降霊会の夜
浅田次郎氏が得意としている怪異譚です。
死者が幽霊となって現れて恨みを晴らそうとするのならばホラー小説となりますが、浅田氏の小説に登場する幽霊や霊魂は、死んだ人間と生きている人間との間にあった絆をテーマにしたものが多く、死んだ人間と生き続ける人との間の家族愛や恋愛、友情を題材にした感動的な作品は、多くの読者の支持を得ています。
作品の主人公は軽井沢の別荘で余生を過ごす初老を迎えた男性です。
作品中で主人公の具体的な年齢には言及されていませんが、若い頃は青春を謳歌し、また壮年期をエネルギッシュに過ごしたのちに一線を引き、平穏な生活を手に入れ、自らの人生をゆっっくりと振り返ることの出来る時間を持つことのできる60代半ばの男性というのが私の想像です。
彼はふとしたきっかけで軽井沢に昔から住んでいるという会うことになったミセス・ジョーンズと出会うことになります。
彼女は霊媒師であり、主人公に向かって次のように説明するのです。
「ご承知置きください」
~ 中略 ~
「あなたのお会いしたい人が、必ず来て下さるとは限らないのです。どなたがおいでになろうが、お疑いにならないで。そして、よくお考え下さい。誰であろうと、あなたの知っている人にはちがいないのです。」
そして主人公の少年時代、学生時代の閉ざされた記憶が、目の前に降臨した霊魂が語る真実によって徐々にこじ開けられてゆくのです。。
とにかくそこからは息つく間もない怒涛の浅田ワールドが全開で繰り広げられます。
これから先のストーリー内容を紹介することは控えますが、本書を読み終えて感じたことだけを書いてみようと思います。
多くの子どもがそうであるように、私も例外なく少年の頃には心霊現象や超常現象に怖いながらも興味を持った1人です。
やがて大人になり現実の世界が忙しくなると、多くの大人たち同様にそういったものへの関心が薄らいでいきました。
それでも人間が生きている時間は長くともせいぜい100年以内であり、今でも死後の世界に対しては多少の興味を持ち続けています。
自分が何歳で死ぬのかは別として、その時にまったく後悔が無い人生を送ってきたと断言できる自信はありませんし、きっとこの世に残すことになる人たちを心配しながらあの世に行く自分を容易に想像できます。
そして死後も"想い"や"意思"のようなものを持ち続けることが可能であるならば、生きている立場としてそれを聞くのは少し怖い気がしますが、自分が死者の立場だとしたら嬉しい気がします。
本当の想いをお互い生きているうちに伝えるのがベストですが、やはりそこは人間であり、プライドや立場が邪魔をしてなかなか素直になれないのが宿命なのかも知れません。
お腹召しませ
浅田次郎氏による江戸末期から幕末を舞台に武士を主人公とした6篇の短編小説が収められている文庫本です。
浅田氏の作品には武士を主人公にしたものを多く見かけますが、"武士"という人種へシリアスに迫った作品もあれば、ユーモラスに描いた作品もあり、本作品は後者に当てはまります。
私自身、たとえば今年の大河ドラマの主人公・真田幸村(信繁)のような戦国時代に活躍した武将には憧れる部分がありますが、江戸時代の武士に対する憧れは持てません。
もちろん江戸時代にも立派な武士は存在しましたが、江戸幕府は巨大な官僚組織でもあり、武家諸法度に代表される堅苦しい決まり事や伝統によって、一挙手一投足まで監視されているような息苦しさを個人的には感じてしまいます。
それも家康によって天下統一がなされ、世の中に平和が訪れた結果として先祖から授かった家名を子孫に引き継ぐ安定性が何より重視される価値観となったからです。
その中にあって本書に登場する主人公たちは、当時の規則や伝統から多かれ少なかれはみ出すことになる武士たちであり、物語の時代背景を江戸末期としたのも今ままでの制度が形骸化してゆき、新しい時代と価値観の登場を予感させるためです。
本書のタイトルにもなっている短編「お腹召しませ」の主人公・高津又兵衛もその1人です。
彼の入婿(養子)であり当主でもある与十郎が、公金に手を付けて吉原の女郎とともに逐電するという事件が発生します。
これが一族の恥となるのはもちろんですが、それだけでは済まないのが武士の世界です。
