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駅前旅館

駅前旅館 (新潮文庫)

井伏鱒二といえば昭和の大作家ですが、今は売り場スペースの限られた書店でその作品を見かけることはほとんどありません。

そのため古書店で井伏鱒二の作品を見かけた時などに少しずつ購入したりしていますが、本書も1ヶ月ほど前に会社近くの古書店で見つけた1冊です。

私自身はそれほど熱心な井伏鱒二ファンという訳ではありませんが、その作品が期待外れだったことはありません。

本書は著者が駅前の柊元(くきもと)旅館の番頭をしている生野平次へインタビューを行い、その生野が戦前から戦後にかけての駅前旅館の風景を自らの思い出とともに語ってゆくという設定をとっています。

古式な宿屋が電報で使う符牒の解説から始まり、日本各地から来る土地ごとの旅行客の気風、旅館の女中や板前、吉原遊郭、料亭に顔を出す芸者など、およそ旅館と関係のありそうな業界の風習がとりとめもなく語られてゆきます。

一方で当時の風習を伝えるだけでは、民俗学的な価値はあっても単調な小説になることは避けれません。

そこに生野自身の感情や精神、何よりも旅館の番頭としての気概が一緒に描かれることによって、当時の人びとの息遣いが聞こえてくるような生き生きとした小説作品へと変貌を遂げます。

まるで50年以上も前の東京の駅前旅館の風景がありありと頭に浮かぶようであり、たとえば修学旅行の学生たちによって賑わう活気ある旅館の情景が作品中で繰り広げられます。

さらに団体旅行やバスツアーの紹介によって得られるリベートの仕組み、客の呼び込み方のコツや銭を持っている客の見分け方など、番頭たちが生計を立てる上で欠かせない舞台裏についても臆面もなく独自の口調で語ってくれます。


話題が次々と切り替わるように見えて、小説の本筋にあるのは今も独身であろうと思われる番頭自身が色好みであることを告白し、そんな番頭が過去に経験した一途な淡い恋の思い出を断片的に語ってゆく部分です。

つまりインタビューを受けた番頭(生野平次)は、当時の旅館の様子を伝えながらも、同時に自らが歩んできた生き様についても熱心に語ってくれるのです。

小説としてのストーリー性も抜群でありながら、旅館の番頭という立場から見た市民たちの日常生活を生き生きと伝えてくれる、読んで得した気分になれる作品です。