白い航跡(下)
引き続き明治に活躍した医師・高木兼寛を主人公にした歴史小説「白い航跡」下巻のレビューです。
イギリスで最優秀の成績を収めて医師の資格を得た兼寛は、帰国してそのまま海軍軍医における要職を次々と任せられるようになります。
この頃の兼寛は、紛れもなく日本でもっとも最先端医療の知識を持った医師だったのです。
ところで明治の早い段階から、陸軍と海軍は別々の道を歩み始めます。
陸軍はドイツ式への兵制改革を取り入れ、海軍はイギリス式の制度を積極的に取り入れます。
それぞれ良い所を取り入れたといえば聞こえはいいですが、結果的にはダブルスタンダードのような形となり、太平洋戦争が終わるまで続く陸海軍間の不仲の大きな原因となりました。
これは医学においても同様であり、海軍は兼寛に代表されるようにイギリスから最先端医療を学び、陸軍は同じくそれをドイツから取り入れ、東京大学もドイツ医学を採用することになります。
当時イギリスでは実証主義に徹した医療が重んじられ、ドイツでは学理を重視するという性格の違いがありました。
その頃、軍では脚気(かっけ)が猛威を振るっており、特に海軍では脚気の病人により艦隊を運営する必要人員を確保できないほどの危機に陥っていました。
当時、脚気は西欧では見られない病気であり、日本独自の風土病とみなされていました。
しかし兼寛はそれを白米を中心とした兵食の栄養の偏りであると見抜き、粘り強く上官へ兵食改革を訴え続けます。
海軍内で行われた実験で確証を得た兼寛は、天皇陛下に拝謁してその必要性を訴える機会に恵まれます。
それから急速に改革が進んだ海軍では脚気をほぼ壊滅させることに成功したのです。
しかし陸軍内では、世界的な細菌学の権威であるベルツなどが唱える脚気は細菌による伝染病であるという説を曲げず、真っ向から衝突します。
どう考えても、お互いの医学の長所を持ち寄って協力して研究するのが一番良い方法ですが、陸海軍間は派閥や権力争いに明け暮れるのが日常で、とてもそんな状況を望むことはできませんした。
兼寛も脚気の原因を突き止めた訳ではなく、兵食の洋食化、そして白米と麦を混ぜたメニューにより脚気問題を解決したというイギリス式の実証主義のスタイルで望んだのです。
一方、学理で説明できなければ意味が無いという陸軍側の主張はまさしくドイツ式であり、日露戦争においても陸銀は脚気による死亡者が深刻な数になっていました。
その急先鋒となったのが森林太郎(森鴎外)であり、理論武装の弱い兼寛は実績があるにも関わらず、つねに劣勢に立たせられます。
兼寛にとって不幸だったのは、脚気の原因がビタミンB1不足によるものであり、結果的に彼の方針は間違っていなかったという立証が、その存命中に行われなかったという点です。
ただしそれ以上の不幸は、両者の縄張り争いにより多くの兵士が命を落としたという現実です。
兼寛の功績により日清戦争時には海軍における脚気死亡者はほぼセロになっていましたが、日清戦争における陸軍は戦死者977名に対して脚気により死亡者は3,944名、同じく日露戦争では戦死者47,000名に対して脚気死亡者は27,800名という驚異的な数字であり、国の指導者が兵卒の命を軽視する傾向は、この頃からはっきりと表れていたのです。
歴史上に埋もれたあまたの人物の中で、当時ほとんど世間から忘れらていた高木兼寛という人物を掘り出して長編小説とした吉村昭氏の慧眼が光る作品です。