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私本太平記(七)

私本太平記(七) (吉川英治歴史時代文庫)

朝敵追討将軍として鎌倉へ迫る新田貞義足利尊氏箱根・竹ノ下の戦いで散々に撃破します。

貞義側には戦争馴れしていない公卿将軍がいたこと、さらに大友将監塩冶高貞、そして婆沙羅大名こと佐々木道誉が次々と尊氏方へ裏切ったことが決定打になりました。

後醍醐天皇の宣旨があったのは貞義でしたが、武士の棟梁として人気のあったのは尊氏の方でした。

尊氏は勢いそのままに京都まで攻め上り、体勢を立て直した貞義、そして楠木正成を相手に有利に戦いを進めますが、宮方へ思いがけない援軍が現れます。

それが陸奥から騎兵七千騎を率いて上京してきた北畠顕家です。

南北朝時代を通じて軍事の天才といえば、千早城で千人余の軍勢で幕府軍数万を相手に戦い抜いた楠木正成とこの北畠顕家が挙げられます。

彼は弱冠16歳の公卿の身でありながら陸奥に下向し、またたく間に東北地方の戦乱を平定した実績があります。

この時は1日30~40キロの行軍ペースで上京し、苦戦する宮方の援軍に駆け付けるや否や足利尊氏を撃破し九州へ追いやった時には弱冠18歳でしかありませんでした。

それと比べると足利尊氏の戦は勝ったり負けたりの繰り返しでしたが、この時は決着がつく前に早くも諦めてしまったような感がありました。

わずか五百騎を従えて九州へ落ち延びた尊氏でしたが、ここでも足利尊氏の元へ少弐頼尚をはじめとして宗像氏大友氏島津氏大隅氏らが駆け参じます。

菊池武敏をはじめとした九州の宮方の大軍と少数で決戦に挑みますが、竹の下の戦いが再現されたかのように松浦党、相良党、龍造寺党が次々と尊氏側へ寝返り、多々良浜の戦いで大勝します。

尊氏にあって天才と言われた楠木正成、北畠顕家になかったもの、それは武士たちからの人望であったといえます。

この人望の正体は、武士の棟梁の証である八幡太郎義家の直系という血筋でした。

しかし尊氏同様にライバルの新田貞義も足利家と祖先が共通した源氏嫡男直系の家柄でしたが、何が決定的に違ったのでしょうか?

勝ったり負けたりという意味では武将としての才能はそれほど大差がなかったように見えます。

尊氏が九州目指して落ち延びた時に貞義はただちに追撃を行いませんでした。

これは後醍醐天皇から賜った絶世の美女・勾当内侍を溺愛していたという説、単純に体調を崩していたという説などがありますが、ともかく貞義が優柔不断であったと評することもできますが、尊氏も弟の直義(ただよし)に迫られて重い腰を上げる場面が多く、即断即決するタイプではありませんでした。

では何か決定打だったかといえば、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻すことを決断し、貞義は(尊氏と対抗する都合上)天皇側に味方したということに尽きると思います。

建武の新政の一環として行われた報奨は武士たちの不興を買いましたが、武士の頭領たる尊氏はそんな武士たちの不満を吸収して着実に自分の陣営へ引入れていったのです。

これは後世において織田信長が戦において武田信玄や上杉謙信に戦では勝てなくとも、政略によって台頭したのに似ています。

真の力を蓄えているのは天皇や公卿ではなく、土地に根ざして実質的に支配力を強めている武士階級であることをいち早く見抜いていたのです。

ともかく九州に落ち延びた尊氏は、わずか50日足らずで九州を平定し大軍を率いて再び京都へ迫ります。

南北朝時代のクライマックスは、戦国時代や明治維新よりも目まぐるしいのです。