幕末維新の民衆世界
世界的にはウクライナとロシアの戦争、イスラエルのガザ地区侵攻といったニュースが連日報じられており、国内では米価格の高騰やトランプ関税といったニュースが話題になっています。
こうした歴史に残るであろう出来事の中で人びとが何を考えて生活しているのかについてはニュース中でのインタビュー、そして何よりSNSの普及により、リアルタイムで知ることができます。
一方で過去の歴史上の出来事の中で、人びとが何を感じながら生活してきたかについては、その歴史的史料の少なさから教科書の中でも触れられることは殆どありません。
しかし江戸時代に入り、当時の日本人は世界屈指の識字率を誇るようになり、幕末維新の時期ともなると、多くの庶民が日記を残すようになり、またそれらが現存しています。
本書ではそうした膨大な庶民たちが残した日記を元に、黒船の来訪から維新直後の時代までを対象に紐解いています。
著者の佐藤誠郎氏は近代日本史を専門とする歴史学者ですが、維新志士たちや幕府側の要人たちからの視点とは一味違った、歴史のもつ重層構造を明らかにしてゆきます。
まずは1862年の黒船来航で有名なアメリカからのペリー提督率いる艦隊が日本沿岸を訪れた出来事に触れられています。
突然、異国船が訪れた出来事はやはり幕府の要人や武士たちを驚愕させたことが分かり、庶民だちの目から見ると村祭が延期になったり、江戸では武士の夜間外出が禁止されたため、商いが休みとなり日本橋や両国は閑散とした風景になったようです。
一方で翌年に再びペリーが来航した際には、庶民たちは見慣れぬ外輪船を見物しようと男も女も小舟に乗って見物へ繰り出しています。
ただしそれも一時的なもので、幕府の御用船がその間に割り込んできて異国船見物禁止を言い渡す事態になっています。
庶民たちは黒船の存在に最初恐怖を覚えたものの、やがて彼らに攻撃の意思がないと分かると、好奇心を抑えきれなかったようです。
ちなみに幕府から禁止された後も見物人は跡を絶たず、数十人が捕らえられたようです。
幕末に一貫して見られる傾向として、開国による金の流出が契機となって起きたインフレが挙げられます。
あらゆる物価が乱高下しながら全体としては上昇してゆくことを嘆く内容が残されており、とくに米の価格の高騰は現在の日本人にとっても実感できる出来事です。
ただし米への依存度が今と比べられないほど高い時代であり、幕府や裕福な商人たちが繰り返し貧窮民を対象に米やお金を援助した記録が残っています。
こうしたインフレは幕府の政策、そして外国人へ対する反発となってゆき、加えて開国によって広まったコロリ(コレラ)で多くの人が死んでゆく様子などは痛ましい内容です。
ほかにも江戸の長州屋敷が取り壊しになった際に、その廃材が江戸の風呂屋に払い下げになった出来事、徳川将軍である慶喜が鳥羽・伏見の戦いの後に大阪からフランスへ亡命した噂が広まるなど、それぞれ歴史上の出来事に対しての民衆の受け止め方を知ることができます。
こうした混乱の時期にはやはりというべきか、いわゆる多くのデマが広がることが多く、異人たちが女・子どもの生き血を飲むという説を真面目に信じている人が多かったことが分かります。
これはメディアやインターネットが普及していなかったことが原因と思われがちですが、むしろSNSの普及によりデマが当時よりも爆発的に広がる傾向があり、根底にある民衆心理は幕末の頃から変わっていないのです。
全体的に言えるのは幕末の内乱、その結果としての御一新といった混乱に振り回されながらも民衆たちは逞しく生活している点であり、たとえば戊辰戦争で官軍が東へ進軍する中、これを商機と見て戦地へと自ら赴く商人が居たりします。
歴史小説などでは描かれることの少ない当時の民衆たちの姿は、歴史へ対する新たな視点を与えてくれる新鮮なものであり、楽しく読むことができた1冊です。
古本食堂
本書は原田ひ香氏による神保町にある設定の「鷹島古書店」を舞台にした物語です。
