スーパーリッチ
タイトルにある"スーパーリッチ"を直訳すれば"大金持ち"ということになります。
本書ではスーパーリッチをビリオネア、つまり10億ドル以上の資産を持つ人びとを指す言葉として具体的に定義しています。
これを日本円に換算すると1400~1500億円の資産を持つ富豪ということになり、私には想像できないレベルの金持ちです。
著者の太田康夫氏は日本経済新聞社の記者として、経済へ大きな影響を持つ彼らへ取材をしてきた経験を持ちます。
こうした大富豪は世界一の経済大国であるアメリカで一番多いのですが、その次に多いのは21世紀に入って経済成長の著しい中国です。
社会主義国家で経済格差の象徴でもあるスーパーリッチが増えているのは皮肉な現象であるといえます。
本書ではそんなスーパーリッチたちの衣食住、さらには趣味やバカンスの過ごし方などを紹介しています。
またスーパーリッチの中にも世代の違いによる価値観の違いが生まれており、かつての金持ちがブランド品や高級車、不動産といった"モノ"へ対してお金を消費する時代が変わりつつあり、特別な場所、食事などによる経験、つまり"コト"へ対してお金を使う風潮へと変わりつつあります。
本書ではスーパーリッチ、つまりビリオネアだけでなく、ミリオネア(100万ドル/約1.5億円以上の資産を持つ人たち)たちの傾向についても言及しています。
どちらもお金持ちには違いありませんが、この両者の間にはかなりの経済力格差があり、章によってはビリオネアとミリオネアが入り混じって記載されている点が分かりにくく残念な点でした。
私自身、10年近く前から富裕層向けビジネスが将来有望であるという話を聞いたことがあります。
それをはじめ聞いた時は、金持ちだけを相手に商売をしてもそもそも絶対数が少ないため、充分な需要が得られないのではないかと漠然と思った記憶があります。
しかし日本を含めて世界的に貧富の格差が年々広がりつつあり、たとえばアメリカでは上位10%の富裕層が全金融資産の52%を所有し、下位50%が所有する同資産はわずか8.5%という衝撃的なデータがあり、日本においてもその数字に近づきつつあります。
つまり、今や富裕層をターゲットから外したビジネスは非効率であるという時代が到来しているのです。
これはインバウンド観光客を代表とした一泊10万円のホテル、一杯5千円のラーメンといった一般市民からは法外な値段に感じるサービスや商品へ対して確実な需要があることからも分かります。
とはいえ私自身は富裕層には縁がないため、彼らの実態を知るために本書を手にとってみた次第です。
一方で本書の終盤で著者は、この格差社会の持つ危うさを指摘しています。
極端に経済格差の広がった状況は社会不安を招くという理論は私にもはっきりと理解できます。
必死に働いても上がらない賃金、あるいは解雇された人びとが明日の生活にも不安を抱えている一方で、雪だるま式に富を増やしている金持ち(その多くは彼らを雇用する資本家でもある)との間に、深刻な亀裂が入るのは当然のことだからです。
さらに付け加えるとこれも世界的な動きですが、経済的な影響力を持つ人びとは同時に政治的にも大きな影響力を行使できることを意味しており、世代を超えて格差を固定してゆく性格を持っています。
そして過去の歴史から行き過ぎた格差は政策によってではなく、革命という名の内戦、もしくは国家間の戦争によってしか解決していないという事実が不気味な将来を暗示しているかのように感じてしまうのです。
幕末百話
著者の篠田鉱造は明治4年東京生まれで報知新聞社へ入社し、明治35年から幕末を知る古老たちからの実話を「夏の夜物語」、「冬の四物語」として新聞で 連載し、明治38年に本書「幕末百話」として出版した本が元になっています。
この本の目的は知らせざる史実の解明ではなく、市井の人々の回顧録、つまり幕末を生きた古老たちからの昔話を集め後世に伝えてゆくこと自体を意図したものです。
よって昔話を語る老人たちの中には維新の立役者や幕府の要人といった名の知れた人物は1人も登場していません。
それだけに飾らない味のある昔話が掲載されており、その中から幾つか簡単に紹介してみたいと思います。
江戸の佐竹の岡部さん
佐竹家の家来で岡部菊外という生涯に81人斬りをした侍の話。町人相手へ無理難題を吹っかけたりしていたが、目の見えない按摩を辻切りした後にその怨念で病死したという。
ズバヌケた女国定忠次の妾
むかし本石町(日本橋あたり)に住んでいたお事という女性が、元は国定忠次の妾であったという話。男まさりの気性で、役者の(市川)小団次の後妻となり、その身上を盛り返したという。
江戸名物折助の生活
折助(武家で使われた下男)たちの生活実態を語った話。折助の仕事といえば殿様が登城する際のお供くらいで、彼らの当時の大部屋での暮らしの様子(食事や博打など)を紹介している。
血判起誓文のお話
歴史小説でよく出てくるいわゆる血判状についてのお話。すでに幕末の頃の血判は形式的なものになってしまい、勢いよく指を切るのではなく、薬指の爪の下の所を軽く突いて滲んできた血を押すだけだったこと。
最後に血判の文例を実際に書いて紹介している。
撃剣修行の道場
むかし斎藤弥九郎の道場(練兵館)へ通っていた人の昔話。寒稽古や道場へ行く途中に夜鷹蕎麦を食べたときの様子、さらに蕎麦屋の主人と揉めて峰打ちを食らわせたら逃げ出したので、置いていった蕎麦をたらふく食べた思い出を語っている。
