談志最後の落語論
少し前に三遊亭円朝を扱った本を読んだこともあり、落語つながりで立川談志の本を手にとってみました。
談志の落語は映像でしか見たことはなく、生では見たことがありません。
もっとも私自身は落語ファンではなく、ごくたまに寄席へ訪れる程度であり、そもそも寄席への出演が禁止されている立川流の落語を聞ける可能性はありませんでした。
ちなみに有名な落語番組「笑点」についても滅多に見ることはありません。
そのため肩書で誰が真打ちかは分かりますが、落語通を唸らせる名人についても私自身はまったく判断できません。
寄席には出演しない立川談志でしたが、独演会という形で各地で開催される公演ではチケットが高額で転売されるほど人気があり、熱心なファンが多いことで有名でした。
一方で一般的には、談志は口が悪い、気難しいというイメージがあり、ともかく一筋縄ではいかない人物だったことは確かです。
そんな談志が亡くなったのが2011年、本書が出版されたのが2009年と考えると最晩年に近い時期の著書といえるでしょう。
本書に限らず談志がこだわったのは、落語そのものを定義しようとしたことです。
「落語とは、人間の業の肯定である」
「落語とは、非常識の肯定である」
特に前者は有名な言葉ですが、いかに落語を上手く演るかという次元ではなく、落語そのものを本質から突き詰めようとしていたことが伺えます。
古今の落語家を引き合いにして落語論を展開してゆきますが、談志が認める落語家はごく一部であり、大方がマイナス評価という手厳しい結果になっています。
本書にか書かれている落語独自の間合いや、その笑いの質というのは初心者にとって難解であり、そもそも文字で表せる性質ではないのかも知れませんが、それでもヒントになりそうな言葉が幾つか登場します。
その1つが、落語の雰囲気から発生する「落語リアリズム」であり、また昔から育んできた「江戸っ子の了見に合うもの」ということになります。
落語家の突然変異のように言われる談志ですが、こうした伝統芸能の根底にあるものを重んじていた姿勢が見えてきます。
それは同時に落語を聞く側にも、江戸の空気や、そこに登場する人物の心理を理解することが求められるということになります。
逆に言えば、そうした価値が分かっていない落語家、それを笑う観客は談志にとって落語ではなく、場違いのイヤらしい芸ということになるのです。
私なりに解釈すれば、前提条件として演者と観客が共通の世界観を持った上で楽しむのが落語ということになります。
その前提に立つと談志の次の言葉も単純に傲慢とは言い切れなくなり、彼のプライドが言わしめたと捉えることができます。
「談志が"いい"と称(い)うものを、"いい"と言う客だけが談志を聴きにくればいい。それを"否"と言う人は、どうぞご自由にお帰りください。おいでにならなくも結構です」
落語界の未来を心配していた談志でしたが、この頃はすでに半分あきらめの心境になっていたのが残念な点です。