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天狗争乱



吉村昭氏が手掛けた幕末の水戸天狗党を扱った歴史小説です。

当時の時代背景を知っておいた方がこの作品を楽しめるので簡単に解説してみたいと思います。

まず幕末の黒船来航、そして江戸幕府瓦解に至る一連の流れの根底には、一貫して尊王攘夷の考えが大きな原動力になっていました。

"尊王"とはたとえ将軍であろうとも、日本が一致団結して国力を高めるために天皇を尊ぶという思想です。

"攘夷"とは通商を求める西洋諸国の狙いが日本の植民地化にあるとして開国に反対する政治的な方針です。

元来、尊皇攘夷というスローガンに徳川政権の打倒という意味は含まれていませんでしたが、独断で日米和親条約を締結した幕府への批判がエスカレートしてゆき、やがて最終的に倒幕という考えに発展してゆきます。

この尊皇攘夷の考えの支柱となり全国的に広く知らしめたのが、徳川政権の中枢ともいえる御三家の1つ水戸藩主の徳川斉昭や同じく水戸藩の学者・藤田東湖であり、のちに維新を成功させることになる薩摩藩や長州藩に先駆けて幕末で注目を集めた藩であるといえます。

現実的には水戸藩も一枚岩ではなく、従来の幕府体制を支持する保守派、尊皇攘夷を段階的に進めてゆこうとする穏健派、早急に実力行使で攘夷を実現しようとする過激派に分かれていました。

一時期は過激派がもっとも勢力を持ち、彼らの一派が大老井伊直弼を暗殺する桜田門外の変を成功させますが、幕府からの処罰、藩主斉昭の永蟄居(永久追放)そして病死、藤田東湖の事故死によって次第に勢力を失ってゆきます。

それでも水戸藩内の過激派が全滅した訳ではなく、元々政治勢力として存在していた天狗党を東湖の息子である藤田小四郎らが中心となり過激な武力集団として再編成してゆくのです。

武装した天狗党は水戸藩が公認した軍ではなく、いわば私兵であり、軍資金などを後援者からの寄付、そして各地の豪商から巻き上げる形で調達し、筑波山を拠点に1000名を超える勢力にまで成長します。

天狗党の中でももっとも血の気の多い田中愿蔵(たなか げんぞう)率いる別働隊は金品を強奪したうえで宿場に放火するといった事件を引き起こし、やがて幕府や周辺の藩から討伐軍が派遣される事態にまでに発展します。

薩摩藩や長州藩は日本の西部に位置しているため徳川幕府のお膝元からは遠く、彼らの軍事行動は蛤御門の変(禁門の変)のように、せいぜい朝廷のある京都が舞台となる程度でした。

しかし天狗党は江戸と同じ関東平野で挙兵した武力勢力であること、また水戸藩が認めた軍ではないことから、幕府はすぐに直接的な武力行使を決断します。

結果的に天狗党の決起は早すぎたということになり、彼らの最期は悲劇で終わることになります。
時期さえ間違わなければ彼らが維新の元勲として名を連ねる可能性もあったと思います。

しかしながら一方で、桜田門外の変、天狗党の争乱といった水戸藩から生まれた尊皇攘夷のエネルギーが維新を大きく前進させたことも間違いありません。

ちなみに水戸藩は天狗党の全滅により尊王攘夷派が完全に下火になり、戊辰戦争の段階になっても藩内の混乱が続き、結果的に明治政府樹立にも目立った人物を排出することはありませんでした。

これは過激だったゆえに有能な尊王攘夷派の人物がことごとく死に絶えてしまい、人材が完全に払拭してしまったことが原因です。

本作品には天狗党の設立から彼らの政治的・軍事的行動がこと細やかに記録されており、この1冊を読めば天狗党のすべてが分かるといっていい1冊です。

その分600ページ以上ある大作となっていますが、幕末ファンにとって必見の作品です。