どれも他愛もない話のようですが、それだけに当時の風景が蘇ってくるような独特の雰囲気があります。
本書の終盤では幕末百話とは別に「今戸の寮」という話が掲載されています。
当時、今戸(今の台東区の隅田川沿い)の寮(当時の別荘の呼び方)で女中をしていた老女による回想録で、当時の上流の人びとやそこで働く人たちの暮らし向きが伝わってくる内容です。
本書の内容が掲載された明治30年代に暮らす人びとにとって、すでに幕末は遠い昔の出来事となってしまい「江戸は遠くになかりけり」というのが実感だったようです。
CAN'T HURT ME
タイトルの"CAN'T HURT ME"を直訳すれば、"私を傷つけることは出来ない"ということになります。
著者のデイビッド・ゴギンズには次のような紹介文があります。
退役海軍特殊部隊(ネイビーシール)。米軍でシール訓練、陸軍レンジャースクール、空軍戦術航空管制官訓練を完了した、たった一人の人物である。
これまでに60以上のウルトラマラソン、トライアスロン、ウルトラトライアスロンを完走し、何度もコース記録を塗り替え、トップ5の常連となっている。
17時間で4,030回の懸垂を行い、ギネス世界記録を更新した。
やたら情報量が多いですが、尋常な経歴でないことは分かります。
たえとばネイビーシールの訓練が過酷で、その任務が命の危険と隣合わせにあることは私も知っていますが、ほかの経歴も合わせて考えると、とんでもなくマッチョでタフなアメリカ人です。
デイビッド氏はこうした経歴を才能ではなく、努力によって成し遂げたと述べており、本書は自伝であると同時にその考え方や取り組み方を同時に伝えてくれます。
昨年から定期的に読んでいるビジネス書が似たような内容であると感じ始めたこともあり、すこし毛色の違ったものを読んでみようと本書を手にとってみました。
そしてその期待は見事に的中し、著者は「タイパだのコスパだの、手抜きや効率なんてクソ食らえ」という考えで、自身を限界までハードに追い込み、周りからクソヤバいやつだと思われるくらい努力を続けることが重要だと主張しています。
なぜなら人間は本当の力の40%しか出していないはずであり、限界を超えた努力を続けることでその上限を突き破って不可能に思えることを次々とやり遂げ、自分を変えることが可能になるということです。
著者は暴力と貧困に怯える少年時代を過ごし、黒人であることから多くの差別を体験してきました。
これを現代風にいえば"人生ガチャに外れた"という表現になりますが、著者はそれを"甘え"であると一蹴し、すべては自分次第、つまり自分の人生は自分で何とかするしかないと主張しています。
とはいえ著者は最初から「鎧の心」を身に付けていたわけではなく、何度も挫折、失敗を繰り返しながら、試行錯誤の末に辿り着いた答えであり、本書にはその過程が細かく書かれています。
これをビジネスに応用するならば、昨今話題になっている働き方や生活スタイルを見直すワークライフバランスとはまったく真逆の考え方で、自分の心に打ち勝つには「とりつかれたかのような努力」、「とりつかれたかのようなハードワーク」が絶対に欠かせない要素であり、睡眠時間を3時間に削ってでも働き続ける姿勢が必要だということになります。
つまり昭和サラリーマンの「24時間戦えますか」のような世界観であり、TVで本書に書かれているような発言をすると大問題になりかねない時代ですが、本書は全米で500万部を記録した凄まじいベストセラー作品であり、日本以上に生産性や効率性にうるさく、AIの分野で世界を牽引するアメリカでこうした作品に多くの共感が寄せられていることを考えると、その懐の深さを改めて実感します。
ただし本書は単なる過激で直球な言葉の並ぶ自己啓発本ではなく、全体を通して著者が読者を叱咤激励してくれるような体温を感じることも事実です。
ありふれた世間並みの成功ではなく、周りから不可能だと言われるような目標へ向かって挑戦を続ける人にとって著者の言葉は勇気づけられるものであり、自分を変えたいと思っている人にとってもヒントを与えてくれる1冊です。
春の城
本作「春の城」は1952年(昭和27年)に発表されて読売文学賞を受賞し、著者の阿川弘之氏にとって出世作となった作品です。
阿川氏は帝国海軍を扱った作品を多く発表していますが、それは自身が大学生時代に学徒出陣により海軍予備員となった経歴が大きく影響しています。
本書はそんな自身の体験を元にした作品であり、作品が発表された時期は戦後6年が経過し、ようやく戦後の混乱期から脱出しつつあるものの、まだまだ戦争の傷跡が日本各地に残っている時代でもありました。
またもう1つ忘れてはならないのが、著者が広島市出身であり、両親は無事だったものの原爆により多くの知人を失った経験を持っているという点です。
著者の世代は青春時代の多感な時期に戦争を経験しており、それだけに本作品は戦争小説であると同時に青春小説でもあるという特徴を持っています。
主人公は東京帝国大学(現在の東大)文学部で日本文学を専攻し、学生時代を満喫しつつも勉学には打ち込めない、いわゆるモラトリアムな期間を過ごしていました。
将来は小説家を目指していましたが、日本がアメリカへ対して開戦し戦争が本格的になるにつれ、学徒動員の足音が聞こえてきます。
