私本太平記(八)
いよいよ吉川英治「私本太平記」も最終巻です。
"人生の黄昏"という比喩がありますが、遠からず訪れる自分の死期を察して身の回りや心の整理整頓をはじめる時期という意味があります。
一昔前では子どもが完全に独立して定年退職した後が"人生の黄昏"という印象ですが、寿命が伸び80歳を超えても元気な老人が増えた現代ではもっと遅くなっているハズです。
葉隠に「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名なフレーズがありますが、"死"とつねに隣合わせの宿命を持つ武士の日常の心構えを説いたものです。
ともかく九州から再上陸して上京する足利尊氏を迎え撃つ楠木正成は、最も早く今回の戦いに勝ち目がないことを予見していた武将です。
正成は尊氏が九州へ落ち延びた直後に後醍醐天皇へ諫言を行いましたが、時勢を見抜けない公卿たちはその意見をことごく退けます。
それでも宮方を裏切り時勢に乗ることを潔しとせず、自らの死に場所を決めた正成は、故郷の河内でつかの間の平和を堪能し、一族郎党たちへ最期の別れを告げます。
この短い期間が彼にとっての"人生の黄昏"になったのです。
父とともに戦うことを希望し駆け付けた長男・正行(まさつら)を湊川の戦いの前日に諭して郷里へ返した"桜井の別れ"の場面は有名ですが、ともかく正成は自らが思い定めた場所で華々しく散ってゆきます。
尊氏が京都を占領し、吉野へ避難した南朝の後醍醐天皇と父・親房の要請で再び陸奥から決死の強行軍で駆け付けた北畠顕家も、もはや時勢の流れは如何ともしがたく、南朝へ自分の死後を案じた意見書を書き残し戦死を遂げます。それはわずか21歳という早すぎる死でもありました。
武運拙く散っていった2人の武将だけでなく、時代の勝者となった足利尊氏にも"人生の黄昏"は確実に迫っていたのです。
まだ全国では戦乱の火が収まっていませんでしたが、尊氏は諸事を弟の直義(ただよし)に任せ早くも半ば隠遁生活に入ってしまいます。
しかし直義と足利家の宰領を勤めてきた高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟との抗争が始まり、高兄弟が殺害されるという結果で終わります。
のちに尊氏、直義の間も政治的な意見の衝突から関係が悪化し、最終的に直義が殺害されて兄弟抗争が決着します。
さらには庶子の直冬も、父へ対して反旗を翻して頑強な抵抗を続けます。
身内同士の抗争に明け暮れて気付けばかつての宿敵であり尊敬もしていた後醍醐天皇はすでに亡く、彼の右腕として神算鬼謀の限りを尽くした北畠親房もこの世にはいませんでした。
そして尊氏自身も戦乱が収まった平和な時代を見ることなく、病に倒れ世を去ることになります。
結局南北朝の戦乱が収まるのは、尊氏の死後30年以上も待たねばなりませんでした。
本作品でたびたび登場した足利一族に連なる琵琶法師・覚一は作品の最後でこの時代を以下のように評しています。
「これまでの歴代にも現れなかった烈しい御気性の天皇(後醍醐天皇)と、めったにこの国の人傑にも出ぬようなお人(足利尊氏)とが、同時代に出て、しかも相反する理想をどちらも押し通そうとなされたもの。宿命の大乱と申すしかありませぬ。」
平和的な結末ではなく、勝者敗者もない"人生の黄昏"が凝縮された悲哀あふれる最終巻となりましたが、それが時代の息吹を感じる歴史小説の結末として相応しいのかも知れません。
私本太平記(七)
朝敵追討将軍として鎌倉へ迫る新田貞義を足利尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで散々に撃破します。
貞義側には戦争馴れしていない公卿将軍がいたこと、さらに大友将監、塩冶高貞、そして婆沙羅大名こと佐々木道誉が次々と尊氏方へ裏切ったことが決定打になりました。
後醍醐天皇の宣旨があったのは貞義でしたが、武士の棟梁として人気のあったのは尊氏の方でした。
尊氏は勢いそのままに京都まで攻め上り、体勢を立て直した貞義、そして楠木正成を相手に有利に戦いを進めますが、宮方へ思いがけない援軍が現れます。
それが陸奥から騎兵七千騎を率いて上京してきた北畠顕家です。
南北朝時代を通じて軍事の天才といえば、千早城で千人余の軍勢で幕府軍数万を相手に戦い抜いた楠木正成とこの北畠顕家が挙げられます。
彼は弱冠16歳の公卿の身でありながら陸奥に下向し、またたく間に東北地方の戦乱を平定した実績があります。
この時は1日30~40キロの行軍ペースで上京し、苦戦する宮方の援軍に駆け付けるや否や足利尊氏を撃破し九州へ追いやった時には弱冠18歳でしかありませんでした。
それと比べると足利尊氏の戦は勝ったり負けたりの繰り返しでしたが、この時は決着がつく前に早くも諦めてしまったような感がありました。
わずか五百騎を従えて九州へ落ち延びた尊氏でしたが、ここでも足利尊氏の元へ少弐頼尚をはじめとして宗像氏、大友氏、島津氏、大隅氏らが駆け参じます。
菊池武敏をはじめとした九州の宮方の大軍と少数で決戦に挑みますが、竹の下の戦いが再現されたかのように松浦党、相良党、龍造寺党が次々と尊氏側へ寝返り、多々良浜の戦いで大勝します。
尊氏にあって天才と言われた楠木正成、北畠顕家になかったもの、それは武士たちからの人望であったといえます。
この人望の正体は、武士の棟梁の証である八幡太郎義家の直系という血筋でした。
しかし尊氏同様にライバルの新田貞義も足利家と祖先が共通した源氏嫡男直系の家柄でしたが、何が決定的に違ったのでしょうか?
勝ったり負けたりという意味では武将としての才能はそれほど大差がなかったように見えます。
尊氏が九州目指して落ち延びた時に貞義はただちに追撃を行いませんでした。
これは後醍醐天皇から賜った絶世の美女・勾当内侍を溺愛していたという説、単純に体調を崩していたという説などがありますが、ともかく貞義が優柔不断であったと評することもできますが、尊氏も弟の直義(ただよし)に迫られて重い腰を上げる場面が多く、即断即決するタイプではありませんでした。
では何か決定打だったかといえば、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻すことを決断し、貞義は(尊氏と対抗する都合上)天皇側に味方したということに尽きると思います。
建武の新政の一環として行われた報奨は武士たちの不興を買いましたが、武士の頭領たる尊氏はそんな武士たちの不満を吸収して着実に自分の陣営へ引入れていったのです。
これは後世において織田信長が戦において武田信玄や上杉謙信に戦では勝てなくとも、政略によって台頭したのに似ています。
真の力を蓄えているのは天皇や公卿ではなく、土地に根ざして実質的に支配力を強めている武士階級であることをいち早く見抜いていたのです。
ともかく九州に落ち延びた尊氏は、わずか50日足らずで九州を平定し大軍を率いて再び京都へ迫ります。
南北朝時代のクライマックスは、戦国時代や明治維新よりも目まぐるしいのです。
私本太平記(六)
頼みとする側近たちが次々と処刑され、自身も隠岐島へ流刑されるといった数々の困難を乗り越え、念願だった鎌倉幕府打倒を実現させた後醍醐天皇。
確固たる信念と旺盛な行動力で政権を手にした後醍醐天皇は、新たな時代の建設に挑みます。
これが日本史上でも有名な建武の新政ですが、その実態は平氏源氏と続いた武家政権を否定した復古主義であると同時に急激な改革でもありました。
結果として身内への贔屓をはじめとした恩賞の不公平、経済的な失策が続き、その権威と信頼は短時間で失墜してゆくことになります。
名目上はともかく実際に鎌倉幕府と戦った主な勢力は武士であり、彼らの不満は水面下で膨らみつつありました。
後醍醐天皇の抱く高い理想は時代を変えるための求心力としては役立ちましたが、いざ政権を手にしてみると現実を見るバランス感覚を欠いていました。
この理想と現実の間に存在する真空地帯をうまく利用したのが足利尊氏でした。
尊氏の"尊"は、後醍醐天皇の本名である尊治(たかはる)から賜ったことからも分かる通り、当初2人の関係は良好なものでした。
しかし結果的に尊氏は、鎌倉の北条氏に続いて後醍醐天皇へ対しても反旗を翻すことになります。
この出来事を以って尊氏の本質を裏切り者と判断するのは簡単ですが、吉川英治氏は彼の心の苦悩の深さを克明に描き出します。
北条氏への反抗は以前から尊氏の心に秘した決意から来るものでしたが、後醍醐天皇へ矛先を向ける際には、宮方への忠誠と武士の頭領としての責務の間で苦悩することになります。
今回に限らず「私本太平記」の足利尊氏は、大きな決断を迫られるたびに迷う、ともすれば優柔不断な武将のように見えますが、そこには彼自身の持つ"優しさ"が根底に横たわっています。
後世の水戸学をはじめとした皇国史観では尊氏を狡猾で用心深い野心家と断じていますが、その源流は後醍醐天皇の右腕として活躍した北畠親房である以上、首尾一貫した批判は仕方ないといえるでしょう。
乱世を生き残るためには手段を選ばない、つねに合理的で冷静な判断を下し続ける人物として尊氏を描かず、1人の苦悩する人間として尊氏が登場するところが本作品の特徴であるといえるでしょう。
しかし尊氏がいくら苦悩しようが、現実に迫るのは後醍醐天皇から朝敵追討大将軍に任じられ鎌倉へ迫る新田義貞であり、彼はついに昨日までの同盟者と決戦することを決意します。
大きな決断のために時間を要しても、一旦決めたからには徹底的に私情を捨て去ることの出来るのも尊氏の性格であったのです。
かつての同志が不倶戴天の敵となった瞬間でしたが、もはやそこには善悪を超越した乱世における武門の常があるのみでした。
私本太平記(五)
楠木正成の千早城籠城戦、足利尊氏の六波羅探題攻め、そして新田義貞の鎌倉攻め、この3つ出来事がほぼ同時に起きたことが短時間で鎌倉幕府が滅亡した要因です。
その中でも特筆すべきは、やはり鎌倉幕府を直接攻め滅ぼしたのは新田義貞です。
足利氏、新田氏はいずれも源氏の嫡流、つまり武士の頭領ともいうべき家柄で領地も隣同士でしたが、ライバル意識のためか両家の関係は必ずしも良好ではありませんでした。
それでも強大な鎌倉幕府を打倒するために両家は手を組むことを決意し、呼応して関西、そして関東で同時に挙兵するに至ります。
もちろんその背景には、鎌倉幕府の支配力や影響力が低下しているという冷静な状況分析が根底にありました。
しかし驚くべきごとに、衰えたりとはいえ数万の軍勢を擁する鎌倉へ攻め上るために新田ノ庄(現在の群馬県太田市を中心とした周辺地域)で旗揚げをした貞義には、わずか150騎が付き従うのみでした。
赤城の山を背後に鎌倉街道をひたすら南下を続ける貞義の元には、越後の新田郎党をはじめ、関東各地の郷武者たちが次々と駆け付け軍勢が膨らんでゆき、貞義や尊氏の判断は正しかったことが証明されます。
さらに広い関東平野に割拠する武者たちが集う名目として決定的になったのは、足利尊氏の嫡子・千寿王(のちの室町幕府2代将軍・義詮)が義貞と一緒に滞陣していたことです。
もちろん鎌倉への忠誠を曲げなかった武士たちもいましたが、時代の趨勢を見ることに機敏な武士たちが大半を占めていました。
あっという間に鎌倉軍と互角の軍勢を従えた貞義は、小手指、久米川、分倍河原と激戦ながらも敵を撃破してゆき、鎌倉へ刻一刻と近づいてゆくのです。
そしてついに小袋坂、化粧坂、極楽寺坂といった切通しの激戦、そして有名な稲村ヶ崎の岸壁を伝った侵入など、鎌倉攻防戦が繰り広げられます。
本作品で印象的なのは、新しい時代の到来を予感させる日の昇る勢いの新田貞義と対照的に描かれる落日の悲壮感が漂う北条高時を頂点とした鎌倉勢です。
北条高時はわずか14歳で鎌倉執権となりますが、闘犬や田楽に興ずる暗君だったという説があります。
それでも吉川英治氏はあくまでも高時に同情的であり鎌倉滅亡の日を丹念に描いています。
先程の義貞の旗揚げと快進撃の場面から一転し、高時の視点から鎌倉幕府滅亡を執筆してゆき、時代の最高権力者がすべてを失う最期の場面に遭遇するかのごとく読者は惹き込まれてしまうのです。
すべてが終わったのちに著者の視点は高時から離れ、次のような文章で淡々と締め括っています。
東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。
-- 総じて、鎌倉中での死者は、六千余にのぼったという。
また、それから二日後。
五山の一つ、円覚の一院では、高時の生母覚海尼公と、法弟の春渓尼とが、五月の朝のほととぎすをよそに、姿を並べて自害していた。
私本太平記(四)
「私本太平記」もいよいよ中盤に入りますが、この四巻、そして続く五巻は南北朝における最大のクライマックスが訪れます。
歴史の魅力の1つに、百年以上も天下泰平の時代が続くこともあれば、たった1年で世の中が激変してしまう時があることです。
そしてこの南北朝時代においても、これだけの出来事が1年の間に起こります。
- 後醍醐天皇の隠岐遠流そして脱出(帰還)
- 楠木正成と幕府軍による千早城攻防
- 足利尊氏の幕府離反そして六波羅探題を壊滅させた京都占領
- 新田義貞の鎌倉攻めと北条氏滅亡
小説中でも時系列が前後してしまう慌ただしい展開ですが、要は強大な力を持っていたはずの鎌倉幕府がたった1年で滅亡してしまったということに尽きます。
その背景にあるのは、時代の帰趨に敏感な武士たちが雪崩式に強者側へ旗色を転じたということになるでしょう。
この時代に江戸時代に見られた朱子学(仁・義 ・礼・孝・忠)の影響を受けた武士道はまだ存在せず、自らの所領を拡大して一族繁栄のために勇敢に戦うことこそが価値観のすべてであり、忠義に殉ずる武士の方が例外的でした。
その例外的な武士の代表格として後世有名になり、神秘的な存在でさえあるのが楠木正成です。
たとえば後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞の系図は明らかであり、殆ど疑いの余地はありません。
一方の楠木正成はその系図が謎どころか出自さえ諸説ある状態であり、ともかく当時は河内・金剛山の麓における有力な勢力であったということだけが確かです。
この全国的に見ても取るに足らない千人余りの勢力が赤坂城・千早城に籠城して数万~10万の幕府軍を相手に約180日間守り抜いた功績は、鎌倉、京都の守りを手薄にし、何よりも「鎌倉幕府(北条氏)恐るるに足らず」という気運を全国の武士たちの間に広めたことだといえるでしょう。
しばしば日本の諸葛亮孔明と評される正成ですが、本書に描かれる彼の姿は必ずしも大軍師としての姿ではなく、兵士たちと共に傷つくことも厭わずに最前線で指揮を執り続ける武将として登場します。
"宮方へ殉じた忠義の武将"、"神算鬼謀の軍師"、謎が多いだけに後世の物語で着色されたイメージの強い正成ですが、少なくとも絶望的な状況下にあっても千早城に立て篭もる一千の将兵たちの心を一つにまとめることのできた優れた指揮官であったことは確かです。
私本太平記(三)
鎌倉幕府を転覆する計画が事前に発覚した「正中の変」、そして笠置山に立てこもり武力蜂起にまで発展した「元弘の乱」。
後醍醐天皇が中心となった2つの倒幕活動はいずれも失敗に終わります。
彼は決断力と行動力、そして指導者としてのカリスマ性も充分に持ち合わせていましたが、緻密な計画力には欠けている部分がありました。
また日野俊基・資朝、大塔宮護良親王、北畠具行、万里小路藤房、千種忠顕といった側近たちはいずれも大胆不敵で勇敢ではあっても、いわゆる軍師タイプの人物ではありませんでした。
さすがに相手が天皇であっても2回目の反乱に鎌倉幕府は寛容ではなく、後醍醐天皇を隠岐へ遠流という処置を決断します。
そして後醍醐天皇を隠岐まで護送する任命を与えられたのが婆娑羅大名こと佐々木道誉です。
婆娑羅(ばさら)とは南北朝当時の流行語で、奇抜で派手な行動や外見を指す言葉ですが、風流や粋といった意味も含まれていました。
戦国時代の「傾奇(かぶき)者」に近いニュアンスですが、著者の吉川英治氏はこの道誉を「南北朝時代随一の怪物」と評しました。
自身は名門大名であり、側近として鎌倉幕府執権・北条高時の寵愛を受けながらも、この後醍醐天皇を護送する機会を巧みに利用して宮方の信用を得ることにも成功します。
さらに鎌倉幕府、そして後醍醐天皇を中心とした宮方(南朝)へ対して反旗を翻すことになる足利尊氏からの信頼も厚く、のちに室町幕府の重鎮として君臨することになります。
その身代わりの早さを考えると油断のならない人物として警戒されるのが当然ですが、道誉に限っていえば結果として時代の権力者いずれからも重用されました。
彼は田楽、能、詩、花道、茶道、書道、禅、闘犬といった道に精通した一流の文化人でしたが、ここで学んだ美意識やバランス感覚を政治や謀略、つまり処世術に活かしたという見方が出来るかも知れません。
勝手気ままに振る舞っているように見えながら誰よりも器用に戦乱を生き延びてゆく道誉の生涯は誰よりも幸運であったに違いなく、「私本太平記」においても道誉は常にキーマンであり続けるのです。
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