彼の生きかた
主人公福本一平は、ドモリのため言葉が不自由で気の弱い少年であり、学校では友だちがなかなかできず、ウサギや犬などを世話して一緒に過ごす時間を楽しむ動物好きの少年でした。
そんな一平に理解を示し励ましてくれた秦直子先生の影響もあって、やがて彼はニホンザルを研究する動物学者になるのです。
一平は研究所で誰よりも熱心に活動しましたが、それは金や名声のためではなく、少年の頃からの純粋な動物好きな気持ちを持ち続けていたからです。
ここまでが物語の導入部ですが、山でサルの餌付け活動を行う一平の前にリゾート開発会社の専務である加納という男と、学生時代の級友であった朋子が偶然にも現れるところからストーリーが大きく動き出します。
その構図は人付き合いが苦手な無名の研究者(一平)と、富も権力も併せ持った大企業の専務(加納)の対立であり、2人をよく知る朋子はその対決を戸惑いながら見守るマドンナという形で描かれます。
しかしそれは弱者と強者の戦いであり、本来なら加納にとって一平は歯牙にもかけない存在であるにも関わらず、朋子という存在がその対立をいっそう深刻なものへとしてゆくのです。
キリスト教文学者としても知られる遠藤周作氏の作品は"殉教"をテーマとした作品も多く、必然的に"弱者"の視点から描かれることになります。
まさしくそれは本作の主人公(一平)にも当てはまり、武器を持たない弱者が必然的な敗北者となるか否かは、本作品を読んだ読者自身の感想に委ねられます。
ちなみに主人公には、 多くの困難に直面しながらニホンザルの研究に人生を捧げた間直之助氏という実在のモデルがあり、その影響もあって遠藤氏の作品としては珍しくキリスト教文学的な側面を意識して勘ぐらない限り、ほとんど感じることはありません。
また忘れてはならないのは、強者の立場として登場する加納はやや冷酷な側面はあるものの、必ずしも悪人ではなく頭の回転が早く精力的に仕事をこなす有能な大企業の実力者であるという点です。
一方で一平は世渡りが下手ながらも、自然の中でたくましく生きるニホンザルへ敬愛の念を抱き、その生態系を守るために全ての情熱を賭ける青年として登場します。
加納と大きく立場は異なるものの、信念という点では一平は決して加納に劣っていないのです。
遠藤氏の作品だけあって、一平や加納、そして朋子たち心理描写を丁寧に描き、ラストシーンに向かって綿密に物語が進行してゆきます。
最近のベストセラー作品などに見られる不自然な物語の飛躍は一切なく、長編小説のお手本のような完成度の高さです。
もし近ごろの小説に食傷気味の読者がいるなら、この40年前に発表された作品を是非読んで見ることをお薦めします。
※ちなみに現在"ドモリ"は放送禁止用語であり、"吃音"と言うのが正しいようです。
駅前旅館
井伏鱒二といえば昭和の大作家ですが、今は売り場スペースの限られた書店でその作品を見かけることはほとんどありません。
そのため古書店で井伏鱒二の作品を見かけた時などに少しずつ購入したりしていますが、本書も1ヶ月ほど前に会社近くの古書店で見つけた1冊です。
私自身はそれほど熱心な井伏鱒二ファンという訳ではありませんが、その作品が期待外れだったことはありません。
本書は著者が駅前の柊元(くきもと)旅館の番頭をしている生野平次へインタビューを行い、その生野が戦前から戦後にかけての駅前旅館の風景を自らの思い出とともに語ってゆくという設定をとっています。
古式な宿屋が電報で使う符牒の解説から始まり、日本各地から来る土地ごとの旅行客の気風、旅館の女中や板前、吉原遊郭、料亭に顔を出す芸者など、およそ旅館と関係のありそうな業界の風習がとりとめもなく語られてゆきます。
一方で当時の風習を伝えるだけでは、民俗学的な価値はあっても単調な小説になることは避けれません。
そこに生野自身の感情や精神、何よりも旅館の番頭としての気概が一緒に描かれることによって、当時の人びとの息遣いが聞こえてくるような生き生きとした小説作品へと変貌を遂げます。
