本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

真昼の悪魔



昭和55年に発表された遠藤周作氏の小説です。

本書は世界的にも文学作品で取り上げられる機会の多い"悪"をテーマにしています。

物語の主人公はある医大病院に勤務する女医ですが、彼女は日常生活に無感動であり、自らの心が乾ききっていることに気付きます。

職務上の医者としての義務は果たすものの、他人が苦しむのを見ても、またどんな罪を犯しても何とも思わないという心の空虚を抱えたまま、次々と悪に手を染めてゆくのです。。。

本書はミステリー形式で書かれており、次々と"悪"に手を染める女医の正体が最後まで謎のままで物語が進行します。

この作品で取り上げられる"悪"とは、カネ欲しさの暴力や復讐のための殺人といった人間の欲望や感情から離れたところにある、無道徳で無感動がゆえに"善悪の区別"といった概念からさえも離れた"純粋な悪"とでもいうべきものです。

本当の悪魔とは恐ろしい姿では決して現れず、目立たず知らぬ間に積もる埃(ほこり)のように人間の心に忍び寄る存在だということが、本作品に登場するカトリック教の神父によって語られます。

「悪魔は救いの手を差し伸べた神の手さえも振りほどくのか?」
「神は救いを求めない悪魔さえも包み込むのか?」

といった遠藤氏が作家生活を通じてテーマとした独自のキリスト教的視点が本作品にも織り込まれています。

自分は"悪"とは無縁だと思っている読者が大半だと思いますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

なぜなら作品中で描写されている女医の無感動で乾ききった心は、現代人が多かれ少なかれ感じている空虚さ、そしてその救いを信仰に求めない姿を象徴しているからです。

一方で本作品にはミステリー的な要素が強く、また現代医療へ対しても鋭く批判的な視点で迫っている点など、多くの側面を持った遠藤氏の作品の中でも異彩を放つ存在といえます。

君に友だちはいらない



世界レベルで消費者と投資家が結びつく"グローバル資本主義"が台頭して久しい現在、私たちが消費する食料品や日用品が外国製であることは当たり前であり、それはテレビやスマートフォンといった家電やデジタル製品においても当然となりつつあります。

まして日本メーカーの製品であっても、実際には外国で生産されていることも珍しくありません。

このグローバル資本主義の正体は、世界中の人々が「よりよい商品を、より安く」を望んだ結果であると著者は主張しています。

しかしこの結果として、企業は効率化を図り、オートメーション化によって多くの人が機械によって仕事を奪われる、また人件費の安い新興国に仕事が移管してゆくことによって、人間(労働力)のコモディ化が進行しています。

たとえば専門的な技能を持ったエンジニアが不足する一方で、専門性が必要とされない分野ではブラック企業によって労働力が不当に安く買い叩かれ、業績が悪化するや否や簡単に解雇されてしまうのです。

著者はこのコモディ化から逃れ、人間として豊かに幸せに生きてゆくためには"仲間"をつくることだと主張しています。

この「仲間=チーム」の理想的な形として紹介しているのが、黒澤明監督の「七人の侍」です。
随分と古い例ですが、よいチームには以下のような共通点があると指摘しています。

  • 少人数である
  • メンバーが互いに補完的なスキルを有する
  • 共通の目的とその達成に責任を持つ
  • 問題解決のためのアプローチの方法を共有している
  • メンバーの相互責任がある

またチームとはミッションごとに結成されるべきであり、そのミッションが終了すれば解散するのが当たり前だとしています。

一般的な企業のように役職や年功序列によって組織される"部署"とは随分と違うことが分かります。

さらにフェイスブックをはじめとしたSNSを通じて気軽につながることのできる友だちは無意味であり、その友だちの数を競うことは弊害でさえあると断言しており、本書のタイトルの真意はここにあります。

著者の瀧本哲史氏には京都大学客員准教授という肩書がありますが、本業はエンジェル投資家です。

エンジェル投資家とは、個人的に自分の「持ち金」を、「事業アイデア」と「創業者」しかいないようなきわめて初期ステージのベンチャー企業に投資する人たちを指すようです。

