幻影への脱出
今までSF小説品は年間で1~2作品しか読んできませんでしたが、今年は早くも本書で5作品目となります。
今回はジョン・ブラナーというイギリスのSF作家で、私にとってはじめての作家です。
本作品は1963年に発表され、日本では1976年にハヤカワSF文庫として出版されました。
SF小説といっても作品の舞台は近未来の地球であり、火星や金星への探索が始まっているものの、まだテラフォーミングは始まっていない状況です。
地球の人口は80億人を超えて資源が枯渇し、食糧を含めたあらゆる物資が不足している近未来という設定です。
おまけに各国政府はこうした問題に対処できないため統治を放棄し、代わって国連が地球上ただ1つの政府として何とか機能しているという状態です。
本作品が発表された1960年代は大気汚染、水質汚染、化学物質による汚染など、深刻な公害問題が世界各地で発生し、環境問題への意識が高まり始めた時代です。
一方で現実の世界では既に2023年に本作品と同じく地球の人口が80億人を突破していますが、幸いなことに地球規模での資源枯渇には至っていません。
それでも地球温暖化による異常気象、生態系への影響などは深刻な問題となりつつあり、遠からず本作品のような未来が訪れる可能性が無いとは言えません。
ストーリー自体は比較的シンプルで、こうした社会不安の中でハッピー・ドリームと呼ばれる麻薬が若者たちを中心に爆発的に流行するといった現象が起こります。
この問題を調査するのが主人公ニコラス・グレイヴィルであり、彼の肩書は国連の麻薬捜査官です。
この麻薬は多くの中毒者を生み出しているにも関わらず製造拠点、流通経路が謎に包まれており、しかも初回は5ドル、2回目以降は1回あたり2ドルという驚くほど安価に入手することができます。
この安価で流行している麻薬という点は、最近世界的な問題になりつつある合成麻薬フェンタニルを連想してしまいます。
携帯電話やインターネット、さらにはAIのようなテクノロジーは登場せず、主人公は所構わず喫煙するヘビースモーカーである点などは本書が発表された時代を感じさせますが、作品の大筋としては妙な現実感がある作品になっています。
ネタバレを防ぐためこれ以上のストーリー紹介は控えておきますが、人口問題、資源枯渇問題が解決されないまま事態が深刻な状態となり、袋小路へ迷い込んでしまった近未来を描いた作品です。
未来を自由に空想して楽しむスペースオペラ作品ではなく、現実問題を風刺しているという側面が強く、今読んでも時代を超えて色々と考えさせられる作品になっています。
ネトゲ戦記
暇空茜(ひまそら あかね)氏による自伝です。
私自身は著者の名前は知らず、本のタイトルと書店のポップ紹介文だけを見て購入してみました。
本書は以下の3部構成になっています。
- 第一部 ネトゲ編
- 第二部 起業編
- 第三部 裁判編
いきなりですが本書の秀逸な点として、3部構成で書かれているテーマに見事なメリハリがある点です。
文章自体にはゲーム用語やネットスラングなどが多用されていることもあり、読みにくさを感じる部分がありますが、ページ下部に細かく注釈が付けられています。
また本書は右開きの横書きというスタイルですが、これは注釈の位置を含めてオライリー(O'Reilly)本に代表されるコンピューター技術書では定番の構成であり、個人的には面白い試みだと思いました。
まず第一部のネトゲ編ですが、著者はいわゆる高校を中退してひたすら自宅に籠もりゲームに没頭したネトゲ廃人であった経歴を持っています。
おもにUO(ウルティマオンライン)、FF11(ファイナルファンタジー11)といったゲームに没頭した時期を描いており、著者はいずれのタイトルにおいても有名プレイヤーとして活躍しています。
もっとも当時はeスポーツのような職業はないため、ゲーム自体では生計は立てられない時代です。
実はこの2つのタイトルは私自身もプレイした経験があり、かつネットゲームの中毒性は身をもって体験していることから、かなり感情移入しながら読むことができました(もっとも私がネットゲームを始めたのは社会人になってからであり、仕事が忙しくなるにつれ2年ほどでプレイするのを止めています)。
