聞く力―心をひらく35のヒント
週刊文春で1993年5月から20年以上に渡り対談の連載を続けている阿川佐和子氏によるコミュニケーションの指南書です。
あいにく週刊文春は読んでいませんが、この連載は"対談"というより"インタビュー"の形式に近いようです。
一方で阿川氏はコミュニケーション学や弁論の専門家ではなく、今でもインタビューの前には緊張し、逃げ出したくなることもあるといいます。
つまり本書は学術的な書物ではなく、現場でインタビュアーとして実績を重ねてきた阿川氏自身の体験談でもあるのです。
専門家でもこれだけ多くの著名人たちにインタビューを続けてきた人は殆どいないはずであり、失敗からの学び、インタビュー相手から気付かされたこと、また多くの人たちのアドバイスを受けながら連載を続けてきた阿川氏であるだけに、彼女の解説する"聞く力"には一見の価値があるように思わせる説得力があります。
少し話を変えて、社会人として15年以上が経過している私自身についていえば、プレゼンテーションの場面でも過度な緊張をすることはなく、(自分なりの)コツは掴んでいるつもりです。
これは単純に経験と知識を蓄積してきた結果ですが、一方で阿川氏のようなインタビュアーとして仕事をする場面は皆無であり、相手の話を聞く場面には失礼の無いようには気を付けても特段の工夫はしていません。
しかしよく考えみると、対面によるコミュニケーションにおいて"話す"と"聞く"は同じくらいの頻度があっても不思議ではなく、聞く力を身に付けることは思った以上に重要なことかも知れません。
やや短絡的で即物的ですが、阿川氏のように仕事としてインタビューに従事していない私たちであっても"聞く力"を身に付けることのメリットは次のようなものが考えられます。
- 初対面の商談相手に好印象を持ってもらえる。
- 上司や部下から頼りがいのある相談相手として信頼され本音を話してもらえる。
- 何でも話せる円満な家庭を築ける。
- 異性(または同性)から好意を持たれやすい。
プレゼンテーションや営業指南の本では"伝える力"に重点を置きがちであり、自分からの一方的なコミュニケーションだけではどんなに雄弁であっても良好な関係を築くには限界があります。
「どんなに寡黙なひとでも自分の話を聞いてほしくない人はいない」、「素朴な質問を大切にする」といった本質的な部分から、「相づちの極意」、「なぐさめの言葉は二秒後に」などのテクニックに至るまでを自らの体験を踏まえながら平易な言葉で解説してくれるため、誰でもとっつきやすく読むことが出来ます。
またよく知られている通り著者の父親は作家の阿川弘之氏ですが、本書の最後に家族ぐるみで親交のあった遠藤周作氏との想い出が語られている部分はファンである私にとって嬉しいサプライズでした。
M/Tと森のフシギの物語
本書でやはり最初に目につくのは、タイトルにある"M/T"です。
この記号は作品中の早い段階で解説されており、Mは"matriarchy"の略、すなわち母系制、女家長制といった意味であり、Tは"trickster"の略、すなわち神話などで重要なキーマンとなるいたずら者といった意味があります。
後者の"トリックスター"は日本では馴染みの薄い存在ですが、元々はインディアンの伝承に起源を持ち、今でもアメリカのファンタジー小説において"トリックスター"は欠かせない存在として登場します。
またハリウッド映画で主人公の相棒(味方)として重要な役割を果たす"ひょうきん者"のキャラクターが多くの作品に登場しますが、これも個人的には"トリックスター"の延長線上にあるものだと思います。
本作品はある意味で大江健三郎氏の集大成となる長編小説であり、初期の内面的な私小説的という範疇を飛び越えた、著者(あるいは日本人)のルーツを神話というスケールで創作した作品です。
この壮大なスケールの物語を想像(または創造)するにあたって核となったのは、四国の山村で育った著者が少年時代に祖母から聞いた土地にまつわる昔話(いわゆる民間伝承)であり、これは日本書紀や古事記に代表される神話とはまったく異なるものです。
それは著者の生まれ育った村にある大木や大岩、川や遺構に刻み込まれた神話や先祖たちの物語であり、著者自身が彼らの子孫であることを明確に実感できるほど近い距離にあるものでした。
本書は祖母から伝え聞いた村の神話と歴史を"僕"(すなわち著者自身)が書きつけてゆくといったスタイルでストーリーが展開してゆきます。
しかも祖母は村の歴史をもっとも正確に語り伝える役割、すなわち正統な語り部ともいえる立場にあり、幼い頃より"僕"がその暗黙の後継者として聞き手を務めることになるのです。
その役割を"僕"は、大きい責任を背負わされている不安として感じながらも、次のようなやり取りから昔話がはじまるのでした。
僕が話を聞かされる際は、まず祖母の前に座って、次のように唱和しなければ、祖母はいつまでも口をつぐんだままなのです。
- とんとある話。あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?
