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ニコライ遭難

ニコライ遭難 (新潮文庫)

タイトルにある"ニコライ"とは、のちのロシア皇帝ニコライ二世のことであり、その遭難を示す出来事とは、1891年(明治24年)に発生した大津事件を指しています。

本書は吉村昭氏が、大津事件の詳細や背景をこと細やかに描いた歴史小説です。

当時、皇太子だったニコライは両国の友好を深めるため軍艦とともに日本を訪れ、長崎→鹿児島→神戸→京都→東京という旅程を予定しており、京都から立ち寄った大津で巡査だった津田三蔵の凶行によって頭を負傷するという暗殺未遂が大津事件であり、日本史の教科書にも取り上げられています。

個人的には歴史小説というよりも特定の事件にクローズアップした歴史書といった方が相応しいほど、その描写は克明を極めており、ニコライの来日やそれを歓迎する日本の重鎮や民衆の様子が詳細に書かれています。

例えば以下はニコライが神戸に上陸した時の様子です。

ニコライは、出迎えの者に帽子を脱いで丁寧に握手をかわし、御用邸に入った。午後二時であった。
ニコライは、邸内に陳列された美術品をみた後、茶菓のもてなしをうけて十五分間休憩した。この間に、淡路洲本の新岡与文から鳴門蜜柑、小物屋町万年堂からカステーラ、神戸町一丁目明治屋からキリンビール、兵庫県湊町州田藤吉から瓦煎餅の献上をうけた。

やがて、ニコライは御用邸を出た。玄関前から門の外にむかって人力車がならび、宮内省から送られてきた人力車にニコライ、ジョージ親王、有栖川宮の順に乗り、・・・(略)

駐ロシア公使や政府内部でやり取りされた暗号電文や書簡も充分に紹介されており、そこからは当時の日本の様子のみならず、世界情勢までもが見えてきます。

当時のロシア帝国は世界最強の軍事国家であり、それに対して明治24年当時の日本は僅かな海軍しか所有しておらず、のちの日露戦争時の艦隊は姿形もありませんでした。

つまり明治天皇や日本の首脳陣たちは、この事件の結果がロシアの武力による報復、もしくは武力を背景にした巨額の賠償金へ対して頭を悩ませたのです。

東京から慌てて天皇や大臣たちが負傷したニコライ皇子が療養している京都へ見舞いに訪れる様子などは、日本の首脳陣が完全に狼狽してしまった結果だといっても過言ではありません。

こうした日本の誠意が通じたのか、幸いにもニコライ皇子の傷も命に別状なかったこともあって致命的な外交問題にはならずに事件は収束しました。

そして一転して本書の後半では、事件の張本人である津田三蔵への裁判を巡る行政と司法の対立と駆け引きが描かれます。

謀殺未遂罪は無期以下の懲役というのが当時の刑法ですが、第百十六条には以下の法案が織り込まれていました。

天皇・三后(太皇、太后、皇太后、皇后)・皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

松方正義首相はじめ、西郷従道伊藤博文といった首脳陣たちは、ロシア皇帝を満足させるためには厳罰、つまり第百十六条を適用して死刑とすることを主張しますが、児島惟謙大審院長をはじめとした裁判長や判事たちは、その法案の成立過程からも第百十六条は日本の皇室のみに適用されることは明らかであると主張し、何よりも司法権の独立を守り抜くために真っ向から対立します。

明治時代に1人の男が起こした事件を最大限まで拡大して見てゆくことで、かえって日本を取り巻く世界情勢が見えてくるという、まさに大津事件は当時の世相が凝縮された出来事だったのです。