そして著者は時流に合わせて変化してゆく「事業アイデア」よりも、そのチームのポテンシャルや可能性を重視する、つまり究極的には「人に投資」していると明言しています。

本書は「なぜよいチームが必要なのか?」、「よいチームとは何か?」、「よいチームはどのように結成するのか?」といった内容で構成されていますが、著者にとってはエンジェル投資家としての本業につながる本質的なテーマなのです。

本書はこれから起業を目指している人に留まらず、サラリーマンやフリーランスとして先行きに不安を感じている人にとってもこれからのワークスタイルを考える上で示唆に富む1冊になっています。

不格好経営―チームDeNAの挑戦



携帯電話に特化したオークションサイト「ビッダーズ」、「モバオク」を手掛け、SNS、そして携帯ゲームのプラットフォームとして躍進を遂げた「モバゲータウン」の運営会社であるDeNA(ディー・エヌ・エー)

同社のサービスを利用したことの無い人でも、横浜DeNAベイスターズのオーナー企業として知っている人は多いはずです。

本書はDeNAの創業者である南場智子氏が執筆していますが、ビジネス書というよりDeNAの創業物語と自伝を兼ねたノンフィクション作品と位置付けるのが相応しいでしょう。

南場氏自身もビジネス書はほとんど読まないと告白しており、成功した企業の結果論にしか過ぎない、つまり同じことをしても失敗する人がごまんといると指摘している部分は同意できます。

本書の特徴はタイトルからも分かる通り、会社が成長するまでに経験した失敗のフルコースを詳細に執筆することに重きを置いています。

人は成功よりも失敗から多くを学ぶ」という格言を持ち出すまでもなく、実際に痛い目にあわないと切実に学ぶことができない経験は私自身にも大いに当てはまります。

本書で紹介されている失敗の中には、DeNAが倒産の危機に瀕するような重大なものも含まれていますが、不眠不休も厭わず情熱とパワフルな馬力で障壁を次々と乗り越えてゆきます。

その過酷さは最近取り上げられるようになった"ブラック企業"と遜色のないものですが、"同じ目標に向かって全力を尽くし、達成したときのこの喜びと高揚感"が源泉となっている彼女たちの姿は、まさしく"ベンチャー企業"そのものなのです。

それはアスリートが過酷で苦しい練習を続け、オリンピックで金メダルを獲得した時の喜びに似ているのかも知れません。

南場氏はDeNAを立ち上げる前はマッキンゼーのコンサルタントとして働いており、当時は「自分が経営者だったらもっともうまくできるんじゃないだろうか」というおごりがありましたが、多くの失敗を通じて「コンサルティングで身につけたスキルや癖は、事業リーダーとしては役に立たないどころか邪魔になることが多い」とさえ考えるように至ったようです。

また経営を学術的に学ぶMBAについても自身の経験から、その有用性はかなり懐疑的だとも指摘しています。

ただいずれにしても本書に登場する数多くの失敗談はポジティブな雰囲気で書かれており、読者はまるでジェットコースターのような大きな起伏のある物語に一気に引きこまれてしまう面白さがあります。

それもわずか3人ではじめたベンチャー企業が10年を経ずに大企業へ成長するサクセス・ストーリーなのですから当然なのかも知れません。

あくまでも本書は経営の極意を伝えるものではなく、DeNAの場合のケーススタディに留まります。

しかし経営者やサラリーマン、学生という枠を超えて、多くの人たちを勇気づける1冊であることは間違いありません。

ガリア戦記



ガリア戦記」の著者は、歴史家モムゼンが"ローマが生んだ唯一の創造的天才"と評したユリウス・カエサルです。

以前紹介した塩野七生氏の長編大作「ローマ人の物語」でもカエサルの活躍に対してはもっとも紙面を割いて書かれており、ガリア遠征の内容についても地図を用いて分かり易く解説されています。

