パパは楽しい躁うつ病
北杜夫氏と娘の斉藤由香氏の親子対談という形で、家族のエピソードを語ってゆくという形式をとっています。
北杜夫ファンであれば誰もが知っていることですが、彼は躁うつ病であり、今まで株で破産したりギャンブルに狂ったり、マンボウマブゼ共和国を建国したりといったエピソードは有名です。
さぞかし家族は大変だったろうと思いますが、対談を読んでいると娘や妻は案外父とうまく折り合いを付けながら暮らしていたことが多くのエピソードから垣間見れます。
今でこそ心の病へ対する理解は高まりつつありますが、当時は躁うつ病へ対する世間の関心も低くかった時代です。
周期的訪れる躁うつへ対して家族は北を病人として扱わず、それを彼のパーソナリティとして認め(半ば呆れながらも)付き合い続ける姿勢が、そのままユーモアのある本書のタイトルになっています。
もちろん病気をユーモアとして片付けることに抵抗を持つ人がいることも予想できますが、家族の理解、そして北自身が精神科医でもあったことから自身の病状へ対して客観的に観察できる立場であったことも大きい要素です。
それでも今現在も心の病を患っている人、そして家族にそうした病人がいる人たちにとっても勇気づけられるのではないでしょうか?
数多くのエッセイを残している北氏に共通している姿勢は、やはりユーモア精神です。
そしてそのユーモア精神は家族にもしっかり受け継がれていたことが分かります。
たとえば娘が小学校6年生のときに北家は株投資で破産してしまいますが、娘の由香は次のように当時を振り返っています。
ママは「出版社に前借りをしたり、お友達にお金を借りるような真似はやめてください」って、いつも嫌がってました。でも、株をやる以外は、映画を観たりとか、浪花節を唸ったりとか、中国語を勉強したりして、家の中はすごい明るくて、楽しくて、笑いに満ちているわけ。あと、急に、「マンボウマブゼ共和国をつくります」といってお札をつくったり、タバコをつくったり。
もし妻と娘が破産という事実を目の前にして暗く落ち込んでいたら、北自身の作品もあそこまでユーモアに溢れたものにはなっていなかったでしょう。
この本は2009年に出版されていますが、北杜夫は80歳を過ぎた晩年であり、娘の由香さんも40歳を過ぎていました。
それだけに終始娘の娘が父親をリードする形で対談が進んでおり、温かい雰囲気が本の中からも伝わってきます。
想いの軌跡
本書は「ローマ人の物語」で有名な塩野七生氏のエッセイや雑誌に寄稿した記事を1冊の本にまとめたものです。
人気作家にとって色々な雑誌に寄稿したエッセイを本にまとめて出版することは当たり前の企画なのですが、意外にも彼女にとってはじめての試みだったようです。
副タイトルに「1975-2012」とあるように、収められているエッセイの時期も幅広いのが特徴です。
塩野七生といえばベストセラー作家でありながら昔からイタリアを拠点に生活しているという点で非常にユニークですが、地中海を中心とした歴史小説を執筆するために取材旅行へ出かける拠点としては合理的な選択といえます。
それだけに著者のエッセーは、歴史のみならず作品中では滅多に触れられない現代のイタリアを読者たちへ紹介してくれます。
例えばサッカー、食文化、映画、ローマで流行しているファッションなどに留まらず、観光地化してゆきインフレが進む経済状況など、他の日本人作家にはない話題を提供してくれるのです。
もちろんイタリアでの日常、作家活動の裏話など個人的な話題も取り上げらており、作家・塩野七生氏の素顔に近いものが垣間見れるエッセイもあります。
著者の作品は壮大な長編歴史小説が多いのですが、エッセーを通じてその舞台裏を知ることで作品に奥行きが出てきます。
蛇足ですが、著者はエッセイの中でイタリアの穴場観光スポットも紹介しており、イタリアで長く生活する著者の言葉だけに信用できるのです。
蚤と爆弾
吉村昭氏による史実を元にした歴史小説です。
本作品では、ハルピンの郊外に建設された広大な施設を拠点とした関東軍防疫給水部を扱っています。
俗に加茂部隊、または731部隊と呼ばれていましたが、こちらの方が有名かも知れません。
作品中では関東軍防疫給水部を実質的に指揮したのは軍医出身の陸軍中将・曾根二郎となっていますが、この名前はフィクションであり実在した石井四郎であることは明白です。
外界と遮断されたこの巨大施設には、スパイとして捕らえられた数多くのロシア人やモンゴル人、中国人たちが運び込まれてきます。
しかし彼らがこの施設で拷問されることはありません。
ある意味では拷問よりも恐ろしい生物兵器の実験台となる運命にあるのです。
この施設の捕虜たちは「丸太」という隠語で呼ばれ、一度この施設に収容されたが最後、再び生きて故郷に戻ることはありませんでした。
この"丸太"という呼称には秘密漏洩対策の意味も当然あったでしょうが、人間を実験動物のように扱う良心の呵責がそうさせたとも言えます。
「丸太であれば人間と違って手荒に扱っても構わない」というように。
実際にここで行われた実験は、捕虜たちへ病原菌を植え付けて死に至るまでの過程を詳細に観察したり、効果的な凍傷の治療方法を発見するための手足を壊死させる実験を行うなど、彼らが人格ある人間として扱われた形跡が微塵もありませんでした。
