アメリカ黒人史
タイトルはシンプルに「アメリカ黒人史」となっていますが、15世紀にはじまるヨーロッパとアフリカ人の出会いを奴隷制度の起源とし、本書が発売された2020年現在までの歴史を扱うという、まさしくタイトル通りの壮大な内容になっています。
本書は以下の目次で構成されています。
- 第1章 アフリカの自由民からアフリカの奴隷へ
- 第2章 奴隷としての生活
- 第3章 南北戦争と再建(1861~1877)
- 第4章 「ジム・クロウ」とその時代(1877~1940)
- 第5章 第二の「大移動」から公民権運動まで(1940~1968)
- 第6章 公民権運動後からオバマ政権まで(1968~2017)
- 第7章 アメリカ黒人の現在と未来
著者のジェームス・M・バーダマンはアメリカ文化史を専門とする学者ですが、本書の目的を次のように述べています。
本書は、日本人がアメリカ黒人の歴史についていかに知らないことが多いかを、また黒人の歴史がアメリカの歴史の根幹に関わるものであり、人種差別の根深さそのものを体現していることを明らかにするものである。
根深い問題だけに新書1冊ですべてを語ることは不可能ですが、それでも本書からはアメリカ黒人の歩んできた苦難の歴史を俯瞰して追うことができます。
世界史では奴隷貿易(三角貿易)、奴隷を解放した南北戦争、そして1950年代半ばから1960年代に盛んになった公民権運動といった程度にその歴史をなぞるが現状であり、学校では本書で触れられている多くのことを学ぶことはできません。
さらに言えば、2014年に武装していない黒人の若者を白人警官が射殺した事件(マイケル・ブラウン射殺事件)、それによって起こった抗議運動と暴動(ファーガソン暴動)も、まさしくアメリカ黒人史そのものの延長線上にあることが分かります。
そして残念なことに制度としての奴隷制度は消滅しても、今も多くの分野において間違いなくアメリカ黒人をはじめとした人種差別が存在し続けていることを意味しています。
タイトル通り、本書はアメリカ黒人の視点から描かれた内容だけに気が重く深刻な内容が多いですが、それでも一筋の光明が差し込む場面があります。
しかし歴史はそんな単純なものではなく、問題解消に向けて1歩進んだかと思うと、また半歩戻るといったことを100年以上も繰り返していることが分かります。
今も続く人種差別の現実に対して、著者は読者へ対してもなかり厳しい言葉を投げかけています。
「レイシズム(人種差別主義)」という言葉に中立性はない。
「レイシスト(人種差別主義者)」の反対語は「非レイシスト」ではない。
その反対語は、「反レイシスト」であり、それは、権力や政策や個々人の態度のなかに問題の根幹を見出し、解体しようと行動する者のことである。
「反レイシズム」は異なる「人種」の人びとを理解しようとする絶え間ない試みであり、レイシズムに向き合わない、ただの「人種にたいする受動的な態度」である「カラー・ブラインド」になることではない。
これをわかり易く言えば、著者は次のような態度の日本人をも批判していることになります。
「私は日本人だから白人のように黒人を差別的には見ていない」
ちなみにアメリカでは以下の有名な言葉があります。
If you are not part of the solution, you are part of the problem.
