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宮本武蔵―「兵法の道」を生きる

宮本武蔵―「兵法の道」を生きる (岩波新書)

私にとって宮本武蔵のイメージは、ほぼ吉川英治の小説がすべてです。

もっとも同氏の作品では、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に勝利した場面で終了し、その後半生にはまったく触れられていません。

私の中では若くして半ば隠遁生活に入り、水墨画や「五輪書」を執筆して暮らしたという勝手なイメージを持っていました。

本書は思想学者でもある魚住考至氏が、信頼できる文献からその生涯を丁寧に追ってゆき、半ば創作によって伝説化された宮本武蔵の実像に迫るとともに、そこから浮かび上がってくる思想を「五輪書」などを中心に専門家の視点から解説してゆく構成になっています。

小説に登場するヒロインのお通や幼馴染の又八は吉川氏が作った架空の人物であり、沢庵和尚との関係も事実ではなかったというのは予想通りですが、佐々木小次郎との決闘で武蔵が約束の刻限に大きく遅れ「小次郎、敗れたり」で有名な波打ち際での決闘場面は創作の可能性がきわめて高く、実際の勝負は約束の刻限に両者が同時に相会して行われた可能性が高いというのは意外な発見でした。

ただし武蔵が自作の大木刀を用いて、勝負を一撃で決したという部分は事実のようです。


小次郎との決闘を制した武蔵は、その後の人生も隠遁生活とは程遠いものでした。

三河刈谷城主・水野日向守勝成の元で大阪夏の陣に参加し、その後は姫路藩で自身の流派を広め、さらに明石城を築く時には兵法家として城下の町割り(城下の区画整理)を担当しています。

同時期に京都の文化サロンにも顔を出すようになり、そこで画を描き始め、庭造りにも挑戦したようです。

やがて明石の小笠原藩が小倉に移封されるとともに一緒に九州へ渡り、島原の乱にも養子の宮本伊織とともに出陣しています。

伊織はやがて小倉藩で筆頭家老の地位にまで上り詰めますが、客分の武蔵は名古屋や江戸にも頻繁に出かけてゆき、文化人たちと交流するとともに、精力的に自らの流派を広める活動を行っていたようです。

60歳を目前にして熊本の細川藩の客分として高禄で召抱えられ腰を落ち着けますが、そこでも藩主や重臣たちへ剣術指導を行っています。

ようやく最晩年になって熊本郊外の洞窟(霊巌洞)にこもって「五輪書」を執筆し始めますが、とっくに隠居していてもおかしくない年齢にも関わらず、こうでもしなければゆっくりと執筆活動の時間さえ満足に取れなかったような印象を受けます。

とにかく本書から浮かび上がってくる宮本武蔵の人生は、孤独とは程遠いものであり、むしろ多くの人たちとの交流を通じて名声を高めたという印象が強いものでした。

後半の五輪書を解説している部分は、多くの書籍で取り上げられている部分でもあるため割愛しますが、その特徴をひと言で表せば、神がかった精神論や無意味な伝統を排除した"極めて実践的な内容"であるということです。

本書によってひたすら剣術のみに打ち込んだ宮本武蔵のイメージが崩れ去り、殺伐とした戦国時代の中で誰にも縛られず自由に生き抜いた新しい武蔵像が見えてきたような気がします。