「ふたり暮らし」を楽しむ
下重暁子(しもじゅう あきこ)氏が定年後の夫婦の暮らしをエッセー風にまとめた1冊です。
簡単に言えば夫婦ともに定年を迎え、2人で向き合う時間をどのように過ごすかという本です。
世間一般に言えば今まで別行動だった2人が一緒に過ごす時間が増えることで、面倒なことや腹の立つことが増えストレスになるというところですが、著者は2人暮らしを楽しくる送る工夫をしてみようと提案しています。
たしかに熟年離婚をしない限りどちらか一方が先に逝くまで2人暮らしは続くのですから、建設的な意見だと思います。
ただ実際には著者が自らの体験に基づいて語っている部分が多く、ノウハウ本として読むよりは興味のある作家のエッセーとして読む方がおすすめであり、私もその1人です。
下重氏は昭和11年生まれであり、NHKアナウンサーを経て作家になっています。
一方の夫はテレビ局に勤めていた会社員であり、共働きの環境にあったようです。
食事の準備は料理が得意な夫の役割で、妻は皿の準備と洗い物に専念するといった役割のようです。
家計に分担のルールはあるものの、2人とも経済的には自立していることもあり、お互いの収入も貯金も知らないと言います。
服装についてはお互いに共有しているアイテムも多く、帽子やセーターが取り合いになることもあるようですが、その分買い物は2人で出かけることも多いようです。
こうして書いてゆくと他愛の無い内容ばかりになっていますが、要は作者の暮らしをエッセー風に紹介しているだけなので、突拍子のないアイデアが出てくることはありません。
どことなく参考にしつつ、単純にエッセーとして楽しめれば充分だと思います。
サブタイトルに「不良老年のすすめ」とありますが、これも自分を年寄りだと決めつけず、「新しい趣味を見つけて夢中になるべきだ」、「周りの生活スタイルにこだわる必要はない」といった著者の主張の反映であり、無趣味で変化のない生活パターンに陥りがちな老年夫婦たちへのエールでもあるのです。
蓮如
蓮如(れんにょ)という名を聞いても、親鸞(しんらん)の嫡流として生まれ浄土真宗を広く広めた中興の祖といった程度の知識しかありませんでした。
戦国時代ファンとしては蓮如よりも、石山本願寺を拠点に織田信長と10年にわたり戦いを繰り広げた顕如(けんにょ)の方が印象に残っているくらいです。
本書は作家の五木寛之氏が、蓮如について解説・考察した1冊です。
著者は歴史の専門家でないこともあり、本書に蓮如の生涯や功績が事細かく記されているわけではありません。
よって本書は蓮如の功績を時系列で知りたい人にとっては不向きかもしれません。
内容は作者が蓮如の足跡をざっくりと辿り、彼が考えたであろう事柄、そこへ集う当時の民衆たちの信仰心、また親鸞と対比して見えてくる蓮如の人柄や特徴を考察してゆく内容になっています。
極端に言えば蓮如をテーマにしたエッセーと言えるかもしれません。
ともかく作者は聖人のイメージが定着している親鸞よりも、謎めいたところのある蓮如の方が好みのようで、次のように表現しています。
親鸞の名前をきけば、人びとは襟を正し、居ずまいを改めて、おのずと敬虔な表情になります。
しかし、蓮如さんと聞けば人びとは思わず頬をゆるめて、春風に吹かれるような和やかな目つきになる。
蓮如は40代半ばに本願寺当主となるまで歴史の表舞台に出ることはありませんでした。
しかし一旦登場するや否、蓮如はまたたく間に爆発的に信徒を増やしてゆきます。
先代の正式な妻の子どもでなかったにもかかわらず当主となった点、越前の吉崎や京の山科に布教拠点としの一大勢力を築き、それがのちの一向一揆の土台となった点など、そこには親鸞とは違い世渡りに長けた、やり手の宗教家といったイメージが漂ってきます。
たとえば現代においても北陸地方が「真宗王国」と呼ばれているのが蓮如の功績であることは間違いなく、どことなく政治家が築いた地盤で行う票集めのような雰囲気さえ感じます。
もちろんこれは私個人の印象ですが、民衆の中に溶け込み、彼らの苦悩ととも生きて布教活動を行った蓮如の姿を想像しながら、そんなことを考えながら読んだ1冊です。
天狗争乱
吉村昭氏が手掛けた幕末の水戸天狗党を扱った歴史小説です。
当時の時代背景を知っておいた方がこの作品を楽しめるので簡単に解説してみたいと思います。
まず幕末の黒船来航、そして江戸幕府瓦解に至る一連の流れの根底には、一貫して尊王攘夷の考えが大きな原動力になっていました。
"尊王"とはたとえ将軍であろうとも、日本が一致団結して国力を高めるために天皇を尊ぶという思想です。