主人公の鷹島珊瑚は帯広で老齢の両親を看取り、その後もそこで暮らしていましたが、兄の慈郎が急逝したことで、その遺言により兄の経営していた古書店を引き継ぐことになります。
しして本作品にはもう1人の主人公が登場します。
それは大学生の鷹島美希喜であり、彼女にとって珊瑚は大叔母にあたり、慈郎の生前から鷹島古書店に通っていました。
2人とも古書店の素人ではあるものの読書好きであることは共通しており、珊瑚は店主として、美希喜はアルバイトとして古書店を続けることになります。
古書店にはいろいろな客が訪れ、2人とその客との間に心温まるストーリーが繰り広げられてゆき、その過程で亡くなった慈郎の過去も明らかになってゆきます。
本書は6話から構成されていますが、それぞれに物語のキーとなる本、そしてグルメが登場します。
神田周辺には書店だけでなくカレーや喫茶店をはじめ昔からの有名店が密集していることでも知られており、作品中にはその名店のグルメが文字通りストーリーの味付けとして登場します。
ちなみに作品中の古書店は架空のお店ですが、実在する有名店のグルメや書店が登場します。
私自身はしばらく神保町を訪れていませんが、とくに学生時代にはたびたび訪れていた思い出のある場所です。
九段下から神保町を経て神田駅へ向かう一帯は裏通りへ一歩入ると都心でありながらも昔ながらの風情が残っている界隈で、東京の中でも私が好きな場所の1つです。
とくに地方出身の私にとって古本屋が立ち並ぶ神保町の風景が新鮮だった記憶があります。
本ブログで紹介している本の3~4冊に1冊は普通の書店では並ばない、つまり増販予定がない実質的な絶版本であり、古本としてしか入手できません。
私の場合、近くで定期的に開かれる大規模な古本市を楽しみにしていて、そこでまとめてそうした本を購入するのがここ数年の年中行事になっています。
その古本市では毎回30店以上の古書店が出店していますが、その中には当然のように神保町の店もあります。
おかげで通常の書店で購入した本も含めると、常時20冊くらいの積読本がある状態です。
出版不況の中で応援の意味を含めてなるべくネットではなく書店で本を購入するようにしていますが、一方で古書店が持つ独特の雰囲気や文化も魅力的であり、両者がうまく共存できる時代が続いて欲しいものです。
本作品を読んで久しぶりに神保町へ行きたい気持ちになりました。
そのマンション、終の住処でいいですか?
昭和40年代に建てられた都内にある赤坂ニューテラスメタボマンション。
有名建築家の故・小宮山吾郎による当時流行したメタボリズムの象徴的な建造物であるものの、老朽化という問題に直面しています。
外見はさいころ状の「細胞」を積み上げたようなデザインであり、最上階だけ2つの細胞が円錐形で並んで前方へ突き出ていることから、世間では「おっぱいマンション」と呼ばれていました。
この設定を読み、すぐに実在した黒川紀章デザインによる銀座の中銀カプセルタワービルをモデルにたマンションを思い浮かべた人も多いはずです。
本書はこの「おっぱいマンション」を舞台の中心として、さまざまな人たちの悲喜こもごもを描いた作品です。
まずは生前から父親(小宮山吾郎)とは距離を置いてきた長女の小宮山みどり。
かつて小宮山吾郎の右腕であり、今はデザイン事務所の代表を引き継いでいる岸田恭三。
教師を定年退職し、郊外から中古マンション(おっぱいマンション)を購入し引っ越してきた市瀬清夫妻。
40年間このマンションに住み続けている元女優の奥村宗子。
さらには彼らの家族や知人など登場しますが、それぞれが複雑な事情や過去を持っています。
このおっぱいマンションの老朽化による建て替えや修繕といった問題はマスコミによって全国的に報道されるようになり、最終的にはこの登場人物たちがマンションの将来を話し合う住民会議で勢揃いすることになります。
著者の原田ひ香氏は脚本家を経験していることもあり、この「おっぱいマンション」という巨大な舞台装置を中心とした人間ドラマの展開は、小説でありながらも舞台やドラマのような構成を連想させ、読者を一気に物語の中へ引き込むような魅力があります。