(もしあなたが解決の一部でなければ、あなたは問題の一部である。)
これは問題解決へ積極的に働きかけない人は、問題そのものの一部に含まれるという、日和見主義者を批判した言葉です。
つまり断固としてレイシストを許さないという態度と行動のみが、人種差別を根絶する解決策となりえるのです。
皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)
中世ヨーロッパ諸国の共通した想いとして、聖地イェルサレムをイスラム教徒から奪還し、キリスト教徒たちの手に取り戻すことが悲願とされてきました。
そしてそのための手段として十字軍を諸国へ促していたのが、キリスト教徒の頂点に君臨していた教皇です。
神聖ローマ帝国皇帝、そしてシチリア王国の国王としてヨーロッパ随一の実力を誇っていたフリードリッヒ二世の元には、当然のように十字軍遠征の要請が来ることになります。
しかし若くして受け継いだ自国の基盤固めを最優先事項としていたフリードリッヒ二世は、なかなか腰を上げようとはしませんでした。
そもそもフリードリッヒ二世は自国のイスラム教徒に寛容な政策をとっており、彼らとの交易、西方からの技術や学問を取り入れることによる利益の方を重視しており、本来ならば十字軍を率いる最高責任者であるべき本人が、その熱狂から醒めていたのです。
それが原因でフリードリッヒ二世は教皇ホノリウス3世から破門されることになりますが、なんと破門された状態で第6次十字軍へ重い腰を上げることになります。
フリードリッヒ二世はなんの勝算もなく、泥沼化しがちで国力を疲弊する十字軍を実行する人間ではありませんでした。
十字軍出発前から当時のアイユーブ朝のスルタンであるアル=カーミルとの間に友好的な関係を築いており、なんと外交交渉だけでイェルサレムを無血開城してしまうのです。
犠牲者も国力の疲弊も最小限に食い止めて大きな成果を上げたフリードリッヒ二世ですが、これをイスラム教徒との妥協の産物だとした教皇側はその業績をまったく認めず、破門を解くこともありませんでした。
ちなみにフリードリッヒのあとに溢れんばかりの宗教的情熱を持って十字軍を率いたフランス国王ルイ9世は、イスラム軍との戦闘で自分自身含めた兵士全員が捕虜となる大敗北を喫し、イェルサレム含めたすべての占領地を放棄し、莫大な身代金を支払う羽目になります。
彼は何一つ成果を挙げれなかったにも関わらず、軍事力によって勇敢にイスラム教徒へ立ち向かったという事実だけでのちに聖人に列せられることになります。
合理性、そして人道的立場から見てもフリードリッヒの上げた成果の方が称賛されるべきですが、前に述べたように中世ヨーロッパを支配していた価値観から見れば当然の結果でもあったのです。
それゆえフリードリッヒはのちの時代に「玉座に座った最初の近代人」と評されることになりますが、まさに結果を出し続けることによって、たとえ破門されようとも、多くの人びとが彼に従い続けたこともまた事実です。
フリードリッヒはキリスト教的世界観に縛らずに科学や文学を探求できる大学の創設、古代ローマ帝国以来の法治国家を目指す「メルフィ憲章」の制定など、多くの実績を残していますが、これはアイデアやビジョンだけでは実現できないことです。
フリードリッヒは人使いが荒いことでも知られていたようですが、自身も玉座を温める暇が無いほど各地を奔走し続け、大企業の社長並の激務をこなしていた実行の人でもあったのです。
皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)
中世ヨーロッパには各地に封建領主が存在しており、彼らを束ねるようにして国王という存在がありました。
国王も実質的には封建領主の1人であることには変わらず、武家が日本各地を支配し、彼らの棟梁として将軍が存在していた当時の日本と状況は似ていると言えます。
ただし大きく異なるのは、キリスト教の最高指導者としてのローマの教皇がヨーロッパ全域に絶大な影響力を誇っていたという点です。
ルネッサンス、そして宗教改革が行われる前のヨーロッパの人びとは、ローマ教皇を頂点とするキリスト教的世界観の中で暮らしていたといえます。
それは国王とて例外ではなく、教皇には破門という伝家の宝刀がありました。
破門されるということは神の庇護を失い、死後の天国への道を閉ざされることを意味しましたが、現世においても破門された者が領するすべての地に住む領民は、服従の義務から解放され税を支払う必要がなくなるとされていました。