元々著者にはゲームの才能があり、さらにそこで得た知識と経験を活かしてゲーム会社へ就職することになります。
その顛末が第二部の起業編になります。
ゲーム業界に限らず当時のネットベンチャーの労働環境はブラックなところが圧倒的に多く、私も細いジャンルは違うものの同じような環境で仕事をしていた経験があることから、ここでも感情移入しながらどんどん読み進めてゆきました。
またネットベンチャーによくある現象として、創業メンバー(=経営陣)間での人間関係が泥沼化するという点です。
本当の意味での黎明期(事業立ち上げ時期)では寝食を忘れて共通の目標に向かってワンチームで進むことができますが、逆に事業が軌道に乗り始めると色々な問題が表面化することがしばしば起こります。
ここで創業メンバーの何人かが抜け、成長してゆく企業と倒産する企業とに別れます。
著者の場合、青天の霹靂のようにある日会社から追い出されることになります。
知らないのは本人のみで、水面下ですべての根回しが完了している状態であったため、当時の著者に反論の余地はありませんでした。
しかし社運を賭けたゲームタイトルの製作において中心的な役割を担っていたのは著者であり、この措置を不当であるとして裁判で争うことになる顛末が第三部の裁判編です。
大きな功績がありながらも、著者ほど鮮やかに創業者メンバーから裏切られる経験を持っているのは、ある意味で貴重だと言えます。
この第三部が一番長い章となりますが、それも裁判が8年にも及ぶ争いとなったからでした。
さすがに私にはこうした裁判の経験はありませんが、この部分は単純な好奇心として面白く読むことができました。
裁判で使われた書面もかなり豊富に掲載されており、そこからは著者が全身全霊で裁判を闘ったことを伺い知ることができます。
結果的に著者は裁判に勝利して6億円もの賠償金を手にすることになりますが、全人格、全人生を賭けて闘い続けた年月を思うと決して法外な金額ではない気がします。
現在の著者が具体的にどのような活躍をされているのか詳しく調べていませんが、個人的には再びゲーム業界に戻ってきて欲しいと思いました。
たまたま私自身の経験と重なる部分があり感情移入できる場面の多い1冊でしたが、そうでない人にとってもノンフィクション作品として充分に楽しめる1冊だと思います。
国境のない生き方 私をつくった本と旅
著者のヤマザキマリ氏は、「テルマエ・ロマエ」に代表される漫画家として有名ですが、エッセイ作家としても活躍されています。
とくに彼女の経歴はとてもユニークであり、それが多方面で活躍している源泉力にもなっています。
母親が音楽家(ヴィオラ奏者)という母子家庭で育ち、自身は音楽家ではなく画家を志すようになります。
14歳でヨーロッパへ1人旅を経験して17歳で高校を中退してイタリアで画家となるために留学し、そこで11年間暮らすことになります。
やがて詩人のイタリア人との間に子どもが誕生するものの、詩人のあまりの生活力の無さに離別し、シングルマザーとして男の子を育てることを決意します。
そこで画家として生活するのは難しいため、漫画家として生活費を稼ぐことを決意するのが現在の活躍につながっていきます。
それから日本に帰国して北海道でイタリア語の講師、ラジオパーソナリティ、TVリポーターとして活躍しつつも、のちに学者をしているイタリア人と結婚します。
それからは夫の仕事の都合で、エジプトやシリア、ポルトガル、アメリカなどを転居しながら暮らし、現在はイタリア在住という経歴を持っています。
彼女自身が好奇心や独立心旺盛だったことはもちろんですが、14歳でのヨーロッパ1人旅、17歳でのイタリア留学は母親の教育方針であったというから驚きです。
本書ではそうした彼女自身の経歴を追いながら、幼少期より読書家であったか彼女が人生の転機となった際に読んでいた(漫画も含む)本、映画などを紹介しています。
