わたしの流儀
吉村昭氏が作家としての日常、出会った人びと、また日々感じたことをシンプルに綴ったエッセイ集です。
掲載されているほとんどのエッセイが文庫本で2~3ページの分量のため、1分で1本のエッセイが読めてしまいます。
作家のエッセイを読むと、作風からははまったく想像できない人柄であったり、逆に思った通りの人物像だったりすることがありますが、本書に関しては完全に後者が当てはまります。
吉村氏の作品をジャンル分けすると歴史小説、または戦争文学に分類されると思いますが、彼の特徴は他の同ジャンルの作家と比べても史実を重視することにあり、作者自身の創作部分を極力排除した作風で知られています。
そのため彼は「記録小説」という新しいジャンルを開拓したと評されています。
それだけに吉村氏は日本各地を飛び回り、調査や取材を重ねていることがエッセイから伺えます。
また東京の自宅にいるときは、正月以外1日も休むことなく書斎の机に向かう日常を送っていると言います。
書斎の四方の壁には天井まで伸びた書棚があって、書籍が隙間なく並び、床の上にまであふれ出ている。
それらにかこまれて、机の上に置かれた資料を読み、原稿用紙に万年筆で文字を刻みつけるように書く。
海外旅行や温泉旅行に行く訳でもなく、ギャンブルや何かの趣味に興じることもなく作家活動に専念する様子は、まさに私のイメージとぴったり重なります。
ただしストイックに自分を追い込んで執筆活動を続けているというより、作家という職業が天職であり、心底から性に合っているという感じです。
一方で趣味を持たない吉村氏が唯一の楽しみにしているのがお酒だといいます。
毎日欠かさず晩酌をしていると言いますが、
たしか私が千鳥足になったのは、焼酎をコップ17杯飲んだ時だけで、お銚子28本並べたこともある。とあるように、完全に酒豪のレベルです。
それでも取材の旅行先では午後6時、自宅では午後9時になるまでは決して酒を口にしないというルールを自らに課しているというところが吉村氏らしい部分です。
至るところで吉村氏の温厚で真面目な性格が垣間見れますが、エッセイそのものが平凡で退屈ということは決してありません。
なぜならエッセイで一番重要な要素"ユーモア"を決して忘れていないからです。
最後の晩餐では"アイスクリーム"を食べたいと言ったり、行きつけの浅草の小料理屋で自分の正体がバレていないことをいいことに職業を「養豚業者」と名乗ってみたり、吉村氏が真面目な顔でそのように発言している場面を想像すると、不思議な面白みが出てくるのです。
白仏
著者の辻仁成氏が、祖父をモデルにその生涯を描いた作品です。
辻氏は1959年生まれであり、祖父は日露戦争へ出兵した経験を持つ世代です。
祖父(作品中では稔)の生まれは福岡県の大野島( 現:大川市大字大野島)であり、江戸時代に筑後川の河口にある三角州へ移住した人びとが開墾した土地です。
この土地で生涯暮らし続けた主人公・稔は老境に入って骨仏(白仏)を作り上げることになり、それが作品のタイトルにもなっています。
骨仏は信仰の1つの形として日本各地に点在するようですが、彼の場合は大野島の各所に眠る3000体もの遺骨を掘り出して完成させたというから驚きです。
そもそも墓から遺骨を掘り起こすという行為自体、遺族の了承を得る段階から始めなければならないと考えると途方もない労力であり、一大事業であることは容易に想像ができます。
ただし骨仏建立プロジェクトの過程を描くことが本作品の目的ではありません。
そこに至るまでの信念は一体どこから生まれてきたのか?