やはり戦争の恐ろしさとは人としての普通の感覚を麻痺させてしまうことであり、実際この部隊にいた軍人たちも普段や家族や仲間たちを大切に思う普通の人間だったと思います。
作品中に登場する曾根も祖国日本に貢献することを願い、生物兵器による攻撃も銃器や火器といった通常兵器と何ら変わらないという認識を持っていた人間でした。
にもかかわらず描写される関東軍防疫給水部での出来事は読む者を不快にさせ、犠牲となった捕虜たちへ同情せざるを得ません。
ただし不快な思いをしたくて小説を読む人はいません。
それでもこの作品を最後まで読み続けるのは、戦争という人類の所業の中で行われた悲劇から目を背けてはならないという義務感からなのかも知れません。
島抜け
タイトルにある「島抜け」とは、島流しにされた流刑地から脱走することを意味します。
そして脱走を試みる本作品の主人公は、大阪の講釈師・瑞龍です。
軍記物を中心とした講談で人気を博していた瑞龍は、大阪冬の陣、夏の陣を記した「難波戦記」を題材にすることを決心します。
今まで「難波戦記」を選んだ講釈師は、勝利した徳川家にスポットを当て、滅亡する豊臣家は単なる敗者として扱われていました。
しかし瑞龍は真田幸村にスポットを当て、一時は徳川勢を敗走させるその奮戦ぶりを語るという当時にはなかった視点で「難波戦記」を語ったのです。
今も昔も大阪では徳川家の人気は低く、地元で繁栄を誇った豊臣家を贔屓にする傾向があることから、瑞龍のもとには連日に渡り人が押し寄せる大盛況となります。
しかし世は江戸時代、さらに運の悪いことに水野忠邦の"天保の改革"によって幕政の立て直しを名目とした強い引き締めが行われていた時期でした。
中には水野の右腕として抜擢された鳥居耀蔵のように、自らの立身出世のために罪をでっち上げる連中が強権を奮っていた時期です。
講釈の内容が幕府に不快感を与えたという理由で、瑞龍は島流しとなるのが作品の導入部です。
封建制度の時代に「言論の自由」があるわけもなく、瑞龍もその犠牲者となった1人でしたが、タイトルから分かる通り作品のテーマはそこにはありません。
何と言っても興味深いのは、当時の島流しにされる囚人たちの様子が吉村昭氏によって事細やかに描かれていることです。
本書で瑞龍たちが島流しにされたのは種子島ですが、ここでは牢屋に閉じ込められるわけではなく庄屋の家に預けられます。
ここで畑仕事や雑用に従事していれば少なくとも食うに困らず、また島内をある程度自由に行動することが許されます。
瑞龍自身は悪事を働くタイプの人間ではなく、普段の性格も温和なタイプでしたが、同じタイミングで島流しにあった3人の仲間に誘われる形で釣りを装い丸木舟で島抜けを決行するのです。
もちろんボートのような丸木舟で大海原に飛び出した瑞龍たち4人の前には困難が待ち受けますが、彼らの挑戦がどのような結末を迎えるかは作品を読んでのお楽しみです。
本書にはほかに「欠けた椀」、「梅の刺青」といった短編が収められていますが、「島流し」を含め歴史の片隅に埋もれた人物を掘り起こし、丹念な調査の上に作品を構築してゆく吉村氏のスタイルは相変わらず健在であり、おすすめできる1冊です。
凍
本書の主人公は、世界的なクライマーとして知られる山野井泰史・妙子夫妻です。
ノンフィクション作家として有名な沢木耕太郎氏の作品ですが、著者自身は作品中に殆ど登場せず、この山野井夫妻がヒマラヤのギャチュンカンの北壁に挑戦する過程を2人の歩んできた人生を振り返る形で追っていきます。
そのためノンフィクション作品であると同時に山岳小説としても楽しめます。
初めて読んだ山岳小説は新田次郎氏による一連の作品ですが、極限状態に挑むクライマーや登山家を主人公とした小説は個人的にも好きなジャンルです。
にも関わらずクライマーという人種を理解しきれない自分がいるのも事実です。
彼らにとってターゲットが困難であればあるほど魅力的に映り、しかもクライマーにとって困難とはイコール生命の危険性と直結する要素なのです。
データが無いので分かりませんが、クライミングをスポーツ競技、または職業と見なした場合、事故による死亡率は全競技・全職種中で断トツに高いのではないでしょうか。
私にとってクライマーとは、1つの判断ミスはおろか何一つミスをしなかったとしても運悪く落石や雪崩の巻き添えに遭ったら奈落の底へ真っ逆さまに落ちてゆくことを誰よりも熟知しながら絶壁へ挑む人種というイメージなのです。
そしてこの作品を読んだ後でもクライマーへ対する認識はまったく変わることはありませんでした。
つまり山野井夫妻によるギャチュンカン北壁への挑戦は絶望的な困難に直面することになります。
薄い酸素と極寒がもたらす体調不良、襲いかかる雪崩、悪天候と残り少なくなる食糧、さらにはクライマー人生を終わらせかねない重度の凍傷など、考えうる困難がこれでもかと2人へ襲いかかります。
理解に苦しむクライマーたちを主人公とした作品を何故読み続けるのかと問われれば、それは単純に彼ら(彼女ら)の勇気に敬服するからです。
野生動物の生息すら許さない極限状態の自然の中で培ってきた経験や技術、そして知識をフル動員して立ち向かう人間の姿はときに神々しく見えます。
そして絶体絶命の状況から生還するためにもっとも必要な要素は、生存本能に根ざした強い意志なのは言うまでもありません。
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