本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

チベット遠征


中央アジアの探検家として有名なスヴェン・ヘディンが、チベットを探検したときの記録です。

20世紀初頭になり、多くの探検家たちによって世界地図がどんどん埋められてゆきましたが、北は崑崙山脈、南はヒマラヤ山脈に囲まれたチベットは地図上の空白地が残された数少ない秘境でした。

本書には3回に及ぶチベットへの探検が記録されていますが、探検というと勝手に単独、または少人数で行われるというイメージを持ちますが、中央アジアを探検した「さまよえる湖」の時のようにいずれも大規模なキャラバン方式で行われました。

それでもヘディンは次のように嘆いています。
私が自由にできる資力はあまりにも乏しい上、私のキャラバンは小さく、二十一頭の馬、六頭のラクダ、三十一頭のロバから成るものだった。

ずいぶんと贅沢だと思いますが、それはチベット遠征にあたってヘディンにはロシア皇帝ニコライ2世というパトロンが存在していたからです。

しかもその裏には、いずれロシア自身が南下して領土を広げる時に備えてチベットの地理を知っておきたいという政治的な思惑があったことは当然です。

一方でチベットは、南に位置するインドがイギリスの植民地となった過去を教訓に、外国人(とくに白人)の入国を厳しく取り締まっていました。

ヘディンにとって過酷な自然環境が脅威だったのはもちろんでしたが、もっとも厄介な障壁はダライ・ラマと頂点とするチベット政府の軍隊でした。

つまりヘディンが探検したチベットは地図上の空白地ではあっても無人の荒野ではなく、はるか昔から人が住み、ラマ教(チベット仏教)と中心とした独自の文化を持つ国家であったからです。

結局、1回目の探検の目的であったラサへ変装してまで潜入しようとした試みは失敗に終わります。

2回目、3回目の探検ではラサを目指さず、地理的な探検に特化しますが、ヒマラヤ山脈の北に平行するようにそびえ立つトランスヒマラヤ(ガンディセ山脈)の発見、インダス川をはじめとするインドを流れる大河の水源探査など、学術的な面で多くの成果を上げてゆきます。

もっとも1回目の探検から2回目の探検に至るまでの間にイギリスによるラサ侵攻が発生し、ダライ・ラマはモンゴル、続いて中国へと亡命し、この時のチベットの最高指導者はパンチェン・ラマ(タシ・ラマ)に変わっており、寺院都市として有名なシガツェにおいてヘディンと友好的な関係を築いたようです。

中央アジア探検時と同様に、本書にはヘディン自らが書き残したスケッチが200点以上掲載されており、目でも読者を楽しませてくれます。

ヘディンの本職は学者であり、学術的な著書や報告書は膨大な量になるようですが、本書は探検資金捻出を目的に特にアメリカの一般読者を狙って執筆されたものであるため読み易い内容になっています。

今やチベットは中国の自治区に組み入れられ、青海チベット鉄道をはじめとした開発が行われ、もはや秘境とは言えない場所となりましたが、100年以上前のチベットを探検するヨーロッパ人の視点から書かれた本として興味深く、探検記であると同時に歴史としても楽しむことができます。

弔辞


以前レビューした「コロナとバカ」に続いてビートたけしの著書です。

本書を2冊目に手に取ったは、「弔辞」というタイトルになんとなく惹かれたのと、出版元がフライデー襲撃事件を引き起こした講談社であるという点です。

もっとも事件は40年近く前の出来事であり、すでに両者の間にわだかまりはないようです。

タイトルについてたけし本人は次のように述べています。
俺は、この時代に向けて、「弔辞」を読もうと思った。
たとえ、消える運命にあるものでも、それについて、俺自身が生きているうちに別れのメッセージを伝えておこうと考えた。
まもなく、ひっそりとなくなってゆく物事や人々に対して、誰かが言っておかなくちゃならない、覚えていてほしいって思うからだ。

ビートたけしは昭和22年生まれだから今年で77歳ということになります。

著者とは世代は違うものの、自分が生きてきた時代を後世へ伝えておきたいという気持ちは、何となく分かる気がします。

肝心の次の世代へ残したい内容は、自らが過ごしてきた昭和という時代であることはもちろん、芸人のしての足跡、さらにはビッグ3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)の1人として築き上げてきたTV番組全般を指しています。

まず本書から感じるのは、テレビ黄金時代を懐かしむというよりも、俯瞰して現在、そして過去を振り返っているという点です。

たとえば自身が真剣に工夫を続けてきたお笑いを次のように語っています。
お笑いは所詮お笑い、エンターテイメントは所詮エンターテイメントです。
その時代や自分の身に何も起こらなければ楽しいという、それだけのことであって、世の中を救うわけでも、人様の役に立つわけでも全くありません。

