父の威厳 数学者の意地
当ブログでお馴染みになりつつある藤原正彦氏のエッセーです。
本書における著者の一貫した主張は、
「日本人としてのアイデンティティが最も大切である」
ということです。
日本人としてのアイデンティティとは何か?
それは文学や俳句などに代表させる"情緒"と、武士道に代表される"倫理観"であると断言しています。
著者の本職は数学者ですが、そこは"理論によって構築される証明"のみが唯一絶対的な力を持つ世界であり、一見すると著者は主張と正反対の世界に身を負いているように思えます
しかし人間は生まれながらにして理論を組み立てる知識を有しているわけではありません。
逆に知識そのものに実態は無く、人間によって吸収されなくては存在意義がありません。
そのためには"核"となる人格が必要であり、これが無ければ自己を認識することさえも出来ません。
つまり機械的に知識を詰め込んだだけの人間はコンピュータと同じであり、そこから進歩の源泉となる"創造"が生まれることはありません。
機械人間を量産する先には、過度な受験戦争、そして給料の多寡によって人間的価値が評価される殺伐とした社会しか残されていません。
そのような国が世界から尊敬されることなく、日本がこの路線を突き進むつつあることに著者は強い危機感を抱いています。
マスコミは増税やTPPなどの経済問題のみを大きく取り上げ、ビジネスマンたちは目先の業績を追うことに必死になっている状況です。
確かに経済問題には自分や家族たちの生活がかかっている以上、決して軽視することはできません。
一方でマスコミが「失われつつある武士道」というテーマを真剣に論じてみたらどうでしょう?
その中で「名誉は命より大事」と書こうものなら、「時代錯誤」、「封建的な思想」、「人命軽視」などの非難の声が上がることは容易に想像できます。
そんな時代だからこそ、本書のような気骨を持った数学者が綴るエッセーを読む価値があります。
もちろんエッセーに欠かせないユーモアも含まれていて、脇目もふらず進む著者の猪突猛進ぶりなど微笑ましいエピソードも満載です。
マンボウ交友録
すっかり北杜夫氏のマンボウシリーズに魅了されてしまい、本ブログでの紹介も5作品目になります。
「マンボウ・シリーズ」という表現をしましたが、基本的に各作品は独立したエッセーなどの形式をとっているため、どの作品から読み始めても問題ありません。
シリーズの中でも有名な作品以外はあまり重版されていないようですが、図書館や古本屋へ行けば手軽に入手することができます。
本書はタイトル通り、北杜夫氏の交友録をエッセーとして作品化したものです。
10人との出会いから現在に至るまでのエピソードが紹介されていますが、もっとも注目すべきは遠藤周作氏との交友録です。
それは遠藤周作こと狐狸庵山人の「ぐうたら交友録」にも北杜夫氏が登場し、とても楽しいエピソードが紹介されています。
しかし北氏は、「ぐうたら交友録」に書かれている自らのエピソードは"作り話"や"大げさ"だと反論します。
確かに著者の弁明を読む限り、遠藤氏のエッセーの内容は誇張されている感があります。
もちろんそれが悪意を持って書かれているものではなく、遠藤氏一流のユーモアであることは読者から見ても明らかです。
つまり著者にとてって遠藤氏は面倒見のよい先輩であると同時に、色々と迷惑な存在でもあるようです。
北氏は自らも認めているように"躁鬱(そううつ)症"であり、躁の時には積極的に仕事をバリバリこなしますが、鬱のときには何事にも億劫になって家に閉じこもりがちになります。
同じような体験をしても、その時の状態によって作者の心境や行動までもが随分と違って来ることを本人は充分に自覚しており、最終章は作家「北杜夫」が、自らをニックネームである「どくとるマンボウ」に模して客観的に描くといった面白い手法をとっています。
そこで自らの弱点を次のように書いています。
北杜夫はたいそうな清純作家で、セックスはほとんど書かない。といっても彼も男性である。バーのホステス嬢とデートすることもある。
これがあんがい、ハッとするような美女で、もし北杜夫があまり人相のよくない女性と歩いていたら、それは彼の奥さんだと世人は察するべきであろう。
ただ、せっかく美女とデートしても、結局は何もしないということは彼の最大の欠点である。
もちろん海千山千の北氏のことですから、まったく鵜呑みにすることは出来ませんが、エッセーの至るとことからこうした著者の人柄が染み出しているようで、のんびりと平和な気分にさせてくれるのです。
マンボウVSブッシュマン
今までブログで紹介した北杜夫氏のマンボウシリーズには、いずれもテーマがあります。
航海記として書かれた「どくとるマンボウ航海記」、趣味である昆虫を題材にした「どくとるマンボウ昆虫記」、自らの交流をテーマにした「マンボウ交友録」です。
本書はテーマを限定せずに、(失敗談が多い)日常の出来事、母や父との思い出、大好きな阪神タイガース、世情や旅行に至るまで、幅広い内容で書かれています。
タイトルにある"ブッシュマン"とは、あまりにも機械オンチである著者へ対して、妻が呆れて揶揄した言葉であり、ついカッと逆上してしまった著者の経験から命名したタイトルです。
そして文章中では、自らがブッシュマンより国際的で文化的である人間であることを些細な出来事を例に証明してゆくのですが、これこそ北氏ならではのユーモアです。
やがて一転して、真面目なブッシュマンの歴史を紹介してゆき、またしても結論は北氏らしく結ばれます。
「マンボウvsブッシュマン」に書いたように、私はブッシュマンとその優劣を競い合って、大半負けてばかりいた。一見すると著者の謙遜のようにも見えますが、これこそが本音なのかもしれません。
これは私の知能が彼らより劣るのではなく、彼の心がおそらく私より豊かだからであろう。
