空白の日本史
著者の本郷和人氏は、東京大学史料編纂所という場所で研究、教員を行っている歴史学者です。
東京大学史料編纂所というとあまり聞き慣れませんが、東京大学付属の研究所として史料の収集、調査、分析などを行っている組織のようです。
当然のように歴史は"史料"を元にして調査・分析が進められ、やがて通説となるものが確立して学生たちが学ぶ歴史の教科書などに掲載されるようになります。
一方で古代から現代に至るまですべての出来事が史料として残っている訳ではありません。
つまり史料が残されていない時代、もしくは出来事に当たる部分が、本書タイトルにある"空白"ということになります。
もし史料が絶対的な根拠となるならば、記録が残されていない過去は何も言及できないということになります。
しかし著者は、こうした「空白」を埋めるのも歴史研究家たちの仕事であると主張しています。
それでも想像力や自分にとって都合のよい解釈だけで空白部分のストーリーを埋めるだけでは研究とは言えず、科学的な根拠や論理に基づき埋めてゆくことが大切だと主張しています。
本書では具体的な例とともに、その性質ごとに9つの空白をテーマに挙げています。
- 科学的歴史の空白
- 祈りの空白
- 文字史料の空白
- 国家間交流の空白
- 軍事史の空白
- 文献資料のの空白
- 女性史の空白
- 真相の空白
- 研究史の空白
著者は科学的な手法に基づいた歴史分析を軽視すると歴史がイデオロギーに利用され、「神武天皇が紀元前660年に即位したとされる皇国史観」「日本に鎖国はなかった」といような説がまかり通ってしまう危険性があると警鐘を鳴らしています。
また先人のすぐれた学者が残した研究を無視する、つまり敬意を払わない傾向があることにも憂慮しているようです。
本書で例として取り上げられているものとして、朝尾直弘氏の「信長は神になろうとした」説、尾藤正英氏の「水戸光圀は勤王家、尊王家ではなかった」説、高群逸枝氏の「平安時代における招婿婚(男が妻方で夫婦生活を過ごす婚姻方式)」説など、著者にとってはどれも説得力があり一考の価値があるものの、誰も反論も再評価もしないため宙ぶらりんになっていると指摘しています。
こうした主張は一般読者というより、歴史研究に携わる人たちへ向けられたものですが、専門家が歴史と向き合う姿勢についても興味深く読むことができ、歴史好きであれば視野を広げるという意味では決して無駄にはならない1冊になっています。
野村の授業 人生を変える「監督ミーティング」
著者の橋上秀樹氏は、プロ野球ファンであれば元ヤクルトの野手として、引退後は複数の球団でコーチを努めてきた指導者として名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
現在は今年からプロ野球のイースタンリーグに参入しているオイシックス新潟アルビレックスの監督を努めています。
そんな橋上氏の野球人生にもっとも影響を与えたのが、ヤクルト、阪神、楽天などの監督を努めた名将と言われる野村克也氏です。
野村氏の野球を一言で表せば、データに基づいた論理的な采配が特徴であり、今でこそテクノロジーの発達とともにデータを活用するのは当たり前になっていますが、それをいち早くプロ野球へ取り入れた功績があります。
本書のタイトルにある「監督ミーティング」とは、野村監督が春季キャンプなどのまとまった時間がとれるときに選手たちへ行った講義のことを指しています。
そこでの話題は野球だけに留まらず、人生とは何か? 仕事とは何か? といったテーマを選手たちへ考えさせる内容だったようです。
野村監督は「人間的成長なくして、技術的な進歩はない」という強い信念があったようです。
橋上氏自身、そこでの教えを書き写したノートは10冊以上になり、本書は「監督ミーティング」のエッセンスを抜き出したものであり、私自身は未読ですが 野村の「監督ミーティング」のという作品の続編となるようです。
野村監督は野球に留まらず、経営など多くの本を読んできた読書家としても知られています。
プロ野球球団は、1軍~3軍選手、それらの監督コーチ陣、多くの裏方スタッフ、さらには球団社長やオーナーなどを含めるとかなり大きな組織であるといえます。
つまり監督という立場にある人間が、人材育成や組織論について学ぶのは自然の流れであり、監督として戦力的に弱小と言われるチームを何度も優勝に導いてきた実績を持つ人の言葉は価値があるのではないでしょうか。
そのため本書は、野球とは関係のない多くの読者にとっても参考になる1冊であると言えます。
本書には橋上氏が野村監督より教えを受けた多くの言葉が収録されていますが、目次からその一部を引用してみようと思います。
- 有能なリーダーは、前リーダーのよいところを取り入れる
- 感性を磨け。鈍感なヤツは何をやってもダメだ
- 勝負強いヤツとは開き直ることができるヤツだ
- 相手を決めつけるな、簡単に理解できると思うな
- 「データの落とし穴」にはまってはいけない
- 誰であっても教えを請いにいく素直さ、貪欲さ
- リーダーは考え方の基準を部下たちに示さなければならない
- リーダーがその仕事をいちばん好きにならなければならない
- 誰に聞いても「いい人」は、いいリーダーではない
- 「オレが100%、正しいわけじゃない」という教え方
- 味方のチャンスは相手のピンチ
一般的な会社組織においても通じる言葉が並んでいるのはないでしょうか?
