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関東大震災

関東大震災 (文春文庫)

大正12年9月1日午前11時53分、関東地方を襲った大地震が関東大震災です。

少なく見積もっても10万人以上の犠牲者を出した天災ですが、今では高齢のため震災を経験した人がほぼ残っていないのが現状であり、吉村昭氏が昭和48年に発表した本書は関東大震災を後世へ伝える優れたドキュメント作品として知られています。

昔から大地震にしばしば襲われてきた日本では、すでに明治終わりには地震学の世界的な権威である大森房吉教授が中心となり研究を続けていました。

一方で大正時代のはじめから関東地方では地震が続発していましたが、それを関東大震災の前兆と予測するのは困難であり、これは現在においても大差がないのかも知れません。

被害は関東一円に及びましたが、とくに東京下町のように地盤が弱く、住宅が密集した地域の被害が大きく、もっとも悲惨な現場となったのが被服廠跡(現:東京都墨田区横網公園)です。

2万坪を超える広大な敷地には、家財とともに多くの避難者が集りましたが、火災が巻き起こした旋風と、家財に燃え移った飛び火により3万8千人を超える犠牲者を出してしまったのです。

広大な空き地をもっとも安全な避難地とした住人たちの判断は一見すると正しいように見えますが、大都市ということもあり多くの住民が流れ込んでしまったこと、大八車に多くの可燃性の荷物を積み上げて持ち運んでしまった要因などもあって、逃げ場のなくなった人々へ周囲から炎が迫り惨劇へと繋がりました。

さらに地震は東京・神奈川を中心とした通信機関が壊滅し、確実な情報を得るための手段が失われます。

そのため流言がそのまま新聞に掲載されるといった事態になります。

津波襲来の事実がなかった東京が大津波で壊滅的な被害と受けたという報道、地震と連動して富士山、または秩父連山が大爆発したという報道、ひどいものになると全関東と伊豆小笠原諸島が水没するといった報道までが新聞の号外として各地へ伝えられました。

それは被災地である東京や神奈川も例外ではなく、むしろ地震や火災の被害者たちに広がっただけに深刻なものとなりました。

その代表的なものが「社会主義者が朝鮮人と協力し放火している」といった類のものであり、当時の社会情勢と政治的不信感がその流言を大きくし、混乱をもたらしました。

「保土ヶ谷の朝鮮人土木関係労働者三百名が襲ってくる」
「戸塚の朝鮮人土木関係労働者ニ、三百名が現場のダイナマイトを携帯して来襲してくる」
「かれらが道沿いの井戸に毒薬を投げこんでいる」

結果として朝鮮人や社会主義者の来襲におびえた住民たちが武装し、朝鮮人へ対する暴行・殺人事件が大地震によって無法化した各地で発生しました。

さらに方言を話す日本人が勘違いによって殺害される事件も頻発しました。

この流言は具体的な内容をもって急速に広まったため、ついに政府、軍、警察関係者までが事実と認識する事態にまで発展します。

もちろんこれらの風説はまったく根拠のない、事実と遠くかけ離れたものであることがのちに判明しますが、不安と恐怖によって異常な精神状態へと駆り立てられた被災者が人災の加害者側に回ってしまう怖さが伝わってきます。

そして震災から日数が経過するにつれ、政府や軍が貯蔵していた食糧庫の大半が焼失してしまった東京では深刻な飢えと渇きに苦しむことになります。

こうした危機は民衆たちの公徳心を失わせ、死体から携行品をかすめとる者、焼け跡から倉庫や金庫を大規模に略奪する事件、不足する物資を何倍もの値段で売りつけて暴利を貪ろうとする商人などが次々と登場し、東京は無法地帯を化してしまうのです。

吉村氏は体験者へインタビューするとともに記録を丁寧に調べ上げ、関東大震災の全貌を明らかにしようと試みています。

今から100年近く前の災害とはいえ、列強国の一員に加わり近代化しつつある日本の首都を襲った天災は、現在においても東日本大震災とは違った教訓を我々に与えてくれるに違いありません。