その解説に関しても本書「ガリア戦記」が原資料となっており、いつか読んでみたいと思っていた1冊です。

本書は学術的な傾向の強い岩波文庫から出版されいるだけあって、「ガリア戦記」をなるべく忠実に翻訳し、注釈についても最小限に抑えています。

よってカエサルや古代ローマの時代背景を知らずに本書をいきなり手に取るとやや戸惑うかも知れませんが、「ローマ人の物語」を読んだ後であればそれほど難解さを感じずに読むことが出来ると思います。

2000年以上も前に活躍した人物の著書を現代日本語で読むことができるのも、この「ガリア戦記」が後世で評価されていると共に、カエサルと同時代に生きたローマ一流の知識人・キケロさえも絶賛した名著であるためです。

なぜガリア遠征を行ったローマ軍総司令官であるカエサル自身が本書を執筆したかといえば、本国ローマ(=元老院)への戦況報告として、また遠征先における戦果をローマ市民へアピールするためのプロパガンダとしての役割を果たすためという説が有力です。

一方で本書が自画自賛、つまり自慢話に満ちた内容であったならば、これほど評価されることもなかったに違いありません。

「ガリア戦記」の特徴は、簡潔で明瞭ということに尽きます。

ローマ文化は古代ギリシアの影響を色濃く継承しており、叙事詩のように物語的な表現や、哲学書のようにロジックを駆使することも可能だったはずであり、あえていずれの方法も取らずにカエサル独自の表現方法で用いたことに価値があるのだと思います。

簡潔明瞭であるためには客観的な視点が効果的であり、カエサルは自分自身の事柄に対して"三人称"を用いることでこれを実現しています。

たとえば以下のような例です。

カエサルはこの戦争がすむとヘルウェティー族の他の部隊を追撃するためにアラル河に橋を架けて部隊を渡した。

ガリー人は偵察で事情を知ると攻囲を解き、全軍でカエサルに向かって来た。

最終的にはガリア遠征を成功させ、本国ローマで20日間にもわたり感謝祭が開催されます。これはローマ軍司令官にとって前例のない名誉ですが、当人のカエサルは驚くほど素っ気ない表現に留めています。

カエサル自身はビブラクテで冬営することにした。この年のことが手紙でローマに知れると、二十日間の感謝祭が催された。

"戦記"という名に相応しく、本書はガリアの至るところで7年間に渡り行われた戦争が書き綴られていますが、これだけの活躍をもってしてもカエサルの能力を評価するには足りません。

このガリア遠征を遂行する裏でローマの有力者でありカエサルのライバルでもあるポンペイウスクラッススと共に「三頭政治」を運営し、公共事業も数多く手がけ、のちの内乱に勝利してローマ帝国の礎を築くための政治活動までも精力的にこなしていたのです。

しかしこれは"政治工作"以外の何ものでもない、つまり元老院やローマ市民に知って欲しくない事柄だったのでカエサルはその一切を当然のように省略しています。

カエサルの偉業をすべて知りたいのなら、やはり「ローマ人の物語」を読むことをお薦めしますが、古代ローマ好きであれば一度は手にとって読んでほしい1冊です。

ゴマの来た道



著者の小林貞作氏のプロフィールには、植物細胞・遺伝学、放射線生物学とあり、ゴマの品種改良などで世界的にご活躍された研究家だったようです。

わたしたち日本人とってゴマは、料理からお菓子、またそれを原料とした植物油(ごま油)に至るまで食文化の中に深く溶け込んでいる食材です。

個人的にも未だゴマが苦手という人には出会ったことがありませんし、もちろん私にとっても欠かせない存在です。

しかしゴマという存在があまりにも日常に溶け込んでいるため、特別注目する機会もなく今まで過ごしてきましたが、本書はそのゴマの魅力を余すことなく紹介している1冊です。

ゴマの起源は古代アフリカにあり、発掘の結果から縄文晩期には関東以西で栽培されてきた可能性が高いということです。

つまり驚くべきことに日本人とゴマは、ほぼ稲作の開始と同じ時代にまで遡ることが出来るのです。

ごま油の原料となることから分かる通り、豊富で良質な植物性油脂をはじめ、タンパク質やミネラルなど栄養価の優れた植物であり、またその優れた旨味は、食べる者をゴマの虜にしてしまいます。

