海の史劇
1904年(明治37)年9月5日、フィンランド湾のクロンスタット港においてロシア皇帝ニコライ二世が見つめる中、ロジェストヴェンスキー少将率いるバルチック艦隊が日本との決戦に向けて出港するところから本編は始まります。
本書は日露戦争における日本海海戦(対馬沖海戦)をクライマックスとする壮大な海戦史を綴った作品です。
500ページ以上にも及ぶ長編には、バルチック艦隊が喜望峰を経てアフリカ大陸を迂回し、はるばるウラジオストクを目指す過程、日本海軍が旅順要塞の攻略を含め、強大なロシア海軍を迎え撃つ過程が細かく記録されています。
日露戦争を題材にした小説といえば司馬遼太郎の「坂の上の雲」が有名ですが、日本からの視点を中心にして描いている点、歴史小説として人物にスポットを当てたアプローチを取っているのに対し、吉村昭氏の本作品はひたすら海戦の過程を記録してゆくスタイルで書かれています。
紀元前のサラミスの海戦、近代になってからのトラファルガーの海戦など、それまで世界史に残る海戦は西洋を中心に行われてきましたが、はじめて世界が注目する中で日本が人類史上最大の海戦を経験することになります。
それだけに日本、ロシア両国にとってこの戦いは単なる海戦ではなく、日露戦争の勝敗、つまり国運を賭けた規模で行われます。
これは軍事に留まらず、外交から経済まで国の総力を挙げた決戦であることを意味し、両艦隊を率いる司令官(東郷平八郎、ロジェストヴェンスキー)の責任はとてつもなく重いものでした。
例えば「坂の上の雲」で日露戦争に興味を持ち、その海戦の過程を詳しく知りたいという読者にとって本書は歴史専門書のような堅苦しさもなく、物語のような形式で読み進められる点でお薦めできる作品です。
本書の優れている点は日本海軍が勝利を収めた場面で終わるのではなく、アメリカのルーズベルト大統領斡旋の元で行われた講和条約(ポーツマス条約)の調印に至る過程にも詳細に触れらている点です。
両国の全権大使である小林寿太郎、ヴィッテの交渉も難航を極め、お互いに国家指導者たちの意向や世論を背負って交渉を進めていく過程は、外交が武器を使わない戦争に例えられるように過酷なものです。
いずれにしても日本は戦争を継続する経済力がほとんど尽きている状態であり、これ以上の戦争継続が不可能であることは、首相、大臣そして軍の参謀に至るまで一致した意見だったのです。
一方、強固な姿勢のロシアにも帝政に反対する勢力によって国内情勢が悪化しており、戦争継続を主張するのは皇帝と一部の側近のみという状態でした。
この作品を通じて実感するのは、日露戦争において日本は完勝には程遠い、かろうじて判定勝ちしたに過ぎないことです。
戦争に費やされた膨大な労力と物資、そして何よりも多くの人命が失われたことに圧倒され、壮大な歴史小説のような感動ではなく、戦争の現実を考えさせられる1冊です。