その罪は一門に及び、家禄を召し上げられ追放という処分もあり得るのです。
この一家離散の危機を唯一救う手段が、若隠居となっていた又兵衛の切腹です。
上司も家族も、そして何よりも又兵衛自身がそれを当然のように受け入れますが、そこから紆余曲折が始まることになり、結末は作品を読んでのお楽しみです。
本書の作品を執筆するにあたり、昭和26年生まれの著者が明治30年生まれの祖父から幼少の頃に聞いた昔話が大きく影響したようです。
祖父の少年期には多くの"元武士"が存命していたはずであり、その祖父から昔話を夜な夜な聞くことの出来た著者を少し羨ましいと感じるのは私だけではないはずです。
ルポ 労働と戦争―この国のいまと未来
「労働と戦争」という重々しいタイトルですが、"労働"という視点から憲法第九条の存在意義を問うノンフィクションです。
(少なくとも名目上は)軍隊を持たない日本人の大部分が、現実に起っている戦争、つまり人を殺戮することを目的とした仕事に従事しているという認識を持っていないはずです。
一方で兵器がどんどんハイテク化してゆく中で、技術や部品が複雑化してゆき、普通の電子機器に使われる半導体すらも兵器に転用されている時代になっています。
これをどこまでも突き詰めればキリがありませんが、著者の島本慈子氏が本書で取り上げる例はもう少し具体的な例です。
すなわち在日米軍基地を職場とする日本人、自衛隊に部品を納入しているメーカーで働く派遣社員などへのインタービューを通じて、軍事産業へ従事する労働者の意識、そして彼らの労働現場を明らかにしてゆきます。
実際に在日米軍基地からイラクやアフガニスタンへ出撃した海兵隊は、大きな戦果を上げると同時に、誤爆によって罪のない民間人をも巻き込んでいます。
また後方支援、復興支援とはいえ自衛隊にも海外派遣の実績があり、安保関連法案の可決によりその活動範囲がさらに広がるのは間違いありません。
それでも憲法第九条の存在、つまり軍隊を持たず「専守防衛」のためのみに武力を行使するという意識は、軍需産業に関わる日本人にとって大きな支えとなっており、日本の平和を守る仕事に従事しているという意識が支えになっていることが伺われます。
一方で著者は「九条が消える日」という章の中で、「日本が侵略のための軍事力を名実ともに認めた時に労働現場で何が起こるのか?」という仮説を各分野の専門家とのインタビューを通じて導き出しています。
たとえば人口比率で考えると、アメリカでは日本の30倍もの労働者が軍需関連で働いていますが、日本の優れた科学技術は軍事にも転用が容易なこともあり、兵器の国内生産が増加することで、この差が確実に縮まることを指摘しています。
すでに協力要請によって自衛隊員の輸送を行った前例があるそうですが、日本の民間航空機が強制的に軍事輸送に使用されることが予想され、これにより民間機が敵国の標的とされる危険性が挙げられています。
さらに最も身近な例として、空爆やミサイルの弾道計算に必要な気象情報が軍事機密に属する情報であることは世界的な常識であり、戦況によっては敵国への情報漏えいを防ぐため天気予報が国民に公開されなくなる危険性さえ指摘しています。
これは単なる仮定ではなく、実際に太平洋戦争当時には同じような情報統制が敷かれ、防災情報よりも軍事機密が優先された結果として、台風によって多くの犠牲者を出した過去があります。
つまり日本が軍隊を持つことによって軍事上の理由から、民間企業の活動に多くの規制がかかることは容易に想像できます。
またアメリカでは退役軍人への保証金や障害手当金によって膨大な国家予算が費やされており、すでに多くの借金を抱える日本ににとっても財政を圧迫するのは必定であり、増税のみならず、年金や医療、教育といった分野へしわ寄せが来ることも確実でしょう。
インターネット1つとってみても政府が監視・盗聴するデータの範囲が拡大する可能性は高く、言論の自由の重要な手段となりつつあるインターネットの世界も大きく変化するはずです。
とくに日本人の勤勉さは、時に規制を徹底させる点においても発揮されることがしばしばであり、是非ともそういう世の中にはなってほしくないものです。