まるで50年以上も前の東京の駅前旅館の風景がありありと頭に浮かぶようであり、たとえば修学旅行の学生たちによって賑わう活気ある旅館の情景が作品中で繰り広げられます。
さらに団体旅行やバスツアーの紹介によって得られるリベートの仕組み、客の呼び込み方のコツや銭を持っている客の見分け方など、番頭たちが生計を立てる上で欠かせない舞台裏についても臆面もなく独自の口調で語ってくれます。
話題が次々と切り替わるように見えて、小説の本筋にあるのは今も独身であろうと思われる番頭自身が色好みであることを告白し、そんな番頭が過去に経験した一途な淡い恋の思い出を断片的に語ってゆく部分です。
つまりインタビューを受けた番頭(生野平次)は、当時の旅館の様子を伝えながらも、同時に自らが歩んできた生き様についても熱心に語ってくれるのです。
小説としてのストーリー性も抜群でありながら、旅館の番頭という立場から見た市民たちの日常生活を生き生きと伝えてくれる、読んで得した気分になれる作品です。
カシオペアの丘で 下
引き続き、重松清氏の長編小説「カシオペアの丘で」の下巻をレビューしてゆきます。
後半は、医師から余命半年を宣告された主人公(シュン)が故郷に戻り、久しぶりに小学生時代の幼馴染たちと再会するところから始まります。
この物語にはシュンのほかにも不幸な運命を背負った人物が登場します。
その中の1人が川原さんであり、不幸な事件によって1人娘を失い、愛した妻にも裏切られるという体験を持っています。
川原さんは主人公よりも不幸な境遇にあるといってよいのですが、自らの人生に絶望している彼は、シュンが幼馴染のトシ、そしてトシの父親を殺したシュンの祖父・倉田千太郎と和解する、つまり許し合う場面に立ち会うための観察者という不思議な立ち位置で登場します。
もしシュンたちが相手を、そして自らを許すことが出来なければ、本作品の中でもっとも文学的(または哲学的)な生き方をしている川原さんは確実に"自殺"という手段を選んでいたはずです。
衰弱してゆくシュンを見守る家族たち、そしてトシをはじめとした幼馴染たちの姿を鮮明に描いていく過程で感動的な場面が幾つも登場しますが、個人的にはその傍らで控えめに佇む川原さんがつねに頭の片隅から離れませんでした。
この物語の登場人物たちは誰もが心や体に傷を持っていますが、それは小説という形で象徴的に描かれているだけであって、およそ過去に大なり小なり何らかの傷(後悔)を残している読者が大半のはずです。
つまり読者によって感情移入できる登場人物が違ってくるはずです。
感動巨編であると同時にエンターテイメント性の高い作品であり、そこに重松清氏の作品が読まれ続けられる理由があるような気がします。
カシオペアの丘で 上
著者の重松清氏は、何気ない日常を題材にして感動的な物語を創作するのが得意な作家という印象があります。
そうした意味では今回の物語の主人公はかなり特別です。
妻と小学生の息子と3人で都内に住む39歳の会社員である俊介(シュン)はごく普通の生活を送っていましたが、会社の健康診断で肺に悪性腫瘍、つまりガンが発見されます。
しかもガンはすでに手術の施しようがないほど進行し、医師から余命半年を宣告されてしまいます。
俊介は残された時間を意識した時に過去に捨てたはずの故郷が頭によぎります。
いつも一緒に遊んだかつての幼馴染、家業を継ぐのが嫌で飛び出した倉田家、そこには楽しかった、そして悲しい思い出が秘められていたのです。。。
死期を悟った主人公が故郷に戻り、自らの過去を精算してゆくというストーリーは映画の台本のようであり、上下巻800ページにも及ぶ長編小説になっています。
またこれだけの長編小説にも関わらず、主要な登場人物は主人公(シュン)とその家族、3人の幼馴染(トシ、ミッチョ、ユウ)、娘を事件で失い家族離散となってしまった川原さんなど10人程度であり、その分だけ中身の濃いストーリーになっているのも特徴です。
生き続ける人が死にゆく人へ、死んでゆく人が別れなければならない人へ何を残すことができるのか?
