皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)
中世ヨーロッパ諸国の共通した想いとして、聖地イェルサレムをイスラム教徒から奪還し、キリスト教徒たちの手に取り戻すことが悲願とされてきました。
そしてそのための手段として十字軍を諸国へ促していたのが、キリスト教徒の頂点に君臨していた教皇です。
神聖ローマ帝国皇帝、そしてシチリア王国の国王としてヨーロッパ随一の実力を誇っていたフリードリッヒ二世の元には、当然のように十字軍遠征の要請が来ることになります。
しかし若くして受け継いだ自国の基盤固めを最優先事項としていたフリードリッヒ二世は、なかなか腰を上げようとはしませんでした。
そもそもフリードリッヒ二世は自国のイスラム教徒に寛容な政策をとっており、彼らとの交易、西方からの技術や学問を取り入れることによる利益の方を重視しており、本来ならば十字軍を率いる最高責任者であるべき本人が、その熱狂から醒めていたのです。
それが原因でフリードリッヒ二世は教皇ホノリウス3世から破門されることになりますが、なんと破門された状態で第6次十字軍へ重い腰を上げることになります。
フリードリッヒ二世はなんの勝算もなく、泥沼化しがちで国力を疲弊する十字軍を実行する人間ではありませんでした。
十字軍出発前から当時のアイユーブ朝のスルタンであるアル=カーミルとの間に友好的な関係を築いており、なんと外交交渉だけでイェルサレムを無血開城してしまうのです。
犠牲者も国力の疲弊も最小限に食い止めて大きな成果を上げたフリードリッヒ二世ですが、これをイスラム教徒との妥協の産物だとした教皇側はその業績をまったく認めず、破門を解くこともありませんでした。
ちなみにフリードリッヒのあとに溢れんばかりの宗教的情熱を持って十字軍を率いたフランス国王ルイ9世は、イスラム軍との戦闘で自分自身含めた兵士全員が捕虜となる大敗北を喫し、イェルサレム含めたすべての占領地を放棄し、莫大な身代金を支払う羽目になります。
彼は何一つ成果を挙げれなかったにも関わらず、軍事力によって勇敢にイスラム教徒へ立ち向かったという事実だけでのちに聖人に列せられることになります。
合理性、そして人道的立場から見てもフリードリッヒの上げた成果の方が称賛されるべきですが、前に述べたように中世ヨーロッパを支配していた価値観から見れば当然の結果でもあったのです。
それゆえフリードリッヒはのちの時代に「玉座に座った最初の近代人」と評されることになりますが、まさに結果を出し続けることによって、たとえ破門されようとも、多くの人びとが彼に従い続けたこともまた事実です。
フリードリッヒはキリスト教的世界観に縛らずに科学や文学を探求できる大学の創設、古代ローマ帝国以来の法治国家を目指す「メルフィ憲章」の制定など、多くの実績を残していますが、これはアイデアやビジョンだけでは実現できないことです。
フリードリッヒは人使いが荒いことでも知られていたようですが、自身も玉座を温める暇が無いほど各地を奔走し続け、大企業の社長並の激務をこなしていた実行の人でもあったのです。