会社の経営論や組織論からプロ野球チーム監督としてのヒントを学んだように、プロ野球という厳しい勝負の世界で長年結果を出し続けてき野村監督の教えから再び会社組織へフィードバックできる点は多いはずです。
史実を歩く
史実を元にした綿密な取材から生み出される吉村昭氏の作品は、"記録小説"と呼ばれます。
それは作品の舞台となる場所へ何度も赴いて資料を集め、専門家や市井の郷土史研究家たちへの取材を重ねるといった地道な活動に裏付けられています。
本書は、著者が今までは発表してき作品のいわば舞台裏、つまり創作秘話を明らかにした作品であり、ファン必見の1冊です。
吉村氏は多くの作品を残していますが、本書でその取材・執筆の過程を紹介しているおもな作品は以下の通りです。
- 破獄
- 長英逃亡
- 戦艦武蔵
- 桜田門外ノ変
- ニコライ遭難
- 生麦事件
いずれの作品の場合も取材への熱意と徹底ぶりは作家というよりも、まるで学者のようです。
しかし著者はそうした膨大な資料集めを以下のようにそれほど大変ではないと言い切っています。
地方へ行くだけでなく都内に足を向ける時も、そこへ行けば必ず眼にしたい資料があるはずだ、と考えて出かけてゆく。
長年このようなことを繰り返してきたので、勘というか、まずまちがいなく望んでいる資料を見出すことができる。
~中略~
傲慢のようであるが、事実なのだから仕方がない。期待をはるかに超えた資料を眼にして、興奮することもある。
ただ作品執筆のための調査は順調に進められても、肝心の執筆活動では大きなしくじりをしたことがあるそうです。
たとえば「桜田門外ノ変」では物語の書き出しを誤り、252枚もの執筆済み原稿用紙を庭の焼却炉へ投げ入れた経験があるといいます。
著者には最初の一行で小説の運命はすべてきまるという信念があり、強いプロフェッショナルとしての信念を感じます。
ちなみに吉村氏は酒豪としても有名であり、取材や資料収集のために訪れた地方で飲む小料理屋での一杯は何よりの楽しみだったに違いありません。
アメリカ彦蔵
主人公がある日突然、異世界に転生して活躍するストーリー、いわゆる"転生モノ"と言われるアニメやラノベが人気の分野となっているようです。
これを現実世界に例えるなら、異国にたどり着いた江戸時代の漂流者がそうした主人公たちに一番近い存在ではないでしょうか。
かつて和船が嵐に遭い、船が転覆することを免れるための最終手段として帆柱を切り倒すことが行われました。
しかし帆を失った船は"坊主船"と呼ばれ、コントロールを完全に失い潮の流れに身を任せるしかありませんでした。
そこで飢えと渇きのために多くの船員たちの命が失われましたが、中には幸運にも救出される人が存在しました。
とくに19世紀に入ってから太平洋で多くのアメリカ船籍の捕鯨船が操業するようになり、彼らに救出される日本人漂流者が増え、本書の主人公である"彦蔵"もその1人でした。
鎖国政策を続けてきた江戸時代においては、日本人にとって外国は完全に未知の世界でしたが、アメリカの地を踏んだ彦蔵をはじめとした元漂流者たちは、自分たちとまったく異なる言語と文化を持つ人間と接触することになるのです。
しかもそこでは蒸気機関で動く船や鉄道、蛇口をひねると水が出てくる水道、夜でも街を明るく照らすガス灯、さらには遠く離れた人間同士が連絡を取り合う電信など、未知のテクノロジーにも遭遇します。
まさしく彼らにとっては、完全な異世界に紛れ込んだ状態といってよいでしょう。
著者の吉村昭氏は、ほかにも漂流を題材にした作品を手掛けていますが、本書はその集大成といってよい1冊に仕上がっています。
本書の主人公は彦蔵ですが、作品中には彦蔵以外にも多くの日本人漂流者たちが登場します。
