本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

考えるヒント


しばしば昭和を代表する知識人、評論家として登場する小林秀雄氏のエッセイ集です。

本書の前半では文藝春秋、後半では新聞の紙面に掲載されたエッセイを文庫化したものであり、いずれも昭和30年台に執筆されたものです。

このとき小林は50~60歳に差し掛かっており、すでに日本を代表する評論家として活躍していた時期と一致しています。

正直に言うと"知識人"や"評論家"というとワイドショーのコメンテーターとして登場し、もっともらしい理論を振りかざす胡散臭い連中というイメージがあります。

それは作家のように作品を発表するという分かりやすい形で活動していないこと、他人を批評することを生業にしているという先入観があるせいかも知れません。

小林秀雄のもっともよく知られているのは文芸評論家としての顔ですが、思想や哲学、詩や和歌、美術品に至るまでその活動は多岐に渡っています。

実際、本書のエッセイで取り上げられたテーマを挙げると、

プラトン、井伏鱒二、漫画、フロイト、本居宣長、演劇、ヒトラー、平家物語、プルターク英雄伝、福沢諭吉、批評論、桜、ソヴェット(旧ソ連)など....

と特定のジャンルに限っていません。

ともかく著者の肩書きはどうであろうと、私自身にとって良い本とは、自分にはなかった新しい視点で物事を考えさせてくれる本です。

考えるヒント」というタイトル通り、まさしく本書はそうした視点をもたらしてくれる1冊です。

同時に自分がいかに漠然と浅はかに物事を考えていたということにも気付かされます。

評論家という職業は、評論対象を好き嫌いといった感情ではなく、熟考して価値を見い出すことであり、その思考の元になる豊富な経験や知識も欠かせません。

そうした意味では作品を創作する作家とは違った思考活動が要求される大変な職業ということも本書から伝わってきます、

もちろん掲載されているエッセイの中には賛同できない意見、そもそも私にとっては難解で理解の及ばないものも含まています。

いずれにしても本書に収められているエッセイからは、読む人によってさまざまなヒントを得ることが出来るはずです。


小説を読む時のクセで流れるよう読んでしまうと理論で順序立てられた文章の中身が頭に入ってきません。

1つ1つ自分の中で文章の意味や意図を理解するために時には読み返す作業が必要ですが、こうした読書も悪くありません。

歴史の舞台―文明のさまざま


本書は司馬遼太郎氏のエッセイ集ですが、大きく2つのパートに別れています。

前半は昭和52年の天山山脈周辺(今の新疆ウイグル自治区)への取材旅行を元にした紀行文になっています。
そして後半は週刊誌へ掲載された個別のエッセイが掲載されています。

中国を舞台とした歴史小説をよく読みますが、紀元前の春秋戦国時代より周辺の蛮族たちがしばしば襲撃してくる記載があります。

そうした蛮族たちの侵入を防ぐために始皇帝が築いた"万里の長城"は有名ですが、それ以前にも戦国七雄の1つとして北方にあったもかなり大規模な長城を築いています。

つまり長城の内側が中国史であり、その外側は蛮族たちが住む未開の地という印象を受けてしまいます。

さらに後世へ下ってゆくと、金、明、清といった王朝はすべて長城の外から侵入してきた民族が建てた国家であり、中国人(漢民族)側から見れば異民族に支配され続けた歴史だったといえるでしょう。

そもそも古代から北狄、西戎と侮蔑され、そして恐れられてきた蛮族たちですが、彼らの正体は広大な草原地帯で暮らしている遊牧民(=騎馬民族)です。

遊牧は古代ギリシアの歴史家ヘロドトスも記録に残したイラン系のスキタイ人によって始められたとされ、その移動手段として欠かせない騎馬の技術や道具も発明しています。

やがてそれが東方に伝わり、中央・北アジア一帯に遊牧文化が根付いたとされます。

これは広大な地域と多数の民族が入り混じった世界規模の歴史ですが、彼らの殆どが文字で歴史を残すという習性を持たなかったため、草原を舞台に歴史は分かりずらいものになっています。

著者もそうした記録だけでは追えない現地の雰囲気を肌で感じるために取材旅行に訪れたのだと思います。

実際、新疆ウイグル自治区は「民俗の博物館」と言われるほど多くの民族を見かけるそうです。

つまりコーカソイド (いわゆる白人)からモンゴロイド、あるいはその中間(混血?)にあたる人たちが昔から同じ町で暮らしているのです。

著者は歴史小説家という職業柄、どこを訪れても常に現在だけを見るのではなく、過去とのつながりの中で人びとと交流し観察する習性を持っています。

そのため本書を読んでゆくと、草原を舞台に歴史を歩んできた人びとへ対する共感が生れるとともに、今まで馴染みの薄かった中央アジアの歴史、つまり中国史からは蛮族とされてきた人びとを身近に感じるようになります。