最後に印象に残った部分として、1機あたり100億円もの戦闘機を次々と配備する自衛隊にある種の疑問を感じているという自衛官のインタビューを一部抜粋します。
「だからこの軍拡、軍備の競争というものは、どこで終わりになるのか、それが見えないという気持ちがありますね。世界中みんなが『もうやめた』といったら、それが一番いいんでしょうが、なかなかそうはならないし。現実に妙なことをする国もありますしね」
~ 中略 ~
「一番いいたいことは、みんなにもっと関心を持ってほしいということだ」
「この国をどうすると、それを決めるのは国民でしょう。もちろん、自衛隊をもっと強くするという道もある。それはやめて、福祉とか教育とか他のことに予算を回してほしいという人もいるかもしれない。だから自衛隊のことをもっと知ってほしいんです。」
~ 以下略 ~
黄金の日日
本書を原作としたNHK大河ドラマが40年近く前に放映されたこともあり、城山三郎氏の代表作といえる歴史小説です。
商社マンや起業家を主人公にした経済小説の先駆者である城山氏ですが、本書の主人公は安土桃山時代に実在した商人・呂宋助左衛門(るそん すけざえもん)であり、戦国時代を舞台にした経済小説という見方もできます。
室町幕府が衰退し、群雄割拠の時代に突入してゆく中で、古い価値観が新しい価値観によって次々と塗り替えられてゆく現象が起こります。
その"新しい価値観"を代表するのが織田信長といった武将であり、外国から伝播したキリスト教や鉄砲であり、またそれらを製造・流通させた商人であったのです。
言うまでもなく信長や秀吉は戦国武将として有名ですが、彼らに覇権をもたらした軍事力はイコール経済力であり、その経済力を支えたのが堺を中心とした商人たちの力であったのは多くの歴史研究家たちによって言及されています。
一方で彼ら商人にスポットを当てた歴史小説は戦国武将のそれと比べて少ないのも事実です。
天王寺屋宗及(津田宗及)、今井宗久といった豪商らが大名を膨大な金銀や鉄砲、弾薬を流通、製造することにより戦争の行方を左右するほどの影響力を持ち、千利休や山上宗二といった商人出身の茶人たちが思想や哲学面で大きな影響を与え、時には政治顧問としても活躍する一方、小西隆佐・行長親子のように商人として、また武将として活躍する者さえ登場しました。
助左衛門もそうした堺の商人の1人であり、本作品では今井宗久の手代として登場します。
作品全体を通して感じるのは、堺の会合衆を中心とした商人の視点から激動の時代を描くことによって、新しい時代の到来を感じさせる自由な雰囲気です。
利にさとい商人は、当然のように武士や農民たちより新しいものや珍しいものに敏感であり、彼らに勝るとも劣らない感性を持った天才的な武将・織田信長が登場して時代の寵児となってゆきます。
彼らはそんな信長に賭けることによって大きな利益を得て、時代の最先端を切り開いてゆきます。
当時は他にも武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった優れた武将がいましたが、彼らの持つ価値観は従来の(中世から続く)武士のそれであり、仮に彼らが天下を統一しても商人たちが重宝されることはなかったでしょう。
助右衛門は冒険心旺盛な商人であり、信長や秀吉からの仕官の誘いを断り、大海原へ漕ぎ出し海外交易によって巨万の富を築く野望を持っていました。
一度は船が大破し漂流するという経験をしますが、それでも助右衛門は夢を諦めきれず、多くの出資者たちの援助もあり、当時の貿易中継基地として有名だったルソン(フィリピン)との交易を成功させます。
やがて助右衛門は自らの名前も、"納屋"から"呂宋"に改めることになります。
しかし信長が本能寺の変で倒れ、秀吉による天下統一によって秩序が確立するとともに自由な雰囲気が失われてゆきます。
今井宗久たちは引退し、千利休や山上宗二といった茶人たちは秀吉によって処刑され、やがてキリスト教が禁止されることによって自由を求める助左衛門たちの居場所が狭まってゆきます。
作品中では助左衛門の身近に、石川五右衛門や善住坊といった権力に縛られない無頼漢たちが仲間として登場します。