彼ら全員が例外なく故郷へ帰ることを望みますが、中には鎖国されている日本への帰国が叶わず異国の地で骨を埋めることを決心する人も出るなど、さまざまな人生を送りします。
本書の主人公である彦蔵は、彼らの中でもとくに数奇な運命を辿ることになります。
彼は15歳という若さで漂流から救出され、やがて英語を完全にマスターします。
そして多くの支援者たちの力によって教育を受け、日本人としてはじめてアメリカ大統領との面会を果たします(それどころか彦蔵は生涯において3人の大統領と面会することになります)。
恩人の勧めによって彦蔵はキリスト教へ改宗してアメリカ国籍を得ることになり、アメリカ人"ジョセフ・ヒコ"として幕末の日本の地を再び踏むことになります。
横浜で暮らすことになった彦蔵は新聞を発行し、日本における"新聞の父"と呼ばれるようになります。
それからも自らの意志で再びアメリカを訪れたりしていますが、維新後は日本人の妻を娶り、浜田彦蔵という名前で日本で暮らすことになります。
単行本で550ページにも及ぶ大作ですが、作品中には多くの漂流民たちの人生が丁寧に描かれており、情報化社会を生きる現代の私たちが世界中どこを訪れても彼らほどの驚きと戸惑いを感じることはないことを思うと、壮大な1つの物語といえるでしょう。
法師蝉
吉村昭氏の短編集です。
記録文学といわれるほど精密に史実を調査して執筆するのを得意とした著者ですが、本書のような純文学も発表しています。
史実を題材とした場合、著者は過去の出来事について登場人物の経歴を可能な限り詳細に取材し文献を調べ、誰がいつどこでどのような内容の発言をしたかだけではなく、その時の天気や月齢カレンダーまで徹底的に調査します。
こうして明らかになった細かい事実を積み重ねて過去の偉業や事件などを掘り下げていきますが、本書のような純文学にもそうした作風が生きています。
創作する物語の舞台となる街の風景、たとえば商店街にはどのような店が並んでいるか、主人公が泊まったとある地方の旅館の内装など、おそらくこうした描写は著者が頻繁に行った取材旅行の経験から生まれてきたものだと思われます。
本書に掲載されている一連の作品には共通点があります。
それは人生の秋を迎えた男たちが主人公であるという点です。
"人生の秋"というと定年、もしくは定年してから数年が經過したタイミングであり、具体的な年齢でいえば60~70歳くらいと推測されます。
次の世代に後に託して第一線から身を引き、子育てや住宅ローンといった責務からも解放される一方で、身体はある程度健康で老け込むにはまだ早過ぎる時期といったところでしょうか。
こうした境遇になり悠々自適日々を過ごす人もいると思いますが、本書に登場する主人公たちはいずれも闊達さよりも哀愁の方が強く漂ってきます。
いわゆる家に居ることが多くなり、仕事を引退してやること(やりたいこと)が無い、元気なのは妻の方というパターンです。
やはり文学作品には、若者に負けないバイタリティ溢れる老人よりも、秋風の中で襟に首をすぼめながら背を丸めて歩く初老の男性の方が絵になります。
いずれも主人公たちの心境を巧みに描いており、それは著者自身が本作品を"人生の秋"を迎えた年齢で執筆したからに他なりません。
本書には以下9作品が収められており、いずれも完成度の高い作品に仕上がっています。
- 海猫
- チロリアンハット
- 手鏡
- 幻
- 或る町の出来事
- 秋の旅
- 果実の女
- 法師蝉
- 銀狐
個人的には40代以上が読むと味わい深く感じられる一方で、若すぎる読者の場合、"哀しい"よりも"悲しい"が勝ってしまうかも知れません。
また男性だけでなく、是非とも女性にも読んでほしい1冊です。
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