私自身はビートたけしがTVで全盛期の活躍をしていた時代が直撃した世代であり、それなりに影響を受けてきたと思いますが、なんだか拍子抜けする発言です。

それでも丹波哲郎を引き合いにして、死後どこへ行くなんて正直、どうでもいいことだと言い放っている点はかつての舌鋒を彷彿とさせてくれます。

本書で印象に残ったのは次の部分です。
最近、「たけしはテレビで喋らなくなった」って言われる。
違うんだよ。俺、収録ではよく喋っているんだ。
だけど、テレビ局が意識的に録画を増やしていて、ちょっと放送するとヤバそうなコメントは局のほうで判断して事前に外しているんだ。
だから面白いことをずいぶん喋ったつもりなのに実際の番組では無口に見えてしまう。

ここでの"ちょっと放送するとヤバそうなコメント"というのは、かつては問題視されなかった発言が、コンプライアンス遵守やスポンサーへの配慮が敏感になった昨今の風潮によるものだと思いますが、やはりこれが最近のTVをつまらなくしている大きな原因であると思わずにはいられません。

おそらくビートたけしという存在は、芸人として破天荒な生き方が許された最後の世代であり、それだけにタイトルの"弔辞"という言葉が読了後も心に残るのです。

左近 (下)


島左近の生涯を描いた、火坂雅志氏の絶筆となった「左近」下巻のレビューです。

絶筆となったため本作品は未完ではあるものの、単行本の上下巻でそれぞれ400ページにも及ぶ分量であり、個人的には8割方まで執筆が進んでいたのではないかと思います。

念願の大和統一を果たした島左近が仕える筒井順慶ですが、実質的には織田信長の勢力下に組み入れ、京都周辺の軍事作戦を担当してた明智光秀の与力大名という位置にありました。

しかし光秀が主人・信長を相手に本能寺の変を起こしたことから筒井家の命運が大きく左右されることになります。

結果として左近をはじめとする重臣たちの判断により筒井家は秀吉と光秀が戦った山崎の戦いに加担することになく、秀吉の時代になって伊賀へ移封されることになるものの、引き続き大名として存続することになります。

一方で若くして病死した順慶の後を継いだ定次が暗愚であり、どんな苦境にあっても筒井家へ忠誠を誓い続けた左近はついに出奔することを決意します。

このときの左近はすでに50近い年齢でしたが彼の武勇は鬼左近として全国的に有名であり、筒井家を辞した直後から各国から仕官の要請がありましたが、それらをすべて断っていました。

その左近を三顧の礼のような形で迎え入れたのが石田三成であり、19万石の城主であった三成は左近へ破格の条件である2万石の俸禄を約束します。

高禄にも関わらず、世間は左近を召し抱えた三成を次のように評しました。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

三成は武将ではあるものの、秀吉政権下にあって五奉行に任じられたいわば官僚であり、合戦での実績が圧倒的に足りていませんでした。

事務官として優秀な三成でしたが、ときには冷淡と思われようが意に介さず忠実に任務を遂行してゆくため、福島正則藤堂高虎をはじめとした実戦経験豊富な武将たちから蛇蝎のごとく嫌われていましたが、歴戦のつわ者である左近の存在は石田家に箔をつける意味でも重要な存在でした。

一方で秀吉へ対して紛れのない忠義を尽くす三成の心情は本物であり、かつて筒井家へ忠義を尽くしてきた左近はその姿に感銘に近いものを受けるのです。

そんな三成だけに豊臣家へ対して上辺だけの忠誠を誓う家康へ対しては早くから警戒心を抱いており、結果としてそれは杞憂には終わりませんでした。

ちなみに上巻で左近の好敵手として登場したのは柳生宗厳でしたが、作品が完結したときに左近の好敵手となるべき存在は藤堂高虎だったはずです。

8度も主君を変えたといわれた高虎ですが、それは日和見だったわけではなく、つねに最前線で自らの命を的にしながら戦い続けてきた武将であり、その点では左近と共通するものがあります。

残念ながら未完の作品であるため関ヶ原の戦いが作品中で描かれることはありませんでしたが、文学作品が結末を明らかにせずに完結することが多いように、惜しいとは思うものの途中で終わってしまうこと自体はそれほど気にはなりませんでした。

作品のはじめから終わりまで左近は左近であり続け、戦国武将としての生き様を全うすることが分かっているからです。

左近 (上)


島清興(しま きよおき)、通称である島左近で知られている戦国時代の武将を主人公とした歴史小説です。

著者の火坂雅志氏は本作品を執筆中の2015年に58歳で急逝されており、もっとも油の乗り切った時期だっただけに大変悔やまれます。

左近は大和の豪族である筒井家順昭・順慶・定次と3代に渡って仕え、のちに石田三成に破格の条件で召し抱えられ、関ヶ原の戦いで討ち死したと伝えられている武将です。

とくに筒井順慶に仕えていた時には、大和を巡って松永久秀三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと死闘を繰り広げ、一時期は筒井家が滅亡寸前にまで追い詰められることもありました。

合戦、そして外交とあらゆる手段を駆使して順慶は大和一国を平定することに成功しますが、それには重臣であった島左近の活躍が欠かすことができませんでいた。

弱肉強食の戦国時代にあって弱き者は、強者によって滅ぼされるか、服従するかの二択という殺伐とした世界でしたが、左近は筒井家が劣勢に立たされても主家を見限ることはありませんでした。

