私本太平記(四)
「私本太平記」もいよいよ中盤に入りますが、この四巻、そして続く五巻は南北朝における最大のクライマックスが訪れます。
歴史の魅力の1つに、百年以上も天下泰平の時代が続くこともあれば、たった1年で世の中が激変してしまう時があることです。
そしてこの南北朝時代においても、これだけの出来事が1年の間に起こります。
- 後醍醐天皇の隠岐遠流そして脱出(帰還)
- 楠木正成と幕府軍による千早城攻防
- 足利尊氏の幕府離反そして六波羅探題を壊滅させた京都占領
- 新田義貞の鎌倉攻めと北条氏滅亡
小説中でも時系列が前後してしまう慌ただしい展開ですが、要は強大な力を持っていたはずの鎌倉幕府がたった1年で滅亡してしまったということに尽きます。
その背景にあるのは、時代の帰趨に敏感な武士たちが雪崩式に強者側へ旗色を転じたということになるでしょう。
この時代に江戸時代に見られた朱子学(仁・義 ・礼・孝・忠)の影響を受けた武士道はまだ存在せず、自らの所領を拡大して一族繁栄のために勇敢に戦うことこそが価値観のすべてであり、忠義に殉ずる武士の方が例外的でした。
その例外的な武士の代表格として後世有名になり、神秘的な存在でさえあるのが楠木正成です。
たとえば後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞の系図は明らかであり、殆ど疑いの余地はありません。
一方の楠木正成はその系図が謎どころか出自さえ諸説ある状態であり、ともかく当時は河内・金剛山の麓における有力な勢力であったということだけが確かです。
この全国的に見ても取るに足らない千人余りの勢力が赤坂城・千早城に籠城して数万~10万の幕府軍を相手に約180日間守り抜いた功績は、鎌倉、京都の守りを手薄にし、何よりも「鎌倉幕府(北条氏)恐るるに足らず」という気運を全国の武士たちの間に広めたことだといえるでしょう。
しばしば日本の諸葛亮孔明と評される正成ですが、本書に描かれる彼の姿は必ずしも大軍師としての姿ではなく、兵士たちと共に傷つくことも厭わずに最前線で指揮を執り続ける武将として登場します。
"宮方へ殉じた忠義の武将"、"神算鬼謀の軍師"、謎が多いだけに後世の物語で着色されたイメージの強い正成ですが、少なくとも絶望的な状況下にあっても千早城に立て篭もる一千の将兵たちの心を一つにまとめることのできた優れた指揮官であったことは確かです。