さらに乾燥に強いことから日照りにもよく耐え、少量で大きなエネルギーを提供してくれることから、古くから人間生存のために欠かせない植物として栽培され続けてきたのです。

そんなゴマは古代アフリカからさまざまなルートを経て、またその過程の品種改良の中でサバンナから寒冷地域にまで適応して世界中で愛されている食材となります。

本書ではゴマを利用した世界各国の食文化についても触れています。

またゴマの品種(たとえば黒ゴマと白ゴマの違いなど)や、著者自らが取り組んでいるゴマの品種改良にも言及されており、古代から現代に至るまでのゴマの遍歴がよく分かる1冊です。

本書によって普段何気なく食べているゴマに興味が湧くと共に、人類にとって大きな役割を果たしてきたゴマへ感謝せずにはいられなくなるのです。

指揮官たちの特攻



経済小説家と言われた城山三郎氏が描いた戦争ドキュメント小説です。

この作品には、それが関行男大尉と中津留達雄大尉という2人の主人公が登場します。

2人は海軍兵学校の七十期生の同期ですが、関は神風特別攻撃隊第一号、つまり日本ではじめて特攻隊として選ばれた軍人であり、中津留は1945年8月15日に行われた天皇の玉音放送後、つまり終戦を知らされないまま日本で最後に特攻した軍人となります。

特攻隊は当時のアメリカにとって、また現在の平和な日本にとって衝撃的な出来事だったため、多くの小説やドキュメント作品の題材となっています。

即席のパイロット訓練を受けた、中にはわずか17歳の少年兵が特攻隊として太平洋の海原に消えてゆく例すらありました。

タイトルに"指揮官たちの特攻"とありますが、彼ら2人のように戦闘機乗りの大尉といえば、正規の訓練を受けて第一線の操縦士として部下たちを率いて出撃したり、教官として若い操縦士へ訓練を施す立場にあります。

いわばもっとも現役で油の乗り切った熟練パイロットたちであり、"特攻"の持つ戦略的な有効性などを冷静に判断できる経験を持っている一方、上官の命令には絶対服従という軍の規律についても充分に承知していました。

よって実戦経験のない若いパイロットが特攻に赴くときの一途な祖国愛や家族愛とは違った複雑な心境がありました。

たとえば関は次のような発言を残しているそうです。

「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲鈑に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自身がある」

「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあれば止むを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

軍人としての自信とそれゆえの無念さ、さらに半ば自暴自棄から来る冗談とも取れるような発言に感じます。

中津留は関とは違って物静かな性格であったため、その種の発言が残っていません。

彼の残した手紙からでさえ、両親、そして臨月の妻の身を案じる一方で、自分が何時特攻を命じられてもおかしくない状況を知られて心労をかけてしまわないような配慮がされています。

もちろん中津留自身も心中では、自分の死によって戦況は何一つ変わらないことを充分に承知してはずであり、それどころか海軍航空隊が壊滅状態であったことから、日本が敗戦濃厚なことすらも容易に予測できた立場にいたといえます。

それでも中津留は、先輩や同僚、そして何よりも自らが手塩かけて育てた後輩たちが次々と特攻により散ってゆく毎日を見てきて、自分だけがその運命から逃れるなど考えもしなかったに違いありません。

ちなみに著者の城山氏は、当時17歳であり若くして海軍へ志願していました。

城山氏は「伏龍」と呼ばれる特攻兵器の訓練生であり、それは潜水服を着用して海底に潜み、棒付き機雷を敵艦艇の船底に突き上げて自分もろとも爆発させるという"人間機雷"というべき信じられないものでした。

こうした経験を持つ城山氏は、零戦桜花回天に代表される特攻兵器によって命を失った兵士たちの逸話を耳にしたり、遺品を見る度に胸が痛むと同時に、申し訳ないという気持を持ち続けてきたといいます。

しかしながら本作品は、戦後から60年近くが経過した著者の最晩年にあたる作品です。
おそらく城山氏にとってそれだけ重いテーマであり、それを消化するために長い年月を要したのではないでしょうか。