があるとはちょっと想像できませんが、それでもコミュニケーションのコツとして得るものはあるです。

「その日暮らし」の人類学


本書によれば(先進国を含む)私たち日本人は、フォーマルな経済圏で生活しているということになります。

ここでいうフォーマルとは、GDPなど政府統計に含まれる経済活動であることを意味し、市場競争の中で無駄を削ぎ落とし効率性を高め、最大の成果を追求し続けることが正しい価値観とされています。

一方でそこで働く人びとは、明日のため未来のために今を犠牲にすることを強いられている側面があります。分かり易く表現すれば、金銭的なゆとりを得るために時間的なゆとりを犠牲にしていると言えます。

私自身は社会人としてそこまで息苦しさを覚えている訳ではありませんが、多くの人たちがそうであるように住宅ローンや子どもの教育資金、老後の生活資金といったものと無縁ではいられないのも事実です。

そして世界中には政府の雇用に載らない、零細な自営業や日雇い労働に従事する人々が属するインフォーマル経済というものが存在します。

今までは就労貧困層として軽視されていた経済圏ですが、そこには世界中で18億人もの人々が属し、その経済規模は18兆円に達すると言われています。

膨大な人びとが所属するインフォーマル経済圏の規模が巨大であることが判明するにつれ、主流派経済(フォーマル経済)にとって無視できない存在となっているのです。

本書では、著者の小川さやか氏が人類学の視点からインフォーマル経済の実態を解き明かすとともに、彼らの生き方を"Living for Today(今を生きる)"をキーワードに探ってゆくというテーマで書かれています。

インフォーマルというだけあって単純に零細であるだけでなく、そこにはコピー品や模造品が堂々と流通しています。
彼らはこうした行為が社会的に違法であることは知っていても、道義的な違法性はまったく感じていません。

そこにはフォーマル経済で生活する人びとは違った理論、文化が存在するのです。

著者はインフォーマル経済を研究するためにタンザニアに赴き、そこで暮らす人びとに密着取材やインタビューを行っています。

彼らは流行の商品、デザインを敏感に察知し、資本を集中したり組織化することなく個人単位で参入してゆきます。
やがてその市場が飽和状態になると、また新しい商売を模索し始めるのです。

そこで何よりも注目すべきは経済的に貧しく将来の計画や補償も持たない人びとの暮らしが悲観的ではなく、前向きであるという点です。

日本ではブラック企業に代表されるように、本来であれば雇用や収入を保証してくれるはずの企業が不当に労働力を詐取するといった問題が取り上げられています。

安心と引き換えに将来が簡単に予測できてしまう生き方を選ぶか、不安的な未来のなかに生きる活力を見い出す人生を選ぶのかということになりますが、そこまで極端に捉える必要はなく、私たちの価値観・生き方を見つめ直すという点では良いきっかけを与えてくれる1冊です。