本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

戦士の遺書


戦史、昭和史を専門とする代表的なジャーナリストである半藤一利氏による1冊です。

本書は1992~1994年の間に行われた月刊誌での連載、及び単発で雑誌に掲載された2本の作品を加えてたものを文庫化したものです。

最初、著者はこの連載を依頼されたときに気が進まなかったといいます。

それは戦争において死を覚悟して書き残した遺書をテーマにした重いものであるからですが、多くの戦史に関する著書を発表してきた半藤氏はすでにその代表的な作家という立場にあり、だからこそそれに相応しい人選であったことも確かです。

本書では28人にも及ぶ軍人たちの遺書が、著者の紹介する経歴とともに掲載されています。

  • 海軍中将 伊藤整一
  • 海軍中将 安藤二十三
  • 海軍大将 山本五十六
  • 陸軍少将 水上源蔵
  • 海軍大将 井上成美
  • 陸軍中将 岡田資
  • 海軍中将 大西瀧治郎
  • 陸軍少尉 上原良司
  • 海軍中将 宇垣纒
  • 陸軍元帥 杉山元
  • 陸軍大将 田中静豊
  • 海軍少佐 野中五郎
  • 陸軍大佐 中川州男
  • 海軍技術中佐 庄司元三
  • 陸軍大佐 山崎保代
  • 海軍少佐 国定謙男
  • 陸軍大将 山下奉文
  • 海軍大佐 有泉龍之介
  • 陸軍大佐 親泊朝省
  • 陸軍少将 大田実
  • 陸軍中将 栗林忠道
  • 陸軍大尉 黒木博司・海軍大尉 樋口孝
  • 陸軍中将 岡本清福
  • 陸軍中尉 満渕正明
  • 海軍少将 猪口敏平
  • 陸軍中将 本間雅晴
  • 陸軍大将 阿南惟幾

一括りに"帝国軍人の遺した遺書"といっても、書かれたシチュエーションは様々です。

それは迎えた最期が戦死、刑死、あるいは自裁(自殺)といった違いがあり、遺書についても辞世の句を添えて書かれた本格的なもの、あるいは日記や家族への手紙として書かれたものもあります。

また死を覚悟しているという点では共通していますが、その心情にもかなりの違いがあります。

たとえば戦争そのものを憂うような内容、多くの部下を死なせた自責の念に駆られているもの、残される家族への想いを中心としたもの、さらには一切の後悔なく軍人としての本領は果たしたといった内容などがあります。

読み進めてゆくと掲載されている遺書に同情したり、個人的には賛同できないものもありますが、やはり内容だけに重苦しいものであることは事実です。

いずれにしても過去に戦争という出来事があり、そこで死んでいった人びとが書き残した遺書が貴重な歴史的な史料であることは確かであり、これらをどう評価し何を想うのかは個々の読者に委ねられいるのです。

わたしの普段着



本ブログでも何冊か紹介してきた吉村昭氏のエッセイです。

本書の発表時点(2005年)では元気な様子の著者でしたが、その翌年に病没してしまうため結果的に最晩年のエッセイとなってしまいます。

本書には60篇にも及ぶエッセイが掲載されており、それらが以下の5つのテーマに分類されています。

  • 日々を暮らす
  • 筆を執る
  • 人と触れ合う
  • 旅に遊ぶ
  • 時を歴(へ)る

まず「日々を暮らす」では家や近所、身の回りの人々に関する出来事が中心に描かれており、一番エッセイらしい作品です。
70台半ばとなった著者は、若い頃に肺結核の末期患者と診断された時期から奇跡的に回復した経験を持っていますが、体の不調もなく元気な様子であり、それでも電車で席をゆずられる機会が増えてきたことなどが綴られています。

筆を執る」では、文字通り作家ならではの経験や、過去に発表した作品を執筆するに至ったきかっけなどが綴らています。
吉村昭ファンとしては興味深いエッセイであり、過去に読んできた作品へ奥行きを与えてくれます。

人と触れ合う」では、編集者、また作品を書き上げるために取材て訪れた先での出会いなどに留まらず、歴史上に埋もれていた人を掘り起こした経験も同様に"出会い"として扱っています。

旅に遊ぶ」では旅先での出来事が記されています。
著者は全都道府県を訪れており、例えば長崎には100回以上、札幌には150回以上、愛媛県宇和島には50回前後は訪れたといいます。

それでも著者はレジャーを目的とした旅行は皆無であり、また数回の講演のための旅行のほかは、すべて小説執筆のための取材旅行だったようです。
著者は1つの作品を書き上げるために何度も現地での取材を繰り返すことで知られていますが、その一端を垣間見ることができます。