つまりそれを描こうとすれば、必然的に祖父(稔)の生涯を描かずにはいられないことになります。
本書では稔の生涯を忠実になぞるノンフィクション作品としてではなく、激動の時代を生きた1人の人間の生き様を文学として描いたものです。
稔が生きた時代は、親子三世代、つまり大家族で暮らすのが普通でした。
また同時に海外への出兵、医療や衛生が未発達だった要因もあり、"死"が身近なものとして日常の光景に存在していました。
たとえば10人兄弟のうち、病気や事故などで成人に達したのは半分の5人ということも珍しくはありませんでした。
稔自身も兄弟、幼馴じみ、初恋の人、そして息子までもが、事故や病気、戦死、ときには自殺といった要因で亡くなってしまう体験をします。
さらに日露戦争では、生き残るか殺されるか究極の状況の中で、敵として現れたロシア人青年を自分の手で殺める経験もしています。
それさえ同時代に生きる人からすれば特別な出来事ではなかったはずですが、稔は幼い頃から"人の死"、もっと言えば”人は死んだら何処へ行くのか?”ということを人一倍考え続けてきたのです。
物語の大部分は、周囲10キロにも満たない筑後川の河口にある大野島を舞台に進行してゆきます。
大野島には橋がなく、戦後まで対岸へは渡し船で移動するしかありませんでした。
必然的に土地に住んでいる家族同士の付き合いは濃く、稔の生家であった鍛冶屋も例外ではありませんでした。
つまり親族や近所同士だけでなく、幼馴じみや恋人、学校の先輩や後輩といった関係が生活の隅々にまで浸透している共同体の中に暮らしていたのです。
現代に暮らす私たちであれば息苦しく窮屈に感じてしまうような環境ですが、こうした時代・地域でなければ、人びとの遺骨を粉砕し混ぜ合わせて1体の骨仏を建立するという発想は生まれなかったはずです。
そこに暮らす人びとの息づかいが聞こえてきそうな作品であり、素朴に暮らし、数々の困難を受け入れ、そして乗り越えてゆく姿からは哲学的なメッセージさえ感じます。
承久の乱
以前ブログで紹介した中公新書から出版されている壬申の乱に引き続いて、今回は承久の乱を手にとってみました。
日本の大乱シリーズを時代順に読んでいる訳ですが、古代ロマンが感じられる壬申の乱と違い、個人的には地味な乱というイメージがありました。
何故なら源平合戦が終わり、平清盛も源頼朝も過去の人となった鎌倉時代初期の戦乱ということで登場人物が地味という印象があり、無謀にも朝廷が北条家へ対して主導権争いを挑んで失敗したというイメージしか持っていませんでした。
しかし本書を読み進めてゆくと、日本史の教科書では数行程度でしか記述されていない乱が、歴史のターニングポイントとなった重要な出来事であることが分かってきます。
それを一言で表すと、承久の乱によって日本の実質的な権力は幕府(武家政権)が担うことになったということです。
清盛も頼朝も実質的に朝廷を上回る軍事力を持っていたと言えるかも知れませんが、その立場は明らかに朝廷が上であり、彼らが政権を担っていたとは言えません。
2人はあくまでも朝廷から軍事司令官としての地位を与えられただけであり、清盛はそれに相応しい地位を得るため官位昇進に熱心でしたし、頼朝に至っては官位よりも朝廷から東国の経営、つまり勢力地盤の独立さえ担保できれば満足でした。
しかし承久の乱以降、幕府にとっての反対勢力の指導者がたとえ天皇や上皇であろうとも容赦なく処断される時代になります。
そのきっかけを作ったのが、皮肉にも天皇として並外れて優秀であった後鳥羽上皇でした。
彼は歴史上に残る歌人として、琵琶の名演奏者として、蹴鞠の達人、優秀な武芸者としてマルチな才能を発揮した人物であり、政治への意欲、行動力どれを取っても非の打ち所がない人物でした。
しかしそれが故に、自分の意向に従わない幕府を実質的に主導していた北条氏と正面衝突することになったと言えます。
一言でいえば自信過剰だったということになりますが、たとえ帝王と言えども快適な宮廷育ちの後鳥羽上皇と、幾度もの戦場をくぐり抜けてきた武士たちとの勝負は始めから付いていたのかも知れません。
本書で取り上げられているのはもちろん承久の乱ですが、本書のはじめでは後三条、白河上皇から、鳥羽・後白河上皇へと受け継がれた院政の流れ、その過程で発生した保元・平治の乱、平家・源氏ら武家の台頭という後鳥羽上皇登場以前の流れを一通り振り返っているため、スムーズに本題へ進むことができます。
また政治面・軍事面だけでなく、文化面にも目が配られており、専門的な内容ながら読者が時代の奥行きを感じられる1冊となっています。