私自身もマンションに住んでいますが、個々の部屋は住人たちの個人所有であるものの、敷地や建物全体は共有物であり、老朽化などが進んだ場合、さまざまな人たちの事情や思惑が入り乱れることになるのだろうと将来の自分自身のことも何となく重ね合わせながら読んだこともあり、他人事ではないなとは思いつつも全体としては楽しく読むことができました。
戦士の遺書
戦史、昭和史を専門とする代表的なジャーナリストである半藤一利氏による1冊です。
本書は1992~1994年の間に行われた月刊誌での連載、及び単発で雑誌に掲載された2本の作品を加えてたものを文庫化したものです。
最初、著者はこの連載を依頼されたときに気が進まなかったといいます。
それは戦争において死を覚悟して書き残した遺書をテーマにした重いものであるからですが、多くの戦史に関する著書を発表してきた半藤氏はすでにその代表的な作家という立場にあり、だからこそそれに相応しい人選であったことも確かです。
本書では28人にも及ぶ軍人たちの遺書が、著者の紹介する経歴とともに掲載されています。
- 海軍中将 伊藤整一
- 海軍中将 安藤二十三
- 海軍大将 山本五十六
- 陸軍少将 水上源蔵
- 海軍大将 井上成美
- 陸軍中将 岡田資
- 海軍中将 大西瀧治郎
- 陸軍少尉 上原良司
- 海軍中将 宇垣纒
- 陸軍元帥 杉山元
- 陸軍大将 田中静豊
- 海軍少佐 野中五郎
- 陸軍大佐 中川州男
- 海軍技術中佐 庄司元三
- 陸軍大佐 山崎保代
- 海軍少佐 国定謙男
- 陸軍大将 山下奉文
- 海軍大佐 有泉龍之介
- 陸軍大佐 親泊朝省
- 陸軍少将 大田実
- 陸軍中将 栗林忠道
- 陸軍大尉 黒木博司・海軍大尉 樋口孝
- 陸軍中将 岡本清福
- 陸軍中尉 満渕正明
- 海軍少将 猪口敏平
- 陸軍中将 本間雅晴
- 陸軍大将 阿南惟幾
一括りに"帝国軍人の遺した遺書"といっても、書かれたシチュエーションは様々です。
それは迎えた最期が戦死、刑死、あるいは自裁(自殺)といった違いがあり、遺書についても辞世の句を添えて書かれた本格的なもの、あるいは日記や家族への手紙として書かれたものもあります。
また死を覚悟しているという点では共通していますが、その心情にもかなりの違いがあります。
たとえば戦争そのものを憂うような内容、多くの部下を死なせた自責の念に駆られているもの、残される家族への想いを中心としたもの、さらには一切の後悔なく軍人としての本領は果たしたといった内容などがあります。
読み進めてゆくと掲載されている遺書に同情したり、個人的には賛同できないものもありますが、やはり内容だけに重苦しいものであることは事実です。
いずれにしても過去に戦争という出来事があり、そこで死んでいった人びとが書き残した遺書が貴重な歴史的な史料であることは確かであり、これらをどう評価し何を想うのかは個々の読者に委ねられいるのです。
わたしの普段着
本ブログでも何冊か紹介してきた吉村昭氏のエッセイです。
本書の発表時点(2005年)では元気な様子の著者でしたが、その翌年に病没してしまうため結果的に最晩年のエッセイとなってしまいます。
本書には60篇にも及ぶエッセイが掲載されており、それらが以下の5つのテーマに分類されています。
- 日々を暮らす
- 筆を執る
- 人と触れ合う
- 旅に遊ぶ
- 時を歴(へ)る
まず「日々を暮らす」では家や近所、身の回りの人々に関する出来事が中心に描かれており、一番エッセイらしい作品です。
70台半ばとなった著者は、若い頃に肺結核の末期患者と診断された時期から奇跡的に回復した経験を持っていますが、体の不調もなく元気な様子であり、それでも電車で席をゆずられる機会が増えてきたことなどが綴られています。
「筆を執る」では、文字通り作家ならではの経験や、過去に発表した作品を執筆するに至ったきかっけなどが綴らています。
