もうすぐブログで紹介してきた本も1000冊になろうとしています。
ジャンルを問わず気の向くままに読書しています。

アメリカ彦蔵



主人公がある日突然、異世界に転生して活躍するストーリー、いわゆる"転生モノ"と言われるアニメやラノベが人気の分野となっているようです。

これを現実世界に例えるなら、異国にたどり着いた江戸時代の漂流者がそうした主人公たちに一番近い存在ではないでしょうか。

かつて和船が嵐に遭い、船が転覆することを免れるための最終手段として帆柱を切り倒すことが行われました。

しかし帆を失った船は"坊主船"と呼ばれ、コントロールを完全に失い潮の流れに身を任せるしかありませんでした。

そこで飢えと渇きのために多くの船員たちの命が失われましたが、中には幸運にも救出される人が存在しました。

とくに19世紀に入ってから太平洋で多くのアメリカ船籍の捕鯨船が操業するようになり、彼らに救出される日本人漂流者が増え、本書の主人公である"彦蔵"もその1人でした。

鎖国政策を続けてきた江戸時代においては、日本人にとって外国は完全に未知の世界でしたが、アメリカの地を踏んだ彦蔵をはじめとした元漂流者たちは、自分たちとまったく異なる言語と文化を持つ人間と接触することになるのです。

しかもそこでは蒸気機関で動く船や鉄道、蛇口をひねると水が出てくる水道、夜でも街を明るく照らすガス灯、さらには遠く離れた人間同士が連絡を取り合う電信など、未知のテクノロジーにも遭遇します。

まさしく彼らにとっては、完全な異世界に紛れ込んだ状態といってよいでしょう。

著者の吉村昭氏は、ほかにも漂流を題材にした作品を手掛けていますが、本書はその集大成といってよい1冊に仕上がっています。

本書の主人公は彦蔵ですが、作品中には彦蔵以外にも多くの日本人漂流者たちが登場します。

彼ら全員が例外なく故郷へ帰ることを望みますが、中には鎖国されている日本への帰国が叶わず異国の地で骨を埋めることを決心する人も出るなど、さまざまな人生を送りします。

本書の主人公である彦蔵は、彼らの中でもとくに数奇な運命を辿ることになります。

彼は15歳という若さで漂流から救出され、やがて英語を完全にマスターします。

そして多くの支援者たちの力によって教育を受け、日本人としてはじめてアメリカ大統領との面会を果たします(それどころか彦蔵は生涯において3人の大統領と面会することになります)。

恩人の勧めによって彦蔵はキリスト教へ改宗してアメリカ国籍を得ることになり、アメリカ人"ジョセフ・ヒコ"として幕末の日本の地を再び踏むことになります。

横浜で暮らすことになった彦蔵は新聞を発行し、日本における"新聞の父"と呼ばれるようになります。

それからも自らの意志で再びアメリカを訪れたりしていますが、維新後は日本人の妻を娶り、浜田彦蔵という名前で日本で暮らすことになります。

単行本で550ページにも及ぶ大作ですが、作品中には多くの漂流民たちの人生が丁寧に描かれており、情報化社会を生きる現代の私たちが世界中どこを訪れても彼らほどの驚きと戸惑いを感じることはないことを思うと、壮大な1つの物語といえるでしょう。