- うん!
祖母が淡々と昔話を聴かせる姿、そしてそれを咀嚼しながら書き起こす"僕"の間には、民俗学的な視点も取り入れられておりストーリーの説得力が高められています。
この壮大な昔話は大きく前半と後半とに分かれています。
前半は、森のなかに村が創建されてゆくまでの過程であり、指導的な立場にあった「壊す人」と海賊の娘として彼をサポートしたオシコメ(オーバー)たちの話です。
村を建設する過程で「壊す人」たちは巨人化し、孫やひ孫が生まれ100歳を超えても頑強な肉体を維持し続けるといった人間離れした存在であり、村を世間から隔離したユートピアとして運営し続けましたが、やがて「壊す人」、そしてオシコメたちと村人たちが対立するようになり、創建者たちの時代は終わりを告げてゆきます。
村の創建時から「壊す人」を影からサポートし、彼の亡き後は変わりゆく村の暮らしの中で復古運動を唱え続けたオシコメこそが"M(matriarchy)"の象徴となります。
そして後半は、明治維新直前に村の指導者として活躍した亀井銘助の話です。
彼の溢れる行動力と敵を欺く策略はまさしく"T(trickster)"そのものであり、長らく人に知られることの無かった村が外の世界と公に接触し始めた時代でもあったのです。
そして最後に"僕"の両親たち含めた村人たち全員が関わった五十日戦争がエピソードとして添えられています。
本作品のスケールの大きな神話と伝承の物語は、もともと日本人が持っていた素朴な宇宙観や死生観、もっと簡単に表現すれば先祖から子孫へ受け継がれてゆくバトンのようなものをテーマにしているのです。
見るまえに跳べ
大江健三郎氏初期の短編が10作品収められてる文庫本です。
収録されている作品は以下の通りです。
- 奇妙な仕事
- 動物倉庫
- 運搬
- 鳩
- 見るまえに跳べ
- 鳥
- ここより他の場所
- 上機嫌
- 交代青年研究所
- 下降生活者
これら初期の作品の共通することですが、大江氏自身が若かったこともあり少年、または青年を主人公とした作品が目立ちます。
それも将来の夢を抱き青春を謳歌するといった希望に満ち溢れた若者の姿ではなく、内面的に抱える不安や焦燥感、時には未来を見失った絶望や無力感をクローズアップするといった形をとる点が特徴です。
また10作品のうち5作品で動物が登場する点も目につきます。
例えば大江氏の処女作である「奇妙な仕事」に登場する大学生の主人公は、病院で実験動物として飼育されていた150匹もの犬を屠殺するアルバイトに従事することになります。
手慣れた犬の屠殺人は作品中で"犬殺し"として登場し、棒を振り回して一撃で犬を屠ってゆきます。
主人公をはじめとした学生はそんな"犬殺し"をどこか軽蔑すると同時に、その熟練した腕前、そして毒を使わずに撲殺にこだわり続けるプライドを目の当たりにして敬意をも感じずにはいられなくなるのです。
つまり"犬殺し"の姿を通じて、子犬一匹さえ殺すことのできなかった主人公が"世間の広さ"を垣間見て内面的な変化を遂げてゆくのです。
そして同時に"大人の汚い世界"を知ることになるストーリーがわずか20ページの短編の中に凝縮されている点などは、若いながらも著者の才能を早くも感じられる作品になっています。
一方本書の表題作品でもある「見るまえに跳べ」は70ページほどの分量があり、短編としてはやや長い作品になっていますが、ここに登場する大学生の主人公は年上の女性の恋人(いわゆるヒモ)という無気力な生活を過ごす一方で、年下の女性とも交際し、やがて妊娠に至ってしまうという、やや複雑な構図を持った作品です。
やはり著者自身が若かったこともあり、"内面的な私小説"、あるいは"フィクショナルな自伝"といった大江氏初期の作品に共通した魅力に満ち溢れています。
遅れてきた青年
ある青年の前半生を描いた大江健三郎氏による長編小説です。
本書は二部構成になっています。
第一部では山村で生まれ育ち、その中で終戦を体験した少年期が、そして第二部では上京し東大生として過ごす青年期が描かれています。
しかも第一部と第二部の間には数年のブランクがあり、主人公はその間、教護院で過ごすという設定になっています。