作品中で左近はその理由を「それは漢のすることではない」と明快に答えています。

そこには悲壮な覚悟というより、自分がいる限り好き勝手にはさせないという絶対的な自信がバックボーンになっている、戦国武将らしい武将として描かれています。

そして左近にとって好敵手として登場するのが、松永久秀側に仕えている若き日の柳生宗厳(やぎゅう むねよし)です。

"若き日の"と表現したのは、のちに石舟斎と名乗った時代の方が有名なためですが、宗厳もまたかつては左近同様に自らの力を信じて戦乱の中で成り上がろうとした武将の1人であったのです。

筒井順慶にとって最大の敵となった松永久秀も織田信長に一時は従いながらも、おのれの野心に忠実であり、一度反旗を翻したのちは命乞いを潔しとはせず、信長が喉から手が出るほど欲しがった名器・平蜘蛛とともに居城の天守閣で爆死するという壮絶な最期を遂げます。
彼もまた戦国武将らしい人物だったといえるでしょう。

やはり歴史好きの読者にとって、いつ滅びるか分からない乱世にあってひらすら保身に走る武将よりも、その結果はどうあれ生き様を見せてくれる武将に魅力を感じるものであり、その点で島左近はうってつけの主人公なのです。

非情の空: ラバウル零戦隊始末



太平洋戦争における零戦部隊の戦史を綴った1冊です。

著者の高城肇氏は、こうした太平洋戦争における旧日本軍のパイロットたちに焦点を当てた作品が多いようです。

本書は坂井三郎をはじめ日本を代表するエースパイロットたちが在籍した台南海軍航空隊(台南空)が貨物船に揺られてニューブリテン島のラバウルへ転戦するところから始まります。

ラバウルといえば太平洋における旧日本軍最大の拠点があり、アメリカをはじめとした連合軍との間に激戦が繰り広げられた場所として知られています。

旧日本軍としてはラバウル防衛のために精鋭部隊である台南空を配置するという定石通りの戦略を用いた形になりますが、彼らはその期待に応えるかのように次々にアメリカの戦闘機を撃墜してゆきます。

それはパイロットたちの高い伎倆と零戦の性能によるところが大きいですが、空中戦は一瞬の判断ミスや操縦ミスよって生死が分かれる世界であり、作品中ではその様子がよく描かれています。

毎日のように出撃しては敵機と交戦を続けるということは、毎日真剣勝負に出かけるようなものであり、パイロットには強靭な肉体と精神力が求められます。

当時の戦闘機にはレーダーもまた味方と通信するための無線も装備されていませんでした。

そのため敵をいち早く発見することが重要になり、目の良さやセンスが求められ、敵機を攻撃する際には太陽を背にするのが理想的でした。

味方との連携はバンクを振る(機体を横に傾ける)などの合図しか使えず、コミュニケーションとして使える手段は極めて限られていました。

序盤は優位に空中戦を進めていた日本軍ですが、やがて米軍の圧倒的な物資の前に苦戦するようになってきます。

1対1の戦いでは決して遅れを取らない歴戦のパイロットたちも出撃を重ねるうちに、1人、また1人と櫛の歯が欠けるように大空で散ってゆきます。

そもそも空中で撃墜されたパイロットの遺体が回収されることは殆どなく、一瞬のうちに火の玉となって機体と一緒に燃え尽きる運命にあるのは敵味方を問わず一緒なのです。

遂にはラバウル方面で使用可能な零戦の総数が21機であり、戦況の悪化や物資の欠乏により新たな増援が見込めない一方、米軍は1週間に30機もの戦闘機を新規に補充できる状態だったということからも分かる通り、いかにパイロットの能力が優れいようとも戦況は絶望的なジリ貧状態に陥っていたのです。

こうした戦況の中でもパイロットの当時の手紙に残されたから文面から分かるのは、こうした逆境にあっても士気がますます旺盛であったということです。

そこには何としても生き残ってやる、戦争に勝利するという意志よりは、今まで幾度となく弔ってきた仲間たちのように、いつか自分も大空で散るその時まで精一杯戦い続けるという、まさしくサムライのような心境であったように思えます。

それは現代の読者たちから見れば、死を覚悟した悲壮感のようなものに感じてしまいますが、少なくとも当時のパイロットたちは自らが置かれた境遇へ対して悲しみや憐れみを抱くようなセンチメンタルな感情は持ち合わせていなかったのではないでしょうか。

結果的にはラバウル方面へ派遣された台南空が部隊として全滅することはありませんでした。

それは劣勢となった局面を打開するために特別攻撃隊、つまり兵士1人1人の精神力を武器とした特攻という愚劣な作戦を遂行するために機体を明け渡す必要が出てきたからでした。

それでも多くの若い命が日本から遠く離れたラバウルの空で散っていったのは事実であり、生き残ったパイロットたちも心に大きな傷を受けて生きてゆくことになるのです。