乾いた草原とどこまでも広がる青い空、そして遙か遠くに雪を抱く山々を背景に馬で駈けてゆく遊牧民たち。

それは紀元前から大差ない風景が今でも生き続けている地域でもあるのです。

近代化された国土に住む日本人にとって憧れの風景であるとともに、なぜか懐かさしを感じる人も多いのではないでしょうか。

後半に収録されているエッセイも中国や朝鮮、そして中東を題材にした国際色豊かなテーマが多く選ばれており、前半の紀行文と関連性を持った編集がなされている点でまとまりがあり好感を持てます。

無名


ノンフィクションの第一人者である沢木耕太郎氏が自らの父親の介護、そして最期を看取るまでの体験を描いた作品です。

父親が最初に倒れた時、すでに著者は40歳を過ぎており作家として揺るぎない地位を築いていました。
つまり油の乗り切った時期といえるでしょう。

一方で沢木氏はスポーツに関するノンフィクションを得意としており、アスリートという肉体的、精神的に研ぎ澄まされた特別な世界を題材にすることが多い作家でもありました。

しかし本作品では、年老いた父親を看取るという誰の身に起こってもおかしくない経験を題材にしています。
つまり客観的に見れば平凡な出来事を題材にしたといえるでしょう。

看病の様子や病状を細やかにそして客観的に描写するという作家としての冷静な観察眼が見られる一方で、父との思い出やその時の感情を前面に出して描くという対極的な手法が作品中に同居しているため長編にも関わらず、単調なリズムの介護日記にはなっていません。


子と親との関係は、親子の数だけあるといってもいいでしょう。

経済的な理由により好きで得意だった学問の道を諦めた経験を持つ父は、寡黙で物静かな人物だったようです。
また子として父親と争った経験も、親へ対する反抗期すら記憶に無いと告白しています。

それでも著者にとって父とは、世間的に無名な人生を送りつつも膨大な知識を持った畏怖する対象でした。

世間的に有名か無名かは関係なく、誰にとっても人間の一生は壮大な物語になるということを実感させてくれる作品です。

獅子吼


浅田次郎氏の短編小説が大好きなため本屋で未読作品を見かけると反射的に購入してしまいます。
そして本書もそんな作品の1冊です。

浅田氏の短編は歴史小説、または現代小説いずれかの形式で書かれますが、本書は後者の形式で6作品が収録されています。

各作品についてネタばれしない程度に簡単なレビューしてみたいと思います。

獅子吼

戦時下の動物園で飼われている、かつては草原を駆け回っていたライオンを擬人化した作品です。
浅田氏の作品の中では珍しい手法で書かれていますが、ライオンの持つ百獣の王としての誇り、そして悲しい運命を受け入れる姿が印象に残ります。


帰り道

主人公は集団就職で上京し工場の事務職で働く妙子という女性です。
職場のスキー同好会で新潟へ出かけ、その帰り道である夜行バスでの出来事が作品になっています。

今でこそ社員旅行や同好会といった活動は減りつつありますが、かつての職場には家族的な雰囲気があり、青春の舞台でもあった懐かしい時代があったのです。
昭和39年の東京オリンピックの翌年を舞台にノスタルジックな昭和人情小説に仕上がっています。

九泉閣へようこそ

伊豆の温泉街にある老舗旅館で起きた出来事をミステリー風の物語にしています。
"ミステリー風"と表現しましたが、普通のミステリーではなく、不思議な出来事に裏にある当事者たちの想いが丁寧に描かれています。

うきよご

面識の薄い腹ちがいの姉と弟が東京で出会う場面から始まり、弟が東大を目指して入寮する「駒場尚友寮」での出来事を中心に物語が構成されています。
昔の文学作品のような雰囲気があります。

流離人

かつて学徒動員された沢村老人が、配属先の満州で出会った不思議な老中佐との出会いを思い出として語るという構成で書かれています。
浅田氏の王道的な短編作品といえます。

ブルー・ブルー・スカイ

浅田氏の大好きなラスベガス、そしてカジノがテーマになっている作品です。
カジノといえば富豪や野心的なギャンブラーたちが集う場所というイメージがありますが、ユーモアと人情に包まれた爽やかな読了感が印象的です。


1冊の文庫本に映画作品が6つも収められているような贅沢な気分に浸ることができます。