吉村昭ファンとしては興味深いエッセイであり、過去に読んできた作品へ奥行きを与えてくれます。
「人と触れ合う」では、編集者、また作品を書き上げるために取材て訪れた先での出会いなどに留まらず、歴史上に埋もれていた人を掘り起こした経験も同様に"出会い"として扱っています。
「旅に遊ぶ」では旅先での出来事が記されています。
著者は全都道府県を訪れており、例えば長崎には100回以上、札幌には150回以上、愛媛県宇和島には50回前後は訪れたといいます。
それでも著者はレジャーを目的とした旅行は皆無であり、また数回の講演のための旅行のほかは、すべて小説執筆のための取材旅行だったようです。
著者は1つの作品を書き上げるために何度も現地での取材を繰り返すことで知られていますが、その一端を垣間見ることができます。
最後の「時を歴る」では、自分の過去を振り返ったエッセイが中心です。
少年時代を過ごした町(日暮里)、風景、そして過去に出会い今は亡き人たちへの追憶からは、多くの名作を生み出し老境に差し掛かった作家ならではの雰囲気が漂い、そこからは吉村氏の原点や生きる上で指針としてきたことを垣間見ることができます。
ほかのエッセイでもそうですが、温和でありながらも作家としての"こだわり"は誰よりも強く、いわば真面目な職人肌である人物像が浮かんできます。
作家が追われがちな原稿の締め切りについても一度も遅れたことがないという逸話も、エッセイを読んでゆくといかにも吉村氏らしいと納得することができます。
趣味らしいものといえば、お酒が好きだったため飲み歩きくらいでしたが、この面でも酒癖の悪さを微塵も感じさせない「きれいなお酒の飲み方」が出来る人であったようです。
本書の帯には「静かな気骨に貫かれたエッセイ集。」という紹介があり、まさしくその通りだなと納得した1冊です。
楽に生きるのも、楽じゃない
国民的長寿番組「笑点」の司会でお馴染みの春風亭昇太師匠のエッセイです。
「笑点」でお馴染みとは言いつつ、私自身はその時間帯にTVを見ることは滅多にありません。
一方でたまに行く寄席で2回ほど著者の高座を聴いたことがありますが、2回ともその日1番の笑いは昇太師匠の落語だったことはよく覚えており、それが本書を手に取るきっかけにもなりました。
ただし本書は著者が「笑点」のメンバーとなる前の1997年に発表されたエッセイであり、それが2001年に文庫され、さらに出版社を文藝春秋へ変えて改めて2017年に出版された1冊です。
そのため、"あとがき"が3つも収録されている面白い作りになっています。
落語家という点では志ん生、米朝、談志辺りの著書を過去にブログで紹介したことがありますが、その中では一番落語へ言及している箇所の少ない1冊になります。
何気ない日々の出来事、大好きなお酒のこと、同期で仲の良い立川志の輔師匠と定期的に出かける海外旅行のこと、さらには自分で作詞した歌を載せたりと、かなり自由なエッセイとなっています。
読み進めてゆくと、たしかに談志師匠のように真面目に落語論や演芸論を語るのは似合わない人だなというのが感想です。
本書の中で唯一落語論について語っているのは、付録のような形で収められている立川談春師匠との対談内容のみです。
私自身、好きな落語家が何人かいますが、落語を"上手い"とか"名人"で評価するほどには詳しくありません。
良い意味でも悪い意味でも落語の本質は大衆演芸であり、個人的にはその場の観客を楽しませることが全てだと思っています。
そうした意味では著者は間違いなく一流の落語家であり、私にとって著者が名人に値するかどうかはどうでもよい問題なのです。
本書が最初に発表されたのは著者が39歳の時ですが、現在は60歳中盤となりベテランの域に入ろうとしています。
それでも落語会の重鎮のような威厳を感じさせないのは、"芸が軽い"からではなく、彼の個性や芸風がそうさせるのであり、それは立派な芸人としての魅力であることが本書からも伝わってくるのです。
登録:
投稿
(
Atom
)