著者に限らず青春の多感な時期、人生の岐路に立った時、大きな困難にぶつかった時に出会った書籍や映像作品、音楽は後々になっても大きな影響力を持ち続けるものです。
著者は1967年生まれで私よりすこし上の世代であるため、漫画は完全に一致しないまでも幾つかの作品は私が読んでいたものと重なる部分があります。
また活字作品では開高健、安部公房、大岡昇平、ガルシア・マルケス、三島由紀夫などの作品を取り上げています。
映画はヨーロッパ作品がメインであるため私が知っている作品は殆どありませんでしたが、それでも著者が紹介している作品を興味深く読むことができました。
著者ほど起伏に富んだ退屈しない人生を送った人は少ないと思いますが、それだけに経験してきた挫折も大きく、かつては死のうと思った時期もあったようでした。
もう1つのテーマである"旅"については、私たちが思い浮かべるツアー旅行や1人旅とはすこし意味合いが違っていて、多くの国々で暮らしてきた経験そのものが著者にとっての"旅"であり、さすがにスケールが違います。
著者の言いたいことは、自分の暮らしている町や国を超えて、地球サイズの地図の中で生きてゆけば仕事や人間関係といった悩みは大抵片付くものであり、あらゆる扉を開け放って生きる場所を見つければいいというエールにほかなりません。
イタリア在住の著者自身もまだまだ1か所に留まる気はないようです。
死海のほとり
本ブログでかなり前に遠藤周作氏の「イエスの生涯」をレビューしていますが、本書「死海のほとり」とは表裏一体をなす作品であると著者は述べています。
「イエスの生涯」は著者独自の解釈によるイエス・キリストの伝記という形の作品ですが、本作品は現代と過去を行き来しつつ2つの物語によって構成されています。
1つ目は「巡礼」という物語であり、私(著者自身)がエルサレムを訪れ、そこで聖書研究をしている学生時代の友人・戸田と一緒にイエスの軌跡を訪れる、つまり巡礼するという構成になっています。
そして2つ目はイエスが生きてる時代、つまり約2000年前のエルサレムが舞台であり、弟子や彼と関わりを持ったユダヤ教徒、ローマ帝国の為政者や軍人、さらには市井のから見たイエスの姿が「群像の人」というタイトルで描かれています。
私自身は聖書(新約聖書)を読み込んだ経験がなく、散発的に何となく内容を知っている程度です。
聖書にはイエスが水をぶどう酒に変える、また盲人や不治の病を治すといった奇跡を行ったと記されていますが、著者の描くイエス像にはそうした奇跡は後世の弟子や後継者たちが付け足したものとして排除し、あくまでも1人の人間としてイエスの姿を描いているという特徴があります。
こうした解釈が神学的にどう評価されているかは分かりませんが、すくなくとも著者の作品中からは宗教者の持つ教義臭さのようなものは感じられません。
そもそもエルサレムを訪れた私(著者)は、熱心な宗教心から巡礼を思い立ったわけではありません。
聖書に書かれている内容、もっといえば信仰心そのものがグラついている状態であり、その迷いを解決するべく思い立った巡礼なのです。
"私"が同伴をお願いした学生時代の熱心なキリスト信徒であった友人・戸田はエルサレムにある国連組織の中で聖書研究に従事していますが、聖書の中から事実(史実)を知ろうとすれば知るほど、その殆どが根拠のないものであり、現代に残っている"聖地"と言われるものの大部分が人為的に後世になって作られたものであるとことも知っています。
何よりも戸田自身が"私"と同じように、信仰心を失いつつあるような状態でした。
そんな2人にリンクするように、当時を描いた物語においてもイエスは奇跡を行えない「何もできぬ人」とした描かれ、その事実が知れ渡ってキリストが迫害されるようになると弟子たちは1人また1人と彼の元を去ってゆきます。
イエスにできることと言えば、重病人や癩病患者、盲人たちと一緒に過ごし、手を握り、一緒に涙を流すことだけなのです。
彼の説く"愛"とは現代だけでなく、2000年前の過去おいても現実的には何の役に立たないモノとして人びとの嘲笑を受けるのです。
