お腹召しませ
浅田次郎氏による江戸末期から幕末を舞台に武士を主人公とした6篇の短編小説が収められている文庫本です。
浅田氏の作品には武士を主人公にしたものを多く見かけますが、"武士"という人種へシリアスに迫った作品もあれば、ユーモラスに描いた作品もあり、本作品は後者に当てはまります。
私自身、たとえば今年の大河ドラマの主人公・真田幸村(信繁)のような戦国時代に活躍した武将には憧れる部分がありますが、江戸時代の武士に対する憧れは持てません。
もちろん江戸時代にも立派な武士は存在しましたが、江戸幕府は巨大な官僚組織でもあり、武家諸法度に代表される堅苦しい決まり事や伝統によって、一挙手一投足まで監視されているような息苦しさを個人的には感じてしまいます。
それも家康によって天下統一がなされ、世の中に平和が訪れた結果として先祖から授かった家名を子孫に引き継ぐ安定性が何より重視される価値観となったからです。
その中にあって本書に登場する主人公たちは、当時の規則や伝統から多かれ少なかれはみ出すことになる武士たちであり、物語の時代背景を江戸末期としたのも今ままでの制度が形骸化してゆき、新しい時代と価値観の登場を予感させるためです。
本書のタイトルにもなっている短編「お腹召しませ」の主人公・高津又兵衛もその1人です。
彼の入婿(養子)であり当主でもある与十郎が、公金に手を付けて吉原の女郎とともに逐電するという事件が発生します。
これが一族の恥となるのはもちろんですが、それだけでは済まないのが武士の世界です。
その罪は一門に及び、家禄を召し上げられ追放という処分もあり得るのです。
この一家離散の危機を唯一救う手段が、若隠居となっていた又兵衛の切腹です。
上司も家族も、そして何よりも又兵衛自身がそれを当然のように受け入れますが、そこから紆余曲折が始まることになり、結末は作品を読んでのお楽しみです。
本書の作品を執筆するにあたり、昭和26年生まれの著者が明治30年生まれの祖父から幼少の頃に聞いた昔話が大きく影響したようです。
祖父の少年期には多くの"元武士"が存命していたはずであり、その祖父から昔話を夜な夜な聞くことの出来た著者を少し羨ましいと感じるのは私だけではないはずです。