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敵討



敵討ち(または仇討ち)といえば忠臣蔵がその代表例ですが、そこまで大掛かりでなくとも、子が親の敵討ちのために旅に出て苦難の末に「ここで会ったが百年目」というシーンは時代劇でもよく見かけます。

しかし敵討ちの現実はそう甘いものではなく、相手に巡り会えないまま時間だけが過ぎてゆき相手や自分の寿命が尽きてしまったり、巡り会えたとしても返り討ちになったりと、その成功率はけっして高いものではなかったようです。

そもそもとして、相手を探し続ける過酷な日々に精根が尽き果ててしまい、諦めてしまうというパターンがもっとも多かったのではないでしょうか。

本書には、吉村昭氏が実際に行われた2つの"敵討ち"を題材にした歴史小説が収録されています。

本書に収録されているのは、いずれも忠臣蔵のように主君の敵討ちではなく、息子が父親(母親)の敵討ちをするというパターンであり、個人的な怨恨を晴らす"敵討ち"ともいえます。

そのため仇の姿を探し当てるために、必然的に個人の力で江戸中、ときには日本中を捜索する必要があり、途方もない労力が必要となります。

また目的を果たすためには10年、20年単位の労力が必要になることも珍しくなく、同時にその過程で経済的に困窮することも必然であるといえます。

本書に登場する2人の主人公は幸運にも敵討ちを果たしますが、著者はそれが数少ない成功例であることを作品中で述べています。

江戸時代当時の道徳概念として"敵討ち"は美徳とされ、幕府へ届け出さえ行っておけば敵討ちを果たしても罪は問われなかったと言い、その行為は浮世絵になるほど世間からも称賛されたようです。

つまり作品の主人公たちは親を殺された悲しみや怒り、つまり復讐心だけでなく、敵討ちを行わなければ武士としての面目を保てず、かつ世間から冷笑されてしまうという当時の固定概念に縛られていた側面も大きかったのではないでしょうか。

"敵討ち"を美徳とする考えは理解できますが、いずれの主人公も自らの人生を"敵討ち"のために捧げたようなものであり、気の毒にも思えてきます。

本書にはいずれも著者らしく敵討ちを美しい筋書きのドラマとしてではなく、辛酸を嘗める日々を生々しく描写している重苦しい雰囲気の作品です。

一方で個人的には吉村昭にはリアリティのある物語を求めている面もあり、そういう意味では満足度の高い作品でもありました。