つまり私(著者)と戸田、そしてイエスを取り巻く弟子たち、この両者は2000年の時を超えて信仰に迷う同じ立場に置かれているのです。
これはキリスト教に限らず、信仰の本質を問いかけているように思えます。
(本作品とは逆に)聖書に書かれている通りイエスが奇跡によって病人を癒やし、死人を蘇らせることすら出来たとするならば、人びとは現実世界の目に見える利益を求めてその宗教を信仰するという見方もできるからです。
宗教に求められているのは物理的な利益ではなく、心の平穏であることは百も承知ですが、そのいずれも満たすことができずに生まれて死んでゆく人が大多数なのが現実なのです。
見方を変えれば人とは迷い続ける利己的で弱い存在であり、そうした人びとを否定せず寄り添う同伴者のような存在がイエス(宗教)であるという視点は遠藤周作氏のほかの作品からも感じることのできるテーマであり、私のようにクリスチャンでなくとも考えさせられる内容になっています。
塞王の楯 下
今村翔吾氏による「塞王の楯」の下巻のレビューです。
下巻では主人公・匡介が率いる穴太衆・飛田屋にとって最大のライバルが本格的に登場します。
それは穴太衆と同じ近江に集住している鉄砲鍛冶集団・国友衆(くにともしゅう)です。
戦国時代の戦い方を大きく変えたのが鉄砲の存在であり、その鉄砲をより強力に進化させてきた技術集団が国友衆であり、彼らを率いるのが匡介とほぼ同世代の彦九郎という設定です。
最強の矛が国友衆であるならば、最強の楯が穴太衆ということになり、その矛盾を決着させるための戦いが下巻で繰り広げられます。
舞台は実際に繰り広げられた大津城の戦いになります。
関ヶ原前夜に行われた有名な合戦といえば真田氏と徳川氏との間で行われた上田城合戦が知られていますが、近江国において東軍に味方した京極高次をはじめとする3000名が籠城する大津城へ対して、毛利元康を大将とした立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら15000名が攻め寄せたこの合戦も有名です(作品中では4万の軍勢となっている)。
しかも上巻では主人公の匡介がはじめて1人で仕事を任せられたのが、この大津城の外堀を空壕から水壕へと移行させる工事であり、いわば決戦の舞台として申し分ない伏線が張られています。
石を自由自在に積み上げる穴太衆と、10町(約1.1km)もの射程距離を持つ大筒で攻撃を仕掛ける国友衆との戦いは、本作品全体を通したクライマックスになります。
戦国時代における野戦で両軍が真っ向からぶつかり合う合戦も魅力的ですが、時間をかけて行われる城攻めも見どころがあります。
とくに攻め手の将の1人である立花宗茂は戦国時代を代表する名将の1人であり、対する京極高次は名家の出身であるものの、信長の妹・お市の娘であり、秀吉の妻・淀殿(茶々)の妹でもあるお初が妻であったことから、その血縁関係により運良く大名になれた人物であり、当時から妻の七光りだけで出世できた"蛍大名"と当時から揶揄されてきた人物であり、お世辞にも名将とは言えない人物でした。
作者はそれを逆手に取って天真爛漫な、そして何事も家臣(部下)たちへ一任したら口を出さないという、今どきのマネジメント方法としてはむしろ好ましい手法を採用している武将として高次を描いています。
戦国時代をエンタメ小説として描いているため、先入観には囚われず、登場人物たちを魅力的に描いている点が印象的でした。
それは主人公側だけに留まらず彼らと敵対する人物たちにも言え、単純な勧善懲悪という構図でストーリーを展開していないという点も長編小説として読者を飽きさせない、つまり作品に愛着を抱きやすい工夫がされています。
戦国武将同士の戦いは基本的に領土を巡っての弱肉強食の争いですが、そこに領土的野心が絡まない純粋な職人同士(穴太衆vs国友衆)の意地がぶつかり合うというという新しい視点を与えているのが本作品の秀逸な部分であり、普通の歴史小説では描けない世界を表現できている作品といえます。
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