実際に神聖ローマ帝国の皇帝であるハインリヒ四世は破門された際、ローマで雪の降る中、粗末な修道服を着て裸足のまま断食と祈りを続けて許しを請うという羽目に陥り、カノッサの屈辱として世界史の中でも有名な出来事として知られています。
一方、本作品の主人公である神聖ローマ帝国皇帝・フリードリッヒ二世は、教皇の権力が強力だった時代に生涯3度も破門され、謝罪どころか法王と対立を続け、破門を解かれることなく亡くなった人物です。
単に破門を受けただけでは反骨心あふれる国王ということになりますが、特筆すべきは全ヨーロッパに君臨していた教皇を敵に回しつつ、神聖ローマ帝国をヨーロッパ随一の強国としてまとめ上げ、さらに南イタリアとシチリア島を支配するシチリア王国の国王をも兼ね続けていたという点です。
この中世ヨーロッパの価値観に真っ向から立ち向かった人物を取り上げた理由を著者である塩野七生氏は次のように紹介しています。
この中世的ではまったくなかったこの人が、誰と衝突し、何が原因で衝突をくり返したのかを追っていくことで、かえって「中世」という時代がわかってくるのではないでしょうか。
ちなみにフリードリッヒ二世は叩き上げで立身出世を果たした人間とは正反対で、その正統な血筋によって、わずか17歳にして帝国の皇帝、そして国王を兼任する地位に就きます。
フリードリッヒ二世はのちに類まれな外交と内政能力を発揮しますが、はじめからその能力が備わっていたわけではありません。
彼の両脇をチュートン騎士団長のヘルマンとパレルモの大司教ベラルドという一回り以上も年上の有能な協力者が固めていたのです。
ちなみにチュートン騎士団はキリスト教の宗教騎士団であり、大司教は法王により任命される地位です。
つまり本来であればフリードリッヒ二世ではなく、教皇へ忠誠をつくすべき2人が生涯にわたり味方であり続けた点が大きかったといえます。
しかし2人の協力が盲目的だったわけではなく、彼の指導者としての優れた素質を見抜き、またその人間性に魅せられたからこその協力であったはずです。
中世ヨーロッパにおいて反逆者と言われながらも、当時の常識に囚われない自由な発想で時代を駆け抜けたフリードリッヒ二世の生涯を存分に楽しめる1冊です。
闇を裂く道
本書は大正7年に着工し、実に16年もの歳月をかけて完成した8キロもの長さを誇る丹那トンネル開通までの過程を小説にした作品です。
吉村昭氏によるトンネル工事の記録小説といえば「高熱隧道」が有名ですが、トンネルの知名度ということであれば東海道本線が通る丹那トンネルの方がはるかに有名です。
かつて東海道線は、神奈川県の国府津から静岡県の沼津間を走る現在の御殿場線を通っており、箱根の山を避けるように大きく北へ迂回していました。
東海道は江戸時代から日本にとって最大の幹線であり、この路線の効率化は国家規模の命題であったことは明らかでした。
そんな背景があり熱海口、三島口の両方からトンネル工事が開始されますが、当初は順調に工事が進んでゆきます。
しかし完成までに16年もの歳月を要したことから分かる通り、間もなく困難にぶつかることになります。
先人谷ダム建設のためのトンネル工事(高熱隧道)では、高熱の岩盤と熱水、そして雪崩に苦しめられましたが、丹那トンネル工事では大量の湧き水と軟弱な地盤が工事の行く手を阻みます。
トンネル工事で大量の湧き水処理に悪戦苦闘する一方で、その真上に位置する丹那盆地の湧き水が涸れ、住民たちは深刻な渇水問題に苦しむことになります。
そしてトンネル工事にとって軟弱な地盤は、硬い岩盤以上に厄介な存在であり、工事従事者たちが「山が抜ける」と表現する軟弱な地盤が地中の土石を支えきれずに発生する崩壊事故の危険性がありました。
そして大正9年に何よりも恐れられてた大規模な崩壊事故が発生することになります。
この事故では16名が命を失い、さらに17名の作業員が退路を絶たれて地中に閉じ込めるという事態が発生します。
真っ暗闇の中で徐々に酸素が尽きてゆくという絶望感、一方で不眠不休で必死に彼らを救出しようとする模様が作品から重苦しく伝わってきます。
崩壊事故はその後も発生し、最終的に丹那トンネルが開通するまでに67名もの犠牲者を出す難工事となります。
今までで東海道新幹線を利用して神奈川~静岡の県境間に長いトンネルがあることは何となく意識していましたが、こうした難工事の上に成り立っている便利さであるということまでに思いを馳せることはありませんでした。
慰霊碑だけでは伝わらない先人たちと自然との闘いの記録が本作品には収録されており、後世に読み継がれる本であってほしいと思います。
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