天に星 地に花 (下)
本作品のテーマは、江戸時代の百姓たちの暮らしであり、時には抗えない天災による飢饉、そして時には普段はおとなしい百姓たちが藩の重税に反対し一揆として立ち上がる様子を描いた作品です。
またこれらの出来事は一貫して大庄屋の次男として生まれ、のちに医師となる高松凌水の視点から描かれています。
彼の子孫である高松凌雲が幕末明治で活躍するものの、凌水自身は郷土の歴史の中に埋もれている、いわば全国的にほぼ無名の人物ですが、作品を読み進めてゆくと彼を主人公にした作者の意図がよく分かってきます。
それは凌水が武士や農民といった身分の違い、財産の大小といった貧富の差に関係なく平等に医療を施した医師であり、農村に治療所を開業した彼の視点を通じて当時の風景をより俯瞰的に眺めることができるのです。
凌水は百姓たちの暮らしを間近に見ているだけに、一貫して一揆として立上る百姓たちに同情的です。
一方で享保13年(1728年)に起きた一揆の際に、久留米藩の家老・稲次因幡正誠は怒りで城下に迫りつつある百姓たちの目の前に立ち、自らの責任によって彼らの要求を受け入れることを決断します。
結果として1人の犠牲者も出すことなく一揆たちを鎮めました。
しかもこの時の稲次は27歳という若さでしたが、のちにこの出来事をきっかけに家禄を取り上げられ山村に蟄居し、疱瘡によって無念の境遇のまま亡くなります。
凌水はこの稲次の最期を看取った医師であり、彼の死後も生涯に渡って尊敬し続け、月命日には医療所を休診にしてまで墓参りを続けるのです。
そして宝暦4年(1754年)、財政難を打開するため久留米藩は人別銀を徴集すると領民へ伝えます。
これは人頭税の一種であり、暮らしに余裕のない久留米藩領の百姓たちは再び一揆として立ち上があるのです。
しかも今回はかつての稲次のように身を挺して百姓たちの暮らしを理解した上で怒りを鎮めようとする家老は現れませんでした。
独立し地元からも信頼される成熟した医師となった凌水の目に、再び起こった一揆たちの姿がどのように映るのか。
素朴に生きる農民たちの姿を描いた作品でありながら、壮大なスケールを感じさせる作品になっています。
天に星 地に花 (上)
本書は「天に星 地に花」という壮大なタイトルが付けられてる歴史小説ですが、いわゆる日本史における有名な人物を主人公とした作品ではありません。
久留米藩にある井上村の大庄屋の次男として生まれた庄十郎(のちに医師となり高松凌水と名乗る)の視点から見た当時の農民たちの暮らしや、彼らが藩の重税に反対し一揆を起こす様子などを描いた作品です。
著者の帚木蓬生氏は福岡県小郡市(旧久留米藩領)の出身ですが、かつて久留米有馬藩において5人の庄屋が私財を投じて大石堰(おおいしせき)を完成させるまでの過程を描いた「水神」の続編ともいえる作品であり、作者の強い郷土愛を感じます。
大庄屋といえば実質的に村を統治する庄屋たちをさらに束ねる立場であり、その身分は農民であるものの武士に準ずる格式を持っていました。
そのため暮らしは比較的裕福ではあったものの、彼らの生活も農民たちの生活に溶け込んだものでした。
そして庄十郎も例外ではなく、幼い頃より農民たちの暮らしを間近に見て、時には農作業を手伝うことでその暮らしの大変さを体感して育ちます。
もちろん大変なことばかりではなく、豊作となったときの収穫の喜びや村人が一丸となって執り行う雨乞祭の熱狂なども体験してゆきます。
前作と同様にこうした農民たちの平和な暮らしが描かれる一方で、藩が放漫財政によって乏しくなった財源を補うための重税に反対して立ち上がる農民たちの姿も描かれています。
手に鎌や鍬を持ち寺の境内に集まり気勢を上げている百姓たちを眼の前に、大庄屋である父はこう言います。
「甚八に庄十、この有様をようく目に焼き付けておけ。これが百姓の力ぞ。百姓が集まれば、山も動かすし、筑後川だって堰き止められる」
かつて大石堰によって筑後川の水を引き入れて用水路を建設し、水不足に悩まされていた広大な台地を水田に変えたのも百姓たちの力であり、決して誇張した表現ではなかったのです。
やがて村で流行した天然痘(疱瘡)により母を亡くし、自身も死線をさまよった庄十郎は次男という立場もあり、医療への道を志すようになります。
そしてわずか14歳で生まれ故郷を後にした庄十郎は、新しい医師という道を歩むようになるのです。
ちなみに医者となり高松凌水と名乗った庄十郎の子孫が幕末・明治と活躍した医師・高松凌雲であり、本ブログでも紹介した「夜明けの雷鳴」の主人公として扱われてます。
船乗りクプクプの冒険
宿題嫌いのタローは、母親の目を盗んで冒険小説「船乗りクプクプ」を読み始める。
作者にはキタ・モリオとあるが、読み始めるとわずか4ページで終わってしまい、残りはすべて白紙でノートにでも使ってくれという言葉で終わっている。