またキリスト教の敬虔な信者として高山右近、助左衛門が想い寄せる美緒がヒロイン役として登場しますが、いずれも助左衛門とともに時代に翻弄されてゆくのです。
最終的に故郷である日本を捨て、ルソンへ渡って永住を決心する助左衛門ですが、そこに至るまでの波乱の物語は読者の心を捉えて離しません。
スケールの壮大さ、ロマンス、そしてストーリー構成どれをとっても傑作と呼べる作品であり、歴史小説ファンにとって必読の書です。
愛国論
ジャーナリスト・田原総一朗氏と作家・百田尚樹氏の対談を1冊の本にまとめたものです。
どちらも各分野で著名な人物ですが、こうした対談本はテーマこそあれど、本質的にはTVやラジオの対談と変わらないため、ストーリーを気にせずサクサク読むことができます。
ちなみに本対談は、田原氏が百田氏に呼びかけるという形で実現したものです。
はじめは百田氏の小説「永遠の0」の執筆背景といった無難な話題から入ってゆき、大東亜戦争の歴史的な捉え方、敗戦からGHQ占領下で日本人に植え付けられた自虐史観、つまり日本の侵略戦争が多くの罪を犯したという贖罪意識が社会全体へ及ぼした影響という大きなテーマに入ってゆきます。
後半に入ると、時事的な隣国(韓国、中国)との関係、朝日新聞に代表されるマスメディアの問題に言及してゆき、そして最後に「愛国論」で対談が締めくくられます。
対談本によってその人物の意外な一面を知ることもありますが、本書に登場する2人はメディアに頻繁に登場していることもあり、そのイメージが大きくが変わることはなく、それぞれの立場や信条に沿っての対談に終始しているようです。
つまり田原氏はジャーナリストらしく、時には自分の主張を押し出すことはあっても、基本的には対談のリード役ということもあり、比較的視野の広い発言で終始している一方、百田氏は作家らしく個性を全面的に押し出した発言が目立ちます。
よってお互いが意気投合するタイプの対談ではありませんが、かといって激しく論争を繰り広げるタイプの対談でもありません。
お互いの意見の相違を受け入れた上で淡々と進行してゆく部分が紙面の関係があるとは言え、すこし中途半端な印象になってしまったのは否めません。
それでも韓国の反日運動について「韓国併合以後に善意でやったことが全部、裏目に出た」、中国との尖閣諸島の領有問題については「ダラダラと交渉していればいい」といったような、テレビや新聞といったメディアではお目にかかれない部分で両者の意見が一致するなど、興味深い部分もあります。
各分野の第一線で活躍する2人の対談という意味では話題性もあり、彼らが歴史認識や時事問題をどのように捉えているのかを知るのに最適な本だといえます。
さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記
本書には井伏鱒二氏の歴史小説が3編収められています。
- さざなみ軍記
- ジョン万次郎漂流記
- 二つの話
はじめの「さざなみ軍記」は「平家物語」を題材にしています。
木曽義仲の入京により都から西へ落ち延びる平家一行。
その中の若き公家が陣中で綴り続けた軍記を現代語に訳して掲載するといった体裁をとった小説です。
この公家は三位中将(平重衡)の息子として登場しますが、ともかく平氏有数の勢力を誇った家で育った少年が、都を脱出せざるを得ない境遇に転落する中で、彼らを護衛し、また再起を図ろうとする武士たちと行動を共にしてゆく過程で人間的に成長してゆく過程が描かれています。
実戦を経験したことのない少年が身分上の関係で武士たちを指揮しなければならない状況となり、はじめは軍からの脱走さえ考えていると日記の中で告白しています。
しかし聡明な少年は、自分たちが時代の流れに取り残され没落しつつある階級であることを自覚しながらも歴戦の侍大将(小豪族の頭領)たちの勇敢さ、知恵を目の当たりにする中で、少しずつ成長してゆくのです。
読者が、戦乱の時代に書き残された日記から少年の成長を感じてゆくという、歴史小説としては斬新な試みで書かれているお薦めの作品です。
続いての「ジョン万次郎漂流記」は一転してオーソドックスな歴史小説の手法で書かれています。