作品のテーマはとても重く、特に主人公と年齢や立場が近い私にとっては小説を通じて自分自身を意識せずにはいられない作品になっています。
ちなみにタイトルの「カシオペアの丘」とはシュンたちが小学生時代に星を見上げた場所であり、現在は幼馴染の1人であるトシが園長を務める故郷の遊園地です。
そこで全員が再会する時、止まっていた過去の時間が動き出します。。絶妙なタイミングで上巻が終わり、下巻を立て続けに手にとること間違いありません。
熱球
野球部のエースとして活躍し、甲子園まであと一歩というところまで行きながらチームメイトの起こした不祥事により夢を絶たれてしまう。。。やがて少年は故郷に失望し、東京で就職して家庭を築いて暮らしていた。
物語はそんな主人公(ヨージ)が1人娘とともに20年ぶりに故郷(周防市)へ戻ってきたところから始まります。
妻は学者としてアメリカ留学中で充実した時期を迎えている一方、ヨージは東京で仕事に行き詰まり、会社を辞めて無職で故郷に戻ってくるのです。
一度は故郷を捨てたヨージは懐かしさを感じる一方で、その空気はどこかよそよそしく、建て替えられて間もない実家は居心地の悪いものでした。
そこでかつての野球部のチームメイト、洋食屋の亀山、母校の野球部で監督をしている神野、そしてマネージャーの恭子と再会するところから、ヨージの日常が少しずつ変わり始めるのです。
結婚して子どもがいる40代目前の男性といえば仕事をバリバリとこなして、充実した毎日を過ごしていても不思議ではありません。
しかし本書に出てくる登場人物たちは、ヨージも含めどこか高校時代の挫折を引きずりながら日々を過ごしているという点で共通しています。
がむしゃらに白球を追い続けた高校球児としての青春は永遠に戻りませんが、それでも黒ずんで糸のほつれたボールに書かれた"熱球"の文字は彼らの記憶にしっかりと記憶に刻みつけられています。
学生時代に部活で汗を流した経験を持つ読者であれば、本ストーリーに共感できる部分が多いのではないでしょうか。
かくいう私もその1人ですが、厳しい練習を積み重ねてきたにも関わらず、試合に敗れた悔しさや挫折感、そうした経験が誰にもあるはずです。
物語の中で長年にわたり熱心に野球部を応援をしてくれたザワ爺が亡くなった時に野球部監督の神野が弔辞を読み上げる場面があります。
「高校野球とは・・・・シュウコウの野球とは、負けることに神髄があるんだと、わたくしたちはザワ爺から学びました。高校野球で勝ちつづけることのできる学校は、甲子園で優勝する一校しかありません。どこの学校も負けるのです。負けることが高校野球なのです。ザワ爺、あなたはわたくしたちに、負けても胸を張れ、と言いつづけてくださいました。負けることの尊さと素晴らしさを、わたくしたちに教えてくださいました。わたくしたちは、おとなになっても負けることばかりです。勝ちつづけている人など、きっと、誰もいません。・・・・(略)」
これは高校野球に限らず、ほとんどの部活に当てはまるはずであり、著者(重松清氏)の伝えたいメッセージはシンプルです。
つまり私たちの人生は大人になっても大小含めて多くの負け(失敗)の連続であり、それを受け入れながら前を向いて進むしかないのです。
それを本書はゆっくりと時間の流れる瀬戸内の町を舞台に、高校野球を題材にしたほろ苦い青春小説として伝えてくれるのです。
オー・マイ・ガアッ!
浅田次郎ファンであれば、彼のギャンブル好き、そして忙しい作家業のすき間を突いて敢行するラスベガスのカジノ通いは有名です。
本書はそんなラスベガスを舞台に、スロットマシンで史上最高額のジャックポット5400万ドルを引き当てた3人を主人公にした物語です。
私は当然のようにラスベガスへ行ったことはありませんが、ギャンブルのメッカであると同時にネオンに彩られた圧倒的な大金持ち、つまりセルブたちの街という印象があります。
しかし本書に登場する3人の主人公は人生につまずき、一発逆転に賭けてラスベガスのカジノを訪れ偶然にも出会うのです。
まずは大前剛(おおまえ・ごう)。
友人(共同創業者)に会社の金と10年間付き合った彼女を奪われ、失意のうちにラスベガスへ降り立ちます。
彼の名前をアメリカ人が発音するとタイトルと同じ響きになります。
そして梶野理沙。
キャリアウーマンだった彼女は衝動的に会社を辞め、辿り着いたラスベガスで娼婦としてその日暮らしを送っています。
もちろん彼女の苗字は"カジノ(casino)"にかかっています。
最後にジョン・キングスレイ。
