私本太平記(六)
頼みとする側近たちが次々と処刑され、自身も隠岐島へ流刑されるといった数々の困難を乗り越え、念願だった鎌倉幕府打倒を実現させた後醍醐天皇。
確固たる信念と旺盛な行動力で政権を手にした後醍醐天皇は、新たな時代の建設に挑みます。
これが日本史上でも有名な建武の新政ですが、その実態は平氏源氏と続いた武家政権を否定した復古主義であると同時に急激な改革でもありました。
結果として身内への贔屓をはじめとした恩賞の不公平、経済的な失策が続き、その権威と信頼は短時間で失墜してゆくことになります。
名目上はともかく実際に鎌倉幕府と戦った主な勢力は武士であり、彼らの不満は水面下で膨らみつつありました。
後醍醐天皇の抱く高い理想は時代を変えるための求心力としては役立ちましたが、いざ政権を手にしてみると現実を見るバランス感覚を欠いていました。
この理想と現実の間に存在する真空地帯をうまく利用したのが足利尊氏でした。
尊氏の"尊"は、後醍醐天皇の本名である尊治(たかはる)から賜ったことからも分かる通り、当初2人の関係は良好なものでした。
しかし結果的に尊氏は、鎌倉の北条氏に続いて後醍醐天皇へ対しても反旗を翻すことになります。
この出来事を以って尊氏の本質を裏切り者と判断するのは簡単ですが、吉川英治氏は彼の心の苦悩の深さを克明に描き出します。
北条氏への反抗は以前から尊氏の心に秘した決意から来るものでしたが、後醍醐天皇へ矛先を向ける際には、宮方への忠誠と武士の頭領としての責務の間で苦悩することになります。
今回に限らず「私本太平記」の足利尊氏は、大きな決断を迫られるたびに迷う、ともすれば優柔不断な武将のように見えますが、そこには彼自身の持つ"優しさ"が根底に横たわっています。
後世の水戸学をはじめとした皇国史観では尊氏を狡猾で用心深い野心家と断じていますが、その源流は後醍醐天皇の右腕として活躍した北畠親房である以上、首尾一貫した批判は仕方ないといえるでしょう。
乱世を生き残るためには手段を選ばない、つねに合理的で冷静な判断を下し続ける人物として尊氏を描かず、1人の苦悩する人間として尊氏が登場するところが本作品の特徴であるといえるでしょう。
しかし尊氏がいくら苦悩しようが、現実に迫るのは後醍醐天皇から朝敵追討大将軍に任じられ鎌倉へ迫る新田義貞であり、彼はついに昨日までの同盟者と決戦することを決意します。
大きな決断のために時間を要しても、一旦決めたからには徹底的に私情を捨て去ることの出来るのも尊氏の性格であったのです。
かつての同志が不倶戴天の敵となった瞬間でしたが、もはやそこには善悪を超越した乱世における武門の常があるのみでした。