つまり残された資料を丹念に追い、不明な部分のみを著者の想像力で埋めてゆく方法です。
贅肉を削ぎ落とした無駄のない構成であり、わずか100ページの中にジョン万次郎の生涯を余すことなく書き綴ったという印象があります。
ジョン万次郎の生涯を小説を通じて知りたい人であれば、本作品を読むだけで充分だと言えます。
最後の「二つの話」は著者が2人の少年と共に、過去へタイムスリップするという面白い構成をとっています。
SFと童話と歴史小説が入り混じったような雰囲気があり、終戦直後に執筆された背景を考えると、疎開先から東京へ戻ってきた著者の、重苦しさから解放された自由な心境が作品に反映されているのかも知れません。
どの作品も個性的で味わいがあり、文豪・井伏鱒二氏の歴史小説がコンパクトに文庫本にまとまった贅沢な1冊です。
折口信夫天皇論集
本書は『折口信夫全集』17,18,19,20を底本とし、基本的に新仮名遣いにあらためましたと解説されています。
つまり本書は民俗学者として著名な折口信夫氏の作品をテーマを絞って選定し、手軽に文庫本として楽しめるようにしたものです。
その目次は以下のようになっています。
I
- 女帝考
- 神道の友人よ
- 民族教より人類教へ
- 神道宗教化の意義
- 神道の新しい方向
Ⅱ
- 大嘗祭の本義(別稿)
- 御即位式と大嘗祭と
- 穀物の神を殺す行事
Ⅲ
- 原始信仰
- 剣と玉
- 皇子誕生の物語
- 大倭宮廷のそう業期
Ⅳ
- 道徳の発生
- 民族史観における他界概念
題名に「天皇論」とありますが、天皇の起源や存在意義に深く迫ったものではなく、これからの神道が目指すべき方向、皇室行事の起源、古代の天皇が持っていた権威などに幅広く言及しており、彼の確立した「折口学」のエッセンスが随所に散りばめられています。
私自身、民俗学や国学に詳しいわけではありませんが、専門的な単語が出てくる箇所もあり、最低限として「古事記」、「日本書紀」あたりの内容が頭に入っている読者を対象に書かれているように思えます。
正直、1回の読了では折口氏の主張を消化しきれない部分がありますが、印象に残った部分として、古代日本人の死生観、もっと正しく表現するならば、魂というものをどのように捉えていたかについて考察している箇所です。
それを本書から抜粋すると以下のように書かれています。
古代の我が祖先達は、人間のたましいと言うものは人間の肉体の中に滞在するものではなくて、たましいの居る場所から或期間だけ、仮に人間の体内に宿るものと考えて居たのであるが、其外来魂(外部のたましいの常在所から人間の肉体内に入り来る魂)即ち西洋で言うまなあをたましいと呼んで居たのである。
さらに古代には死と生の概念が明らかに線引きされていなかったのです。
つまり肉体内から魂が去った状態、たとえば呆けてしまおうが、完全に肉体が活動を停止していようが(←これが現代でいう死)、古代人にとっては同じことを意味していたようです。
これは人間や動物のみならず、道具や場所に対しても同じように魂(または精霊)が宿ると考えていました。
そういう意味では、穀物(農作物)が実るのもそこに魂が宿るためと考えていたのであり、それを収穫によって摘み取るという概念は古代日本のみならず、古代のエジプトやヨーロッパ全域でも同じように考えられていたと紹介する「穀物の神を殺す行事」の章などは興味深い部分です。
比較的古代からの慣習が残る沖縄においては、現代も魂が抜けることを「マブヤーを落とす」と表現し、ユタ(沖縄地方独自の霊媒師)の祈祷による回復が必要だということを沖縄関連の書籍で読んだことがありますが、古代日本人の持っていた感覚と比較的近いかも知れません。
科学や医学といった技術の進歩により現代人は多くの恩恵を受けるようになりましたが、古代人の持っていた"人間が生きる上で本質的に必要な何か"を失ってしまったのかも知れず、そのヒントを神道の中から探しだそうとし、またそれを復興しようとしたのが折口氏のライフワークであったのです。
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