海兵隊で「不死身のリトル・ジョン」として活躍したベトナム戦争の英雄は除隊後にアルコールに溺れ、家族も離散してしまい、人生最後の賭けに挑戦するためラスベガスを目指します。
前述した通り3人は史上最高額のジャックポットを引き当てますが、これが物語のクライマックではありません。むしろ、この空前の大金を目の前にして本当の物語が始まります。
主人公たち含めカジノネットワークを持つPGT社、ホテル・バリ・ハイ・カジノのオーナーやスタッフたちを巻き込んで、さまざまな人間ドラマが繰り広げられるのです。
やはり5400万ドルという現実離れしたジャックポットを話題の中心としているため、物語はシリアスな雰囲気ではなく、完全な喜劇として描かれています。
さらに色々な人間の喜怒哀楽がかなりのハイスピードで次々と繰り広げられますが、そこに人間がコントロールできない"運命"の存在を感じると同時に、金で買える幸せ、そして金で買えない幸せというテーマに迫ってゆきます。
数十億円の財産というのはちょっと想像がつきませんが、家のローンや教育費など現実的な金額を目の前にやりくりしている人たちにとってもお金の価値は普遍的なものではなく、必ずしも幸せの量と比例しないという当たり前のことを、この喜劇は再確認させてくれるのです。
ちなみに閑話休題のように挟み込まれている「ラスベガスは魂を解放する場所」と豪語する著者の私流トラベル・ガイドもストーリーの本筋とは別にかなり楽しく読めます。
ケルト神話と中世騎士物語
人類史上はじめてヨーローッパ全域を席巻した民族は、おそらくケルト人ではないでしょうか。
彼らは"文字"や"統一国家"という概念を持ちませんでしたが、強力な武器となる鉄の精錬法をいちはやく手に入れたことで、他の民族たちを瞬く間に制圧しました。
のちに神君と称えられることになるカエサルは、民族ごとに割拠していたケルト人(ガリア人)部族を次々と制圧してローマ帝国の礎を築き上げ、その過程は彼自身が執筆した有名な「ガリア戦記」に詳しく記されています。
しかしケルト人はカエサルによって根絶やしにされた訳ではありません。
むしろケルト人は、優等生と称されるほど積極的にローマ帝国(とその文化)へ同化していった民族でした。
一方ですべてのケルト人がローマによって征服された(=同化していった)わけではありません。
大ブリテン島のウェールズ、コンウォール、マン島、ブルターニュ(小ブリテン)、そしてアイルランドには今日なおケルト人の神話が息づいています。
本書はケルト人の神話を体系的に紹介してゆくのではなく、副題に"「他界」への旅と冒険"とある通り、ケルト人の死生観を通じてその精神世界を探ろうと試みた本です。
"他界"とは、キリスト教でいう"天国"、仏教でいうところの"極楽"や"地獄"であり、つまり死後の世界であると同時に、神々が住まう世界でもあるのです。
前述した通りケルト人は文字を持ちませんでした。
ドルイドと呼ばれる僧侶階級の人びとによって膨大な数の伝承が語り継がれるのみであり、そのほとんどは失われました。
しかし皮肉にも伝承の一部を文字として後世に残したのは、のちにケルト人へ布教を行ったキリスト教(異教)の修道士たちだったのです。
また修道士たちによって書き残された古伝承には、キリスト教的な概念が持ち込まれており、著者はケルト人の伝承の中から注意深くそれらを腑分けしようと試みています。
著者はケルト人の伝承の中にヨーロッパ文明の底層流に今なお生き続ける精神的伝統が横たわっていると考え、やがてケルト神話の背景から誕生したかの有名な「アーサー王伝説」を経て中世騎士の精神へと受け継がれていったと分析しています。
取り上げられている時代の幅は広いですが、本書で紹介されているケルト人伝承を挙げてみます。
- 「ブランの航海」
- 「コンラの冒険」
- 「ダナの息子たち」
- 「マー・トゥーラの合戦」
- 「メルドゥーンの航海」
- 「聖ブランダンの航海」
- 「聖パトリックの煉獄」
- 「イヴァンまたは獅子を連れた騎士」
- 「ランスロまたは荷車の騎士」
そこには世界的宗教にありがちな善悪二元論、勧善懲悪といった観念に縛られない、自由な世界が広がっています。
ケルト神話が教えてくれる人間が本来持っていた豊かな想像力と未知の世界へ対する畏敬の念は、多くのルールやしがらみに縛られた現代人を解放してくれるヒントが隠されているような気がします。
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