十一の色硝子
タイトルから推測できるように11編の作品が収められている遠藤周作氏の短編集です。
- ワルシャワの日本人
- カプリンスキー氏
- 幼なじみたち
- 戦中派
- 代弁人
- ア、デュウ
- 黒い旧友
- 環りなん
- うしろ姿
- 五十歳の男
- 聖母賛歌
遠藤氏の長編は、「沈黙」や「深い河」に代表されるように人間の宗教や死生観に踏み込んだ重々しいテーマの作品が多く、一方でエッセイではジョークの効いた軽快な作品が多く、その雰囲気は正反対と言ってもいいくらいです。
そうした意味では短編集の作品は、ちょうどその中間地点にあるような位置付けにあります。
著者にはフランス留学の経験があり、その頃の体験をモチーフにしたもの、かつて大病を患った経験、昔の飼っていた犬の話などをテーマに選んでおり、本書の作品は私小説の側面があります。
短編ということもあり、伏線もなくストーリーが淡々と進んでゆきますが、その根底に潜むテーマはかなり重いことに気づきます。
人間の傲慢、差別、孤独、老い、身近な人の死など、お世辞にも明るい内容ではありません。
ただし作品中では重々しい雰囲気を前面に押し出すわけではなく、作品に登場する主人公たちの日常生活の中に溶け込む形で描かれています。
なぜなら先ほど挙げたテーマは重々しく感じるものの、誰にとっても身近なものであり、人生において一度は経験することになる事象だからです。
1つの例えとして、誰もが常にいつか訪れる自らの"死"を意識して生活しているわけではありません。しかし自らの大病、または身近な人の死を通じて、今まで以上に”死”を意識し始めることもあるでしょう。
そして遠藤氏は生死の境をさまよう大病を何度か経験しながら作家活動を続けてきただけに、こうしたテーマを敏感に感じ続けて作品中に投影し続けてきたのかもしれません。
朱の丸御用船
本作品の舞台は、鳥羽藩の波切村(現・三重県志摩市波切)です。
日本のどこにでもある普通の漁村ですが、廻船交通が盛んな江戸時代において村にある大王崎は熊野灘と遠州灘とを分ける難所として知られていました。
それは沈没や難破する船が多かったことを意味しますが、波切村では沖で無人の水船(難破船)が発見された場合、それを村の所有とする"瀬取り"という暗黙のルールが存在していました。
海難事故の犠牲者(水死体)が村に流れ着いた場合、それを"流れ仏"として丁重に葬り、瀬取りで得た積荷は海からの恵みとされていました。
そして村人たちの結束は固く、瀬取りの事実が外へ漏れることはありませんでした。。
ここまでは作品は導入部ですが、作品中には当時の漁村の人びとの暮らしを淡々と描く場面が多く登場します。
ストーリーとは直接関係ないこうした描写を退屈だと感じてしまう人がいるかも知れませんが、個人的にはこうした昔の人びとの生活や風習を知ることのできる民俗学的な描写がかなり好みです。
"瀬取り"は、公式には禁止されていましたが、村びとたちの暗黙のルールで続けられてきたことは冒頭で述べました。
しかし何事にも例外は存在するもので、それが厳しい監視下に置かれていた御城米船でした。
御城米とは幕府に納める年貢米を運搬する廻船であり、この年貢米を密売したり盗み取った者は、「悉く(ことごとく)死罪行われるべき事」という法律がありました。
本作品には、この御城米を密売した船頭と、瀬取りした波切村の村びとたちが登場します。
船頭の密売は緻密に計画されたものであり、また村びとたちの瀬取り行為は決して外に漏れない結束の固いものだったはずですが、思いがけないところから権力者(役人)たちの知るところになります。。
この出来事が、日本のどこにでもある漁村の平和な日常を崩壊させるきっかけに繋がってゆくのです。
著者の吉村昭氏は、この出来事をある本の中の短い記述から偶然知ることになります。
そこから地元の史家を訪ね、そして現地の史料を精力的に収集します。
その成果として発表された本作作品に登場する人物は主人公の弥吉を除き、すべて実在とであるというから驚きです。
誰一人歴史上の有名人が登場するわけでもなく、村びとや地方役人といった名もなき歴史の中で忘れられていた人びとを掘り起こることで本作品は成り立っています。
決して派手な物語ではありませんが、歴史のリアリティを描いた作品として一流であり、本書からは作者の妥協しない執筆スタイルを垣間見ることができるのです。
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