外面上からは少年の頃に非行に走った主人公が一念発起して東大に合格し社会的成功を収める立身出世の物語ですが、実際の小説から受ける印象はだいぶ異なります。
タイトルの"遅れてきた"は、主人公が抱き続ける気持ちを表現したもので、より具体的には終戦(敗戦)によってアメリカの進駐軍によって占領され、戦争に参加する(戦場で天皇陛下のために勇敢に戦って死ぬ)機会を永遠に失ってしまった少年の行き場のない怒りや悲しみです。
それは東京という大都会で暮らすようになったのちも埋まらず、主人公の心情の不安さ、そして自由によってこの不安から解放されようとする渇望が、時には無謀ともいえるような行動につながってゆきます。
本作品は1962年に発表されていますが、著者はこの作品を1960年代の青年を読者に想定して書いたと解説にあります。
こうした若者たちへ対して反倫理的とも言える内容を含めて強烈なメッセージを伝える手法は、著者と同世代の作家である石原慎太郎氏と共通しています。
私にように1960年代に生まれてさえいない世代にとっては、若者が放つ強烈で混沌としたエネルギーは理解できても、本質的に主人公の持つ価値観に共感することが難しいように思えます。
ある時代を考察する上で、当時の若者たちへ大きな影響を与えた作品の1つという文学的な位置付けは出来ると思いますが、読者としては小説として純粋に楽しむことが出来れば充分ではないでしょうか。
大江氏は本作品を「フィクショナルな自伝」と紹介しており、自らの内的な体験を一青年の視線から描いている手法は、大江氏初期の作品に共通しています。
芽むしり仔撃ち
大江健三郎氏初期の代表的な作品です。
本ブログではじめて紹介する作家のため、大江氏について簡単に触れておきます。
石原慎太郎氏とほぼ同年代の作家であり、若くして芥川賞を受賞した点も似ています。
ただし大江氏は石原氏のように政治家としての道には進まず、作家として活動し続けた点は異なり、のちにノーベル文学賞を受賞した日本の代表的な文学者です。
本書は大戦末期、感化院(現代の少年院)の少年たちが山村に集団疎開するところからはじまります。
しかし村人たちは疫病の流行と共に村から避難し、谷間にかかる唯一の外界との交通手段であるトロッコを遮断して少年たちを陸の孤島に閉じ込めます。
見棄てられた少年たちは協力し合い村の中で自給自足の生活をはじめるのです。
有名なフランスの冒険小説「十五少年漂流記」とどこか似ていますが、戦時中という時代背景、そして村人たちが疫病を怖れ、また避難先での口減らしのため少年たちを意図的に村に置き去りにして孤立させるという設定からは、もっと暗い雰囲気が漂っています。
少年たちの他に、母を疫病で亡くし置き去りにされた村の少女、村はずれの朝鮮人部落で避難を拒んで村に居残り続けた李少年、山中に脱走し行方不明となっていた予科練の兵士といった登場人物が少年たちと深く関わってゆくことになります。
現実性よりもシチュエーションを重視した大胆な設定ですが、大江氏にとってはじめての長編小説ということもあり、その想像力を最大限に発揮して書かれた小説であるといえます。
また作品中に登場する村の様子や動植物の描写については、四国の山村で育った経歴を持つ大江氏だけあってリアリティ溢れるものになっています。
少し風変わりな本作品のタイトルについては、著者が少年の頃に村長に脅された次のような言葉に由来しているそうです。
「いいか、お前のような奴は、子どもの時分に締めころしたほうがいいんだ。できぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」
山奥に住む人間たちの排他的で差別的な意識、古い風習に固執する姿勢、外部の人間へ対する(それが感化院の少年であればより一層の)残酷な行為といったものを一貫して少年たちの目線から描いていますが、それは大江氏の少年の頃の記憶や印象が投影されたものであり、本書が冒険小説といえないのはもちろん、どこか私小説的な独特の雰囲気がある作品になっています。
登録:
投稿
(
Atom
)