かきつばた・無心状
井伏鱒二氏の短編が15作品も収められている何とも贅沢な文庫本です。
- 普門院さん
- 爺さん婆さん
- おんなごころ
- かきつばた
- 犠牲
- ワサビ盗人
- 乗合自動車
- 野辺地の睦五郎略伝
- 河童騒動
- 手洗鉢
- 御隠居(安中町の土屋さん)
- リンドウの花
- 野犬
- 無心状
- 表札
随筆、私小説や歴史小説といった幅広いラインアップが揃っていますが、個人的に気になった作品を取り上げてみたいと思います。
まずは「おんなごころ」です。
これは井伏氏と交流のあった太宰治が愛人とともに入水自殺した時の出来事を振り返っています。
自殺直前の太宰はノイローゼ気味であり、先輩作家としての立場から療養することを薦めた著者との関係も良い状態ではありませんでした。
それでも自殺してしまった太宰へ対して強く忠告できなかった自分に「しまった」という後悔の気持ちがあること、一緒に無理心中した女性に振り回されていた太宰へ対して哀れみの感情を綴っています。
「かきつばた」では広島へ原爆が投下された当時、故郷の福山市で体験したことを私小説として書いています。
福山市は原爆の影響を受けませんでしたが、壊滅した広島の様子が分からず、"奇怪な爆弾"によって一瞬に消滅したという噂が広まるにつれ、少しずつその悲惨な実態が明らかになってくる緊迫した様子が伝わってきます。
やがて福山市も大空襲に襲われ、著者は避難した山の尾根から町の燃える明るみを眺めることになります。
強烈な体験にも関わらず、井伏氏の作風らしく強い感情を表に出さずに淡々と当時を振り返っているのが印象的です。
そして終戦直後に友人宅の池で著者が目撃した1人の女性の水死体、その池に季節外れに咲いていたカキツバタがなぜか不思議な純文学の世界を感じさせます。
この時の体験が後にに大作「黒い雨」を執筆する大きなきっかけになったのは間違いありません。
「御隠居(安中町の土屋さん)」では、著者が上州安中町に住む80歳の老人の元を訪れ、日露戦争に従軍し重傷を負った挙句にロシア兵の手によって捕虜にされた時の体験談を聞きに行ったときの様子を描いています。
老人の所属していた中隊はロシア軍の包囲によって全滅し、ほとんど唯一人の生き残りという悲惨な状況でしたが、耳は遠くなっているものの、快活かつ無頓着に当時の体験を話す老人の迫力に圧倒され、肝の据わった明治人の姿をそこに見出します。
井伏鱒二という作家の落ち着いた作風が根底にありながらも、これだけ多彩な作品を生み出せる才能に感心せずにはいられません。