島抜け
タイトルにある「島抜け」とは、島流しにされた流刑地から脱走することを意味します。
そして脱走を試みる本作品の主人公は、大阪の講釈師・瑞龍です。
軍記物を中心とした講談で人気を博していた瑞龍は、大阪冬の陣、夏の陣を記した「難波戦記」を題材にすることを決心します。
今まで「難波戦記」を選んだ講釈師は、勝利した徳川家にスポットを当て、滅亡する豊臣家は単なる敗者として扱われていました。
しかし瑞龍は真田幸村にスポットを当て、一時は徳川勢を敗走させるその奮戦ぶりを語るという当時にはなかった視点で「難波戦記」を語ったのです。
今も昔も大阪では徳川家の人気は低く、地元で繁栄を誇った豊臣家を贔屓にする傾向があることから、瑞龍のもとには連日に渡り人が押し寄せる大盛況となります。
しかし世は江戸時代、さらに運の悪いことに水野忠邦の"天保の改革"によって幕政の立て直しを名目とした強い引き締めが行われていた時期でした。
中には水野の右腕として抜擢された鳥居耀蔵のように、自らの立身出世のために罪をでっち上げる連中が強権を奮っていた時期です。
講釈の内容が幕府に不快感を与えたという理由で、瑞龍は島流しとなるのが作品の導入部です。
封建制度の時代に「言論の自由」があるわけもなく、瑞龍もその犠牲者となった1人でしたが、タイトルから分かる通り作品のテーマはそこにはありません。
何と言っても興味深いのは、当時の島流しにされる囚人たちの様子が吉村昭氏によって事細やかに描かれていることです。
本書で瑞龍たちが島流しにされたのは種子島ですが、ここでは牢屋に閉じ込められるわけではなく庄屋の家に預けられます。
ここで畑仕事や雑用に従事していれば少なくとも食うに困らず、また島内をある程度自由に行動することが許されます。
瑞龍自身は悪事を働くタイプの人間ではなく、普段の性格も温和なタイプでしたが、同じタイミングで島流しにあった3人の仲間に誘われる形で釣りを装い丸木舟で島抜けを決行するのです。
もちろんボートのような丸木舟で大海原に飛び出した瑞龍たち4人の前には困難が待ち受けますが、彼らの挑戦がどのような結末を迎えるかは作品を読んでのお楽しみです。
本書にはほかに「欠けた椀」、「梅の刺青」といった短編が収められていますが、「島流し」を含め歴史の片隅に埋もれた人物を掘り起こし、丹念な調査の上に作品を構築してゆく吉村氏のスタイルは相変わらず健在であり、おすすめできる1冊です。