"攘夷"とは通商を求める西洋諸国の狙いが日本の植民地化にあるとして開国に反対する政治的な方針です。
元来、尊皇攘夷というスローガンに徳川政権の打倒という意味は含まれていませんでしたが、独断で日米和親条約を締結した幕府への批判がエスカレートしてゆき、やがて最終的に倒幕という考えに発展してゆきます。
この尊皇攘夷の考えの支柱となり全国的に広く知らしめたのが、徳川政権の中枢ともいえる御三家の1つ水戸藩主の徳川斉昭や同じく水戸藩の学者・藤田東湖であり、のちに維新を成功させることになる薩摩藩や長州藩に先駆けて幕末で注目を集めた藩であるといえます。
現実的には水戸藩も一枚岩ではなく、従来の幕府体制を支持する保守派、尊皇攘夷を段階的に進めてゆこうとする穏健派、早急に実力行使で攘夷を実現しようとする過激派に分かれていました。
一時期は過激派がもっとも勢力を持ち、彼らの一派が大老井伊直弼を暗殺する桜田門外の変を成功させますが、幕府からの処罰、藩主斉昭の永蟄居(永久追放)そして病死、藤田東湖の事故死によって次第に勢力を失ってゆきます。
それでも水戸藩内の過激派が全滅した訳ではなく、元々政治勢力として存在していた天狗党を東湖の息子である藤田小四郎らが中心となり過激な武力集団として再編成してゆくのです。
武装した天狗党は水戸藩が公認した軍ではなく、いわば私兵であり、軍資金などを後援者からの寄付、そして各地の豪商から巻き上げる形で調達し、筑波山を拠点に1000名を超える勢力にまで成長します。
天狗党の中でももっとも血の気の多い田中愿蔵(たなか げんぞう)率いる別働隊は金品を強奪したうえで宿場に放火するといった事件を引き起こし、やがて幕府や周辺の藩から討伐軍が派遣される事態にまでに発展します。
薩摩藩や長州藩は日本の西部に位置しているため徳川幕府のお膝元からは遠く、彼らの軍事行動は蛤御門の変(禁門の変)のように、せいぜい朝廷のある京都が舞台となる程度でした。
しかし天狗党は江戸と同じ関東平野で挙兵した武力勢力であること、また水戸藩が認めた軍ではないことから、幕府はすぐに直接的な武力行使を決断します。
結果的に天狗党の決起は早すぎたということになり、彼らの最期は悲劇で終わることになります。
時期さえ間違わなければ彼らが維新の元勲として名を連ねる可能性もあったと思います。
しかしながら一方で、桜田門外の変、天狗党の争乱といった水戸藩から生まれた尊皇攘夷のエネルギーが維新を大きく前進させたことも間違いありません。
ちなみに水戸藩は天狗党の全滅により尊王攘夷派が完全に下火になり、戊辰戦争の段階になっても藩内の混乱が続き、結果的に明治政府樹立にも目立った人物を排出することはありませんでした。
これは過激だったゆえに有能な尊王攘夷派の人物がことごとく死に絶えてしまい、人材が完全に払拭してしまったことが原因です。
本作品には天狗党の設立から彼らの政治的・軍事的行動がこと細やかに記録されており、この1冊を読めば天狗党のすべてが分かるといっていい1冊です。
その分600ページ以上ある大作となっていますが、幕末ファンにとって必見の作品です。
海馬(トド)
本書は吉村昭氏が、7篇の動物を扱った小説をまとめた1冊です。
収められている作品と扱っている動物は以下の通りです。
- 闇にひらめく<鰻>
- 研かれた角<闘牛>
- 蛍の舞<蛍>
- 鴨<鴨>
- 銃を置く<熊>
- 凍った眼<錦鯉>
- 海馬<トド>
いずれも創作小説ですが記録小説として知られている著者だけあって、扱う動物の習性をよく調べた上で書かれていることが分かります。
「銃を置く」ではヒグマ撃ちの名手として名高い大川春義をモデルにした作品ですが、著者は実際に何度か会って取材をしています。
大川氏は幼い頃に三毛別羆事件をすぐ近くで見聞きした体験を持っていることもあり、同事件を題材にした「熊嵐」の続編と位置付けることができます。
大川氏はアイヌ猟師に師事して熊の習性や仕留めるコツなどを学んでゆき、生涯に100頭ものヒグマを仕留めまでの過程を作品にしています。
ほかに鰻を扱った「闇にひらめく」が個人的には印象に残っています。
作品中では鰻の習性とその漁の仕組みに詳しく触れられている部分が興味深いのはもちろんですが、そこに恋愛ストーリーがうまく織り込まれており、完成度の高い小説として楽しめる作品に仕上がっています。
作品のストーリーは様々ですが、本書には人間と動物、または人間と自然といった大きなテーマが横たわっており、色々と考えさせられる1冊です。
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