これは原稿を書けない作者が執筆途中で姿をくらまし、やけくそになった編集者がそのまま出版してしまった作品なのである。
これに驚いたタローは突然気が遠くなってしまい、気付くと何と自身が作品中の主人公クプクプになってしまうのである。
ここまでが作品の導入部ですが、ともかくクプクプは仲間たちと共に大海原へ冒険へと乗り出すことになります。
一緒に航海を共にするのは、頭が少々ボケている短期で目の悪い船長、力持ちだが頭の回転が悪いヌボー、デブとノッポのコンビであるナンジャとモンジャという締まらないメンバーです。
物語のあらすじ自体は未知の島を発見して上陸し、そこで冒険を繰り広げるというありきたりのものですが、メンバーが締まらないだけに必然的にその内容もヘンテコなものになってしまいます。
大人が真面目に読む文学作品というよりも、作者の北杜夫が児童向けの冒険小説として書き上げた作品ではないかと思われます。
冒険小説といってもよく知られている「海底二万里」、「十五少年漂流記」といった本格的なものではなく、作品の半分以上はユーモアに満ちた内容になっています。
個人的には、おそらく主人公のタローのように勉強嫌いの少年でも気軽に読める内容にしたのではないかと勝手に想像していますが、作者の北杜夫のユーモラスで脱力感のある作風がうまくマッチした内容になっています。
ともかく荒唐無稽な内容ですが、作品全体としては不思議に起承転結が上手く考えられており、そこにも北杜夫らしさを感じます。
もちろん大人でもバカバカしいと思いながら楽しむことができる作品になっています。
バチカン大使日記
著者の中村芳夫氏は長年に渡り経団連で勤務し、のちに民間出身でありながら駐バチカン大使を約4年間(2016~2020年)を勤めたという経歴を持っています。
バチカンといっても国土は東京ドーム10個分の広さしかなく、皇居よりも小さい面積しか有していません。
さらに人口はわずか600人強しかなく、武力も経済力も有していない小さな国家です。
そもそも本書を読むまでバチカンに日本の大使館があることすらも知りませんでしたが、そんなバチカンは世界中に大きな影響力を持っています。
それは世界中に13億人いると言われるカトリック信徒たちであり、バチカンの教皇はその頂点に立つ存在なのです。
つまり物理的な国力ではなく、宗教という結びつきで国境を超えた影響力を有している国であり、日本の外交戦略の面から考えても重要な国であることが分かります。
かつて教皇が持っていた権力は中世ヨーロッパ世界においては国王以上であり、宗教のみならず政治的な影響力という点でも社会の頂点に君臨していた時代がありました。
その影響力の一部が21世紀においても脈々と生き続けていることが分かります。
タイトルに「日記」という言葉が使われていますが、本書は日記形式というよりバチカンの紹介、大使在任中のおもな出来事、そして何より自身もカトリック信者である著者は、教皇(バチカン)の教えや経済、平和に対する考え方について紙面を割いて紹介しています。
まず著者在任中のもっとも大きな出来事として挙げられるは、2019年11月23日に実現した教皇の訪日です。
訪れた広島、長崎でのスピーチ、東京では東日本大震災の被災者と面談し、さらに当時の安倍首相とも会談を開きます。
そこからはバチカンが単なるキリスト教の伝導、カトリック信徒たちの代表者としての顔だけでなく、国際社会において明確な政治的主張を持っていることが分かります。
まず代表的な主張として、いかなる場合においても武力行使への反対、特に核兵器の廃絶を強く訴えています。
しかしアメリカやヨーロッパをはじめカトリック信者を多く抱える国々の中には核兵器の保有を続けると国家が存在するというのが現状です。
また経済面では貧しい人びと、言い換えれば経済発展の恩恵から取り残された人々への支援を主張しています。
さらには資源を浪費する自由主義経済の行き過ぎへの警鐘、持続可能な経済の実現が現在のバチカンの考えであり、これも西欧諸国の経済政策とは必ずしも一致していません。
著者は経済のエキスパートということもあり、こうしたバチカンの考え方についても分かりやすく解説してくれています。
もちろんカトリック信徒たちの考え方も一枚岩ではなく、バチカンは宗教的な活動に専念するべきという保守的な考えも存在するのも事実です。
本書はバチカン大使としての日常を面白おかしく紹介するといった類の本ではなく、多くの日本人にとって馴染みの薄いバチカンそのものを紹介する教養書としての側面が強い内容になっています。
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