今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

M/Tと森のフシギの物語

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

本書でやはり最初に目につくのは、タイトルにある"M/T"です。

この記号は作品中の早い段階で解説されており、Mは"matriarchy"の略、すなわち母系制、女家長制といった意味であり、Tは"trickster"の略、すなわち神話などで重要なキーマンとなるいたずら者といった意味があります。

後者の"トリックスター"は日本では馴染みの薄い存在ですが、元々はインディアンの伝承に起源を持ち、今でもアメリカのファンタジー小説において"トリックスター"は欠かせない存在として登場します。

またハリウッド映画で主人公の相棒(味方)として重要な役割を果たす"ひょうきん者"のキャラクターが多くの作品に登場しますが、これも個人的には"トリックスター"の延長線上にあるものだと思います。

本作品はある意味で大江健三郎氏の集大成となる長編小説であり、初期の内面的な私小説的という範疇を飛び越えた、著者(あるいは日本人)のルーツを神話というスケールで創作した作品です。

この壮大なスケールの物語を想像(または創造)するにあたって核となったのは、四国の山村で育った著者が少年時代に祖母から聞いた土地にまつわる昔話(いわゆる民間伝承)であり、これは日本書紀や古事記に代表される神話とはまったく異なるものです。

それは著者の生まれ育った村にある大木や大岩、川や遺構に刻み込まれた神話や先祖たちの物語であり、著者自身が彼らの子孫であることを明確に実感できるほど近い距離にあるものでした。

本書は祖母から伝え聞いた村の神話と歴史を""(すなわち著者自身)が書きつけてゆくといったスタイルでストーリーが展開してゆきます。

しかも祖母は村の歴史をもっとも正確に語り伝える役割、すなわち正統な語り部ともいえる立場にあり、幼い頃より"僕"がその暗黙の後継者として聞き手を務めることになるのです。

その役割を"僕"は、大きい責任を背負わされている不安として感じながらも、次のようなやり取りから昔話がはじまるのでした。

僕が話を聞かされる際は、まず祖母の前に座って、次のように唱和しなければ、祖母はいつまでも口をつぐんだままなのです。
- とんとある話。あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?
- うん!

祖母が淡々と昔話を聴かせる姿、そしてそれを咀嚼しながら書き起こす"僕"の間には、民俗学的な視点も取り入れられておりストーリーの説得力が高められています。

この壮大な昔話は大きく前半と後半とに分かれています。

前半は、森のなかに村が創建されてゆくまでの過程であり、指導的な立場にあった「壊す人」と海賊の娘として彼をサポートしたオシコメ(オーバー)たちの話です。

村を建設する過程で「壊す人」たちは巨人化し、孫やひ孫が生まれ100歳を超えても頑強な肉体を維持し続けるといった人間離れした存在であり、村を世間から隔離したユートピアとして運営し続けましたが、やがて「壊す人」、そしてオシコメたちと村人たちが対立するようになり、創建者たちの時代は終わりを告げてゆきます。

村の創建時から「壊す人」を影からサポートし、彼の亡き後は変わりゆく村の暮らしの中で復古運動を唱え続けたオシコメこそが"M(matriarchy)"の象徴となります。

そして後半は、明治維新直前に村の指導者として活躍した亀井銘助の話です。
彼の溢れる行動力と敵を欺く策略はまさしく"T(trickster)"そのものであり、長らく人に知られることの無かった村が外の世界と公に接触し始めた時代でもあったのです。

そして最後に"僕"の両親たち含めた村人たち全員が関わった五十日戦争がエピソードとして添えられています。

本作品のスケールの大きな神話と伝承の物語は、もともと日本人が持っていた素朴な宇宙観や死生観、もっと簡単に表現すれば先祖から子孫へ受け継がれてゆくバトンのようなものをテーマにしているのです。