史実を歩く
史実を元にした綿密な取材から生み出される吉村昭氏の作品は、"記録小説"と呼ばれます。
それは作品の舞台となる場所へ何度も赴いて資料を集め、専門家や市井の郷土史研究家たちへの取材を重ねるといった地道な活動に裏付けられています。
本書は、著者が今までは発表してき作品のいわば舞台裏、つまり創作秘話を明らかにした作品であり、ファン必見の1冊です。
吉村氏は多くの作品を残していますが、本書でその取材・執筆の過程を紹介しているおもな作品は以下の通りです。
- 破獄
- 長英逃亡
- 戦艦武蔵
- 桜田門外ノ変
- ニコライ遭難
- 生麦事件
いずれの作品の場合も取材への熱意と徹底ぶりは作家というよりも、まるで学者のようです。
しかし著者はそうした膨大な資料集めを以下のようにそれほど大変ではないと言い切っています。
地方へ行くだけでなく都内に足を向ける時も、そこへ行けば必ず眼にしたい資料があるはずだ、と考えて出かけてゆく。
長年このようなことを繰り返してきたので、勘というか、まずまちがいなく望んでいる資料を見出すことができる。
~中略~
傲慢のようであるが、事実なのだから仕方がない。期待をはるかに超えた資料を眼にして、興奮することもある。
ただ作品執筆のための調査は順調に進められても、肝心の執筆活動では大きなしくじりをしたことがあるそうです。
たとえば「桜田門外ノ変」では物語の書き出しを誤り、252枚もの執筆済み原稿用紙を庭の焼却炉へ投げ入れた経験があるといいます。
著者には最初の一行で小説の運命はすべてきまるという信念があり、強いプロフェッショナルとしての信念を感じます。
ちなみに吉村氏は酒豪としても有名であり、取材や資料収集のために訪れた地方で飲む小料理屋での一杯は何よりの楽しみだったに違いありません。