折口信夫天皇論集
本書は『折口信夫全集』17,18,19,20を底本とし、基本的に新仮名遣いにあらためましたと解説されています。
つまり本書は民俗学者として著名な折口信夫氏の作品をテーマを絞って選定し、手軽に文庫本として楽しめるようにしたものです。
その目次は以下のようになっています。
I
- 女帝考
- 神道の友人よ
- 民族教より人類教へ
- 神道宗教化の意義
- 神道の新しい方向
Ⅱ
- 大嘗祭の本義(別稿)
- 御即位式と大嘗祭と
- 穀物の神を殺す行事
Ⅲ
- 原始信仰
- 剣と玉
- 皇子誕生の物語
- 大倭宮廷のそう業期
Ⅳ
- 道徳の発生
- 民族史観における他界概念
題名に「天皇論」とありますが、天皇の起源や存在意義に深く迫ったものではなく、これからの神道が目指すべき方向、皇室行事の起源、古代の天皇が持っていた権威などに幅広く言及しており、彼の確立した「折口学」のエッセンスが随所に散りばめられています。
私自身、民俗学や国学に詳しいわけではありませんが、専門的な単語が出てくる箇所もあり、最低限として「古事記」、「日本書紀」あたりの内容が頭に入っている読者を対象に書かれているように思えます。
正直、1回の読了では折口氏の主張を消化しきれない部分がありますが、印象に残った部分として、古代日本人の死生観、もっと正しく表現するならば、魂というものをどのように捉えていたかについて考察している箇所です。
それを本書から抜粋すると以下のように書かれています。
古代の我が祖先達は、人間のたましいと言うものは人間の肉体の中に滞在するものではなくて、たましいの居る場所から或期間だけ、仮に人間の体内に宿るものと考えて居たのであるが、其外来魂(外部のたましいの常在所から人間の肉体内に入り来る魂)即ち西洋で言うまなあをたましいと呼んで居たのである。
さらに古代には死と生の概念が明らかに線引きされていなかったのです。
つまり肉体内から魂が去った状態、たとえば呆けてしまおうが、完全に肉体が活動を停止していようが(←これが現代でいう死)、古代人にとっては同じことを意味していたようです。
これは人間や動物のみならず、道具や場所に対しても同じように魂(または精霊)が宿ると考えていました。
そういう意味では、穀物(農作物)が実るのもそこに魂が宿るためと考えていたのであり、それを収穫によって摘み取るという概念は古代日本のみならず、古代のエジプトやヨーロッパ全域でも同じように考えられていたと紹介する「穀物の神を殺す行事」の章などは興味深い部分です。
比較的古代からの慣習が残る沖縄においては、現代も魂が抜けることを「マブヤーを落とす」と表現し、ユタ(沖縄地方独自の霊媒師)の祈祷による回復が必要だということを沖縄関連の書籍で読んだことがありますが、古代日本人の持っていた感覚と比較的近いかも知れません。
科学や医学といった技術の進歩により現代人は多くの恩恵を受けるようになりましたが、古代人の持っていた"人間が生きる上で本質的に必要な何か"を失ってしまったのかも知れず、そのヒントを神道の中から探しだそうとし、またそれを復興しようとしたのが折口氏のライフワークであったのです。