最後の「時を歴る」では、自分の過去を振り返ったエッセイが中心です。
少年時代を過ごした町(日暮里)、風景、そして過去に出会い今は亡き人たちへの追憶からは、多くの名作を生み出し老境に差し掛かった作家ならではの雰囲気が漂い、そこからは吉村氏の原点や生きる上で指針としてきたことを垣間見ることができます。

ほかのエッセイでもそうですが、温和でありながらも作家としての"こだわり"は誰よりも強く、いわば真面目な職人肌である人物像が浮かんできます。

作家が追われがちな原稿の締め切りについても一度も遅れたことがないという逸話も、エッセイを読んでゆくといかにも吉村氏らしいと納得することができます。

趣味らしいものといえば、お酒が好きだったため飲み歩きくらいでしたが、この面でも酒癖の悪さを微塵も感じさせない「きれいなお酒の飲み方」が出来る人であったようです。

本書の帯には「静かな気骨に貫かれたエッセイ集。」という紹介があり、まさしくその通りだなと納得した1冊です。

楽に生きるのも、楽じゃない


国民的長寿番組「笑点」の司会でお馴染みの春風亭昇太師匠のエッセイです。

「笑点」でお馴染みとは言いつつ、私自身はその時間帯にTVを見ることは滅多にありません。

一方でたまに行く寄席で2回ほど著者の高座を聴いたことがありますが、2回ともその日1番の笑いは昇太師匠の落語だったことはよく覚えており、それが本書を手に取るきっかけにもなりました。

ただし本書は著者が「笑点」のメンバーとなる前の1997年に発表されたエッセイであり、それが2001年に文庫され、さらに出版社を文藝春秋へ変えて改めて2017年に出版された1冊です。

そのため、"あとがき"が3つも収録されている面白い作りになっています。

落語家という点では志ん生、米朝、談志辺りの著書を過去にブログで紹介したことがありますが、その中では一番落語へ言及している箇所の少ない1冊になります。

何気ない日々の出来事、大好きなお酒のこと、同期で仲の良い立川志の輔師匠と定期的に出かける海外旅行のこと、さらには自分で作詞した歌を載せたりと、かなり自由なエッセイとなっています。

読み進めてゆくと、たしかに談志師匠のように真面目に落語論や演芸論を語るのは似合わない人だなというのが感想です。

本書の中で唯一落語論について語っているのは、付録のような形で収められている立川談春師匠との対談内容のみです。

私自身、好きな落語家が何人かいますが、落語を"上手い"とか"名人"で評価するほどには詳しくありません。

良い意味でも悪い意味でも落語の本質は大衆演芸であり、個人的にはその場の観客を楽しませることが全てだと思っています。

そうした意味では著者は間違いなく一流の落語家であり、私にとって著者が名人に値するかどうかはどうでもよい問題なのです。

本書が最初に発表されたのは著者が39歳の時ですが、現在は60歳中盤となりベテランの域に入ろうとしています。

それでも落語会の重鎮のような威厳を感じさせないのは、"芸が軽い"からではなく、彼の個性や芸風がそうさせるのであり、それは立派な芸人としての魅力であることが本書からも伝わってくるのです。

テキヤの掟


お祭りが開催されると軒を並べて出店するさまざまな屋台が子どもの頃から好きだったという人は多いはずであり、私もその1人です。

一方で屋台を運営する人たち、つまりテキヤの実態を知っている人は少ないのではないでしょうか。

本書ではそんなお祭りの名脇役であるテキヤの世界を社会学者である廣末登氏が詳しく解説した1冊になります。

著者はテキヤのアルバイトに応募して実際に働いた経験もあるといいます。

そんな著者がまず主張しているのは、暴力団とテキヤを同一視するのは誤りだという点です。

もちろん何事にも例外はありますが、テキヤの大部分は暴力団とは何の関わりも持たない人たちであり、彼らはヤクザや博徒のことを符丁で「家業違い」と呼び、一般市民と同様に出来るだけ関わりを持つことを避けています。

著者はテキヤは売る商品を持っている、縁日など日本文化の一角を担う商売人であると定義しています。

まず序章では、テキヤ稼業の基本知識を分かりやすく解説しています。

テキヤのバイ(商売)には、コロビ(ゴザに商品を並べるスタイル)、サンズン(組み立て式の売店)などのスタイルがあり、ネタ(商品)の種類にはタカモノ(曲芸・見世物小屋など)、ハジキ(射的屋)、ヤチャ(茶屋)、ジク(クジ引き)、電気(綿菓子)、チカ(風船)など色々な符丁で呼ばれていることが分かります。

