脳に悪い7つの習慣
著者の林成之氏は、脳の研究者、脳外科医、そして救命センターの部長としての経歴を持つ、いわば脳のスペシャリストです。
タイトルにある"脳に悪い習慣"は、脳の健康に悪い習慣というよりも、頭の働きを活発化したり、自分の能力を引き出すのを阻害する習慣という意味で使われています。
つまり医学的に解明されている脳の仕組みからパフォーマンスを上げるためには、どのような取り組みが必要かを分かりやすく説明している1冊です。
まず本書で述べられている「脳に悪い7つの習慣」とは以下の通りです。
- ①「興味がないと」物事を避けることが多い
- ②「嫌だ」「疲れた」とグチを言う
- ③言われたことをコツコツやる
- ④常に効率を考えている
- ⑤やりたくないのに、我慢して勉強する
- ⑥スポーツや絵などの趣味がない
- ⑦めったに人をほめない
ただしここに書かれた結論だけを見て実践するのは、かなりハードルが高いのではないでしょうか。
しかも一見すると③は地道に努力すること、④は忙しい中で時間を有意義に使おうとすることが悪い習慣の一部であると言われているような気がします。
なぜ悪いのか、具体的にどのような行為が悪いのか、本書ではその理由を脳の仕組みを解説しながら、なぜそれが悪い習慣となるのかを具体的に挙げているため、読者は納得しやすいのです。
たとえば脳は、「正誤を判断する」、「類似するものを区別する」、「バランスをとる」、「話の筋道を通す」といったプラスの作用のために「統一・一貫性」の作用を持っています。
しかしこの作用はときに、他人が自分と違う意見を持っている場合、つまり反論されるとカチンときてしまうような場面ではマイナスに働いてしまいます。
脳はダイナミックセンターコアという一連の処理を繰り返す、つまり物事を繰り返し考えることで独創的なアイデアが生まれるようになりますが、他人の考えを受け入れず自分が正しいと考えが凝り固まることで、「統一・一貫性」の作用が、その働きを阻害してまうのです。
脳の仕組みを理解すれば、他人からの意見が気に入らないのはしょうがない、むしろより良いアイデアのためのその意見も選択肢の1つに取り入れてもう1度考えてみようという発想ができるようになるのです。
著者も言っていますが、本書を1度読んだだけですべてを習慣付けるのは難しいため、手元に置いて繰り返し目を通すと良いのではