レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

私本太平記(五)


楠木正成の千早城籠城戦、足利尊氏の六波羅探題攻め、そして新田義貞の鎌倉攻め、この3つ出来事がほぼ同時に起きたことが短時間で鎌倉幕府が滅亡した要因です。

その中でも特筆すべきは、やはり鎌倉幕府を直接攻め滅ぼしたのは新田義貞です。

足利氏、新田氏はいずれも源氏の嫡流、つまり武士の頭領ともいうべき家柄で領地も隣同士でしたが、ライバル意識のためか両家の関係は必ずしも良好ではありませんでした。

それでも強大な鎌倉幕府を打倒するために両家は手を組むことを決意し、呼応して関西、そして関東で同時に挙兵するに至ります。

もちろんその背景には、鎌倉幕府の支配力や影響力が低下しているという冷静な状況分析が根底にありました。

しかし驚くべきごとに、衰えたりとはいえ数万の軍勢を擁する鎌倉へ攻め上るために新田ノ庄(現在の群馬県太田市を中心とした周辺地域)で旗揚げをした貞義には、わずか150騎が付き従うのみでした。

赤城の山を背後に鎌倉街道をひたすら南下を続ける貞義の元には、越後の新田郎党をはじめ、関東各地の郷武者たちが次々と駆け付け軍勢が膨らんでゆき、貞義や尊氏の判断は正しかったことが証明されます。

さらに広い関東平野に割拠する武者たちが集う名目として決定的になったのは、足利尊氏の嫡子・千寿王(のちの室町幕府2代将軍・義詮)が義貞と一緒に滞陣していたことです。

もちろん鎌倉への忠誠を曲げなかった武士たちもいましたが、時代の趨勢を見ることに機敏な武士たちが大半を占めていました。

あっという間に鎌倉軍と互角の軍勢を従えた貞義は、小手指、久米川、分倍河原と激戦ながらも敵を撃破してゆき、鎌倉へ刻一刻と近づいてゆくのです。

そしてついに小袋坂、化粧坂、極楽寺坂といった切通しの激戦、そして有名な稲村ヶ崎の岸壁を伝った侵入など、鎌倉攻防戦が繰り広げられます。

本作品で印象的なのは、新しい時代の到来を予感させる日の昇る勢いの新田貞義と対照的に描かれる落日の悲壮感が漂う北条高時を頂点とした鎌倉勢です。

北条高時はわずか14歳で鎌倉執権となりますが、闘犬や田楽に興ずる暗君だったという説があります。

それでも吉川英治氏はあくまでも高時に同情的であり鎌倉滅亡の日を丹念に描いています。

先程の義貞の旗揚げと快進撃の場面から一転し、高時の視点から鎌倉幕府滅亡を執筆してゆき、時代の最高権力者がすべてを失う最期の場面に遭遇するかのごとく読者は惹き込まれてしまうのです。

すべてが終わったのちに著者の視点は高時から離れ、次のような文章で淡々と締め括っています。

東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。
-- 総じて、鎌倉中での死者は、六千余にのぼったという。
また、それから二日後。
五山の一つ、円覚の一院では、高時の生母覚海尼公と、法弟の春渓尼とが、五月の朝のほととぎすをよそに、姿を並べて自害していた。