旅行鞄のなか
著者の吉村昭氏は、いわゆる書斎に籠もって小説を構想して執筆するタイプの作家ではありません。
彼の執筆スタイルは記録小説と言われる通り、史実に基づいた作品を書くことで知られています。
そのため小説の舞台となった場所を訪れ、丹念に記録を調べ、関係者への取材を行うために、必然的に取材旅行の機会が多くなるフィールドワークを重視するタイプの作家といえます。
本書はそうした旅先で出会った人びと、グルメや酒のことなどをエッセーとしてまとめた1冊です。
作家として長年に渡り活躍してきた著者の取材旅行スタイルは確立しており、本書によるとおおよそ次のようなものです。
<昼間>
図書館、古書店などをまわったり、人に会って小説の背景になる地へ案内してもらったりする。
<夕方以降>
ホテルに戻って入浴し、街へでかける。
地元の小料理店風のカウンターで地酒を飲み、その後に中流程度のバーに入り、最後にホテルにもどってバーでウィスキーの水割りを三、四杯飲んで就寝する。
長年の旅行取材によって培われた経験と勘で、期待はずれの店を物色してしまうことはないといいます。
また本書ではまったく触れられていませんが、かなりお酒が強かったと思わせるエピソードが幾つかあり、著者の意外な側面を見ることができます。
加えて本書には旅以外のエピソードも収めされています。
読者から作品の誤りを修正されたときにはお礼の返事を書く、原稿の締切には一度も遅れたことがないというエピソードからは著者の几帳面な性格が伺えますし、少年時代からの読書遍歴や交友関係といったエピソードからも人間としての輪郭が見えてきます。
客観的に見れば、まるでブログのようなたわいのない話題ばかりですが、それでも好きな作家のエピソードは読んでいて味わい深くて楽しいものなのです。