これは当時の若者でなければ本当に理解できない心境だと思いますが、将来の夢を抱きつつも、いずれ死ぬかも知れない戦地へと赴かなければならないという状況、つまり戦争という大きな時代の流れの中で自分の意思とは関係なく、未来そのものが不確かなものに思えてくるという不安定な心理がよく描かれていると思います。
心の底で好意を持っている女性との縁談の話も持ち上がりますが、そうした状況の中で主人公の気持ちはつねに不安定な状態です。
一方で学徒出陣により海軍予備員となると、戦争のために少しでも自分の力が役に立てばという気持ちも湧いてきます。
しかし軍では当然のように今まで経験したことのない厳しい上下関係やルールに馴染めない自分がいて、そこでも主人公の気持ちは複雑に揺れ動いてゆきます。
やがて戦況は悪化の一途を辿り、それは海軍に籍を置く主人公も実感するところであり、故郷の友人や同級生たちの中には戦死する者も出てきます。
やがて中国へ派遣される主人公は、そこでアメリカ軍によって故郷に原子爆弾が落とされたことを知るのです。。
とくに原爆のシーンでは、井伏鱒二氏の「黒い雨」の中にも見られる悲惨なリアリティのある描写に圧倒されます。
戦争小説の持つ暗いイメージと青春小説にある甘酸っぱいイメージが渾然一体となったような作品であり、自身の体験を元にしているだけにフィクション小説では決して到達できない、まさしく著者でなければ生み出せなかった作品であるといえます。
時代を超えて読み継いでほしい名作の1つであり、万人へお勧めできる1冊です。
日本人と日本文化
国民的作家・司馬遼太郎氏と世界的な日本文学研究家であるドナルド・キーン氏の対談本です。
2人の専門分野は異なるものの同年代であり、当時の中央公論社の会長がこの2人の対談を企画して実現したようです。
出版時期から対談は昭和46~47年頃に行われたと予測され、2人とも50歳目前の油の乗り切った時期であったことが分かります。
また対談にあたり司馬氏の方が、キーン氏へ対して自身が苦手意識のある日本文学についての話題を抜いてくれるならば、または自分の小説を読んで来ないことを条件に出したようです。
加えて主催者へ司馬氏らしいお願いをしています。
偶然というものが作為的につくれるものなら、そのような条件をつくってください。
つまり日本人と日本文化について関心をもっている同年配の人間二人が、ふと町角で出くわして、そこはかとなく立ちばなしを交わした。
というふうな体にしてくださるとありがたいです。
対談自体は司馬氏がリードして進めている印象を受けますが、お互いの発言を尊重して終始なごやかな雰囲気で対談が進んでいます。
タイトルにあるように、"日本"そのものをテーマにしていますが、以下目次の引用から分かるとおり、その話題は多岐にわたっています。
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第一章 日本文化の誕生
- 日本人の対外意識
- 外国文化の受け入れ方
- 「ますらおぶり」と「たおやめぶり」
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第二章 空海と一休
- 国際的な真言密教
- 一休の魅力
- 切支丹
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第三章 金の世界・銀の世界
- 足利義政と東山文化
- 革命としての応仁の乱
- 金の復活-鎌倉時代
- 日本的な美
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第四章 日本人の戦争観
- 忠義と裏切り
- 捕虜
- 倭寇
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第五章 日本人のモラル
- 日本人の合理主義
- 日本人と儒教
- 「恥」ということ
- 他力本願
- 西洋芸術・東洋道徳
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第六章 日本にきた外国人
- 津和野
- 緒方洪庵塾
- シーボルト
- ポンペ先生
- クラーク、ハーン(小泉八雲)
- アーネスト・サトー
- フェノロサ、チェンバレン、サンソム
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第七章 続・日本人のモラル
- 風流ということ
- 英雄のいない国
- 再び日本の儒教について
- 庶民と宗教
- 原型的な神道
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第八章 江戸の文化
- 上方は武士文化、江戸は町人文化
- 赤穂浪士
- 江戸文学を翻訳して
- 奇人、江漢と源内
- 本居宣長-むすび
今から50年以上も前に行われた対談ですが、現代において"日本人"、"日本文化"という同じテーマで対談を行ったときに、本書と同じような熱量や深さで論じることのできる知識人が果たして何人いるでしょうか。
すでに2人とも故人になっていますが、本という形で言葉が後世に伝わってゆくことを改めて貴重なことであると感じさせてくれる1冊です。
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