私本太平記(三)
鎌倉幕府を転覆する計画が事前に発覚した「正中の変」、そして笠置山に立てこもり武力蜂起にまで発展した「元弘の乱」。
後醍醐天皇が中心となった2つの倒幕活動はいずれも失敗に終わります。
彼は決断力と行動力、そして指導者としてのカリスマ性も充分に持ち合わせていましたが、緻密な計画力には欠けている部分がありました。
また日野俊基・資朝、大塔宮護良親王、北畠具行、万里小路藤房、千種忠顕といった側近たちはいずれも大胆不敵で勇敢ではあっても、いわゆる軍師タイプの人物ではありませんでした。
さすがに相手が天皇であっても2回目の反乱に鎌倉幕府は寛容ではなく、後醍醐天皇を隠岐へ遠流という処置を決断します。
そして後醍醐天皇を隠岐まで護送する任命を与えられたのが婆娑羅大名こと佐々木道誉です。
婆娑羅(ばさら)とは南北朝当時の流行語で、奇抜で派手な行動や外見を指す言葉ですが、風流や粋といった意味も含まれていました。
戦国時代の「傾奇(かぶき)者」に近いニュアンスですが、著者の吉川英治氏はこの道誉を「南北朝時代随一の怪物」と評しました。
自身は名門大名であり、側近として鎌倉幕府執権・北条高時の寵愛を受けながらも、この後醍醐天皇を護送する機会を巧みに利用して宮方の信用を得ることにも成功します。
さらに鎌倉幕府、そして後醍醐天皇を中心とした宮方(南朝)へ対して反旗を翻すことになる足利尊氏からの信頼も厚く、のちに室町幕府の重鎮として君臨することになります。
その身代わりの早さを考えると油断のならない人物として警戒されるのが当然ですが、道誉に限っていえば結果として時代の権力者いずれからも重用されました。
彼は田楽、能、詩、花道、茶道、書道、禅、闘犬といった道に精通した一流の文化人でしたが、ここで学んだ美意識やバランス感覚を政治や謀略、つまり処世術に活かしたという見方が出来るかも知れません。
勝手気ままに振る舞っているように見えながら誰よりも器用に戦乱を生き延びてゆく道誉の生涯は誰よりも幸運であったに違いなく、「私本太平記」においても道誉は常にキーマンであり続けるのです。