死海のほとり
本ブログでかなり前に遠藤周作氏の「イエスの生涯」をレビューしていますが、本書「死海のほとり」とは表裏一体をなす作品であると著者は述べています。
「イエスの生涯」は著者独自の解釈によるイエス・キリストの伝記という形の作品ですが、本作品は現代と過去を行き来しつつ2つの物語によって構成されています。
1つ目は「巡礼」という物語であり、私(著者自身)がエルサレムを訪れ、そこで聖書研究をしている学生時代の友人・戸田と一緒にイエスの軌跡を訪れる、つまり巡礼するという構成になっています。
そして2つ目はイエスが生きてる時代、つまり約2000年前のエルサレムが舞台であり、弟子や彼と関わりを持ったユダヤ教徒、ローマ帝国の為政者や軍人、さらには市井のから見たイエスの姿が「群像の人」というタイトルで描かれています。
私自身は聖書(新約聖書)を読み込んだ経験がなく、散発的に何となく内容を知っている程度です。
聖書にはイエスが水をぶどう酒に変える、また盲人や不治の病を治すといった奇跡を行ったと記されていますが、著者の描くイエス像にはそうした奇跡は後世の弟子や後継者たちが付け足したものとして排除し、あくまでも1人の人間としてイエスの姿を描いているという特徴があります。
こうした解釈が神学的にどう評価されているかは分かりませんが、すくなくとも著者の作品中からは宗教者の持つ教義臭さのようなものは感じられません。
そもそもエルサレムを訪れた私(著者)は、熱心な宗教心から巡礼を思い立ったわけではありません。
聖書に書かれている内容、もっといえば信仰心そのものがグラついている状態であり、その迷いを解決するべく思い立った巡礼なのです。
"私"が同伴をお願いした学生時代の熱心なキリスト信徒であった友人・戸田はエルサレムにある国連組織の中で聖書研究に従事していますが、聖書の中から事実(史実)を知ろうとすれば知るほど、その殆どが根拠のないものであり、現代に残っている"聖地"と言われるものの大部分が人為的に後世になって作られたものであるとことも知っています。
何よりも戸田自身が"私"と同じように、信仰心を失いつつあるような状態でした。
そんな2人にリンクするように、当時を描いた物語においてもイエスは奇跡を行えない「何もできぬ人」とした描かれ、その事実が知れ渡ってキリストが迫害されるようになると弟子たちは1人また1人と彼の元を去ってゆきます。
イエスにできることと言えば、重病人や癩病患者、盲人たちと一緒に過ごし、手を握り、一緒に涙を流すことだけなのです。
彼の説く"愛"とは現代だけでなく、2000年前の過去おいても現実的には何の役に立たないモノとして人びとの嘲笑を受けるのです。
つまり私(著者)と戸田、そしてイエスを取り巻く弟子たち、この両者は2000年の時を超えて信仰に迷う同じ立場に置かれているのです。
これはキリスト教に限らず、信仰の本質を問いかけているように思えます。
(本作品とは逆に)聖書に書かれている通りイエスが奇跡によって病人を癒やし、死人を蘇らせることすら出来たとするならば、人びとは現実世界の目に見える利益を求めてその宗教を信仰するという見方もできるからです。
宗教に求められているのは物理的な利益ではなく、心の平穏であることは百も承知ですが、そのいずれも満たすことができずに生まれて死んでゆく人が大多数なのが現実なのです。
見方を変えれば人とは迷い続ける利己的で弱い存在であり、そうした人びとを否定せず寄り添う同伴者のような存在がイエス(宗教)であるという視点は遠藤周作氏のほかの作品からも感じることのできるテーマであり、私のようにクリスチャンでなくとも考えさせられる内容になっています。