また全国各地を巡りながらテキヤ稼業をする人たちは、アイツキ(初対面の面通し)をして土地の祭りの一角で商売することを許されるのです。

すこし古いスタイルですが、「男はつらいよ」の主人公・寅さんの「姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」で終わる有名なセリフは、まさに土地の同業者へのアイツキの際に使われるものであり、同業者間での無用な争いを避け、円滑に商売を進める上で欠かせない大事にされてきた習慣なのです。

テキヤの商売の準備から後片付けまでの流れ、また仕事のサイクルなど殆ど知らなかった実態を知ることができます。

次に最近まで関東の由緒あるテキヤ組織の事務局長を努めていた大和氏(仮名)を取材する形で、テキヤ稼業を回想してもらっています。

さらに続いて本所・深川を本拠地とするテキヤの張本(親分)の娘へ取材を行い、同じくその回想録が収録されています。

彼女は取材時点(2022年)で74歳であり、その回想からは戦後・経済成長期の縁日史が見えてきます。

この2つの回想が本書の半分以上を占めていますが、まるで上質なドキュメンタリー作品を読んでいるような完成度の高さに驚きます。
まさに本書の見どころであると断言できます。

終盤では、こうした取材を総括してテキヤ業界の未来を憂慮しながらも前向きに考察しています。

著者が主張しているテキヤにしか担えない雰囲気、そして文化が存在するという点には私も全面的に賛成できます。
もしも昔から続く縁日の風景からテキヤの屋台が消え、キッチンカーだらけになってしまったらきっと味気ない風景になってしまうに違いありません。

ちなみに本書の最後にテキヤ社会の隠語・符丁が50音順で掲載されている付録のような章があり、しかも量もかなり充実していてパラパラと眺めているだけでも楽しめます。

かつて東京の花柳界で使われていた言葉や文化が衰退し、その大部分が継承されることなく失われていると聞いたことがあります。

個人的にはテキヤ文化がそうした事態にならないことを願うばかりです。

観光消滅


私自身しばしば都内へ行くことがありますが、外国人観光客が本当に増えたことを実感します。

テレビでも外国からの観光客が日本のグルメに舌鼓を打ち、その文化に感心する姿が放映される機会が増えています。

一方でオーバーツーリズムによる交通機関や観光施設、飲食店の混雑、さらには宿泊施設の不足と高騰といった問題がメディアに取り上げられることもありますが、彼らが外貨を落としてくれることもあり、全体的には概ね好意的に受け止められている印象があります。

政府としてもインバウンド誘致に力を入れる政策(観光立国推進基本法)に力を入れており、こうした動きをバックアップしているのが現状です。

著者の佐滝剛弘氏は、NHKのディレクターを経て現在は城西大学の観光学部教授を勤める、いわば観光のプロフェッショナルです。

本書ではこうした流れに水を差すわけではありませんが、観光立国と言われている日本各地で起こっている問題、さらには今後日本が観光立国として持続してゆくことへの危機感を中心に論じられています。

たしかに観光という産業は"水もの"である一面があり、コロナ禍により世界的な海外渡航の制限は記憶に新しいですが、日本は世界有数の地震大国で知られている通り自然災害による影響、さらには台湾有事などの地政学リスクの影響に大きく左右される部分があります。

著者はそれに加えて少子化による深刻な人手不足についても言及しています。

観光客を迎えるには、観光地の景観保全、飲食店や土産物店、さらには交通インフラの担い手など多くの人手が必要になります。

本書ではとくに交通インフラについて触れらており、地方の鉄道やバス路線の廃止が相次ぐ現状を具体的を挙げて紹介した上で、観光業界全体に従事する人たちの待遇面での課題、さらに円安が追い打ちをかけて人材の流出が起こり、機能不全に陥ることを懸念しています。

またコロナ禍などで政府が実施した「Go To トラベル」、「全国旅行支援」といった観光業界への政府支援についても検証を行っています。

私自身はこうした制度を利用したことはありませんが、支援に伴い発生した助成金に関する企業不正、予約殺到による混乱などのニュースは記憶に新しい出来事です。

終盤では海外の観光立国の例を挙げて、日本の政策などに活かせるヒントも紹介しています。

そもそも訪日観光客が急増したのは2014年から2015年にかけてであり、コロナ禍の時期を除けば観光立国としての日本はまだ10年にも満たない新興国であるといえます。

本書は観光学の専門家である立場からあえて厳しい苦言を呈している側面が強く、私のように直接観光業界に従事していない読者へ新しい視点を与えてくれます。

またメディアではあまり取り上げられない、そもそも本質的な"観光の意義"とは何か?という問題にも踏み込んで言及しており、著者の大学での講座に参加しているような感覚で観光について色々と考えさせられる1冊になっています。