それゆえ、私は自分がブッシュマンに負けたとて、けっして劣等感を抱くわけではなく、ただ彼らの人間性に惹かれるだけなのである。
戦中、戦後の食糧難の時代に多感な青年時代を過ごし、そして飽食の時代を過ごしている著者が何気なく幸せの本質を指摘しているように思えます。
軽妙なユーモアが内容の大部分を占めていますが、時折見られる皮肉の中に人生のヒントを見出せるというのも本書の優れた点です。
北杜夫氏といえば私と2世代以上離れている作家ですが、堅苦しい印象を微塵も感じさせない、身近な先輩という感情を抱かせてくれるエッセーです。
山椒魚
昭和を代表する小説家・井伏鱒二の短篇集です。
氏の作品を読んだのは今回がはじめてです。
若き日の太宰治が弟子入りしたことからも分かる通り、その文才は誰もが認めるものでした。
(ただし後に2人の仲は悪くなるようですが。。)
本書には若き頃の井伏氏の代表的な短編が8作品収録されています。
- 山椒魚
- 朽助のいる谷間
- 岬の風景
- へんろう宿
- 掛持ち
- シグレ島叙景
- 言葉について
- 寒山拾得
どれも質の高い代表的な作品ばかりです。
当然のように短編ごとに主人公が登場しますが、どれもその生い立ちに深く言及した作品はありません。
しかし「旅」を題材にした作品が多いことを考えると、旅行好きだった自分自身を投影したものであることは容易に想像できます。
綿密で微妙な"場面"と"心理"の描写がある一方で、過去や未来については、おぼろげな描写で留めているのが印象的で、一旦読みはじめると、その繊細な描写についつい引きこまれてしまう魅力があります。
最近はエッセーやドキュメンタリー、そして長編小説を中心に読んできたこともあり、文学的な短編小説に特徴の「行間を読む思考」を久しぶりに体験しました。
一方で話の起伏は殆どなく、どれも均一な印象を受けたのも事実であり、例えば弟子入りした太宰治とは明らかに異なるタイプの作家です。
初めて読んだ作家の作品ですが、他の作品も読んで紹介してゆこうと思います。
秋の夜長にじっくりと読むのに相応しい小説です。
どくとるマンボウ昆虫記
作家・北杜夫は、精神科医という顔を持っていましたが、昆虫マニアであることも広く知られています。
彼の作品の殆どに昆虫の挿話があることからも分かる通り、昆虫へ対する愛情、そして知識の深さは驚くべきものがあります。
本書では、彼が採集に夢中になったコガネムシなどの甲虫、そして蝶類にはじまり、ダニやノミや南京虫、ゴキブリに至るまで幅広く言及されています。
少年の頃の昆虫採集の思い出、昆虫マニア同士の交流、昆虫採集に夢中になっていた頃の戦争時の回想を交えて昆虫たちを紹介してゆき、たとえ昆虫に興味が無い人であっても読者を飽きさせない北氏ならではの昆虫記に仕上がっています。
わかり易い例でいえば、こんな感じです。
幼いころからその名だけは知っていた。しかし、ウスバカゲロウが薄羽蜉蝣であるとはつゆ知らなかった。てっきり薄馬鹿下郎と思いこんでいた。そいつはのろのろと飛びめぐり、障子にぶつかってばかりいたからだ。今となっても、薄馬鹿下郎のほうがどうしても私にはぴったりする。
といった具合で、羽陽曲折を経てやがてその幼虫である蟻地獄の話題に移ってゆきます。
だからといって著者が昆虫を下等な生き物であるとは露ほども思っていません。
むしろ人間が戦争(著者の経験では太平洋戦争)を引き起こして食糧難に陥っている中、昆虫たちはいつもと変わらぬ生活を送っているのであり、著者にとって人間の賢さなど甚だ心許ないものだったに違いありません。
北氏のもっとも好きな昆虫というジャンルが題材になっているだけあって、本書の完成度は折り紙付きです。
虫好きな人も虫嫌いな人も、ぜひ1度は手にとって欲しい本です。
どくとるマンボウ航海記
父親が斎藤茂吉、自身は作家と精神科医という一風変わった経歴を持つ北杜夫氏の代表的なエッセーです。
本書「どくとるマンボウ航海記」は、その後マンボウ・シリーズとして発表される一連のエッセーの記念すべき1作品目です。
著者は小説家としても有名ですが、軽快でユーモアに溢れたエッセー作品のファンも多いのではないでしょうか。
本書は昭和33年に水産庁調査漁船の船医として半年間に渡る航海記の形式で書かれています。
文部省の留学生募集に書類選考で落とされ、海外を周遊するための手段として船医へ志願することになります。
要するに確固たる義務感や目的があるわけでなく、好奇心、そして少年の無邪気な冒険心がもっとも強い航海の動機であったといえます。
そして船員の経験が無かった著者が作品中で示す好奇心は、読者の好奇心をも掻き立てずにはいられません。
著者はあとがきで、本書を次のように紹介しています。
私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らないこと、書いても書かなくても変わりはないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。
実際その通りで、寄港した国々で経験した、例えば、酒場で見た目が(著者いわく)160歳くらいの女性に誘惑されたり、物売りにボッタクられたり、執拗にサメへ砂糖水を飲ませようとしたことなど、航海記の本質とはかけ離れたエピソードに多くの紙面が割かれいます。
しかし「旅の思い出」など、往々にしてどうでもよいエピソードが印象に残るものであり、本書のスタイルにはまったくもって同感できるのです。
北氏は惜しくも2011年に亡くなっていますが、戦後の日本で懸命に文学を再興しようとする作家たちの中で、飄々とした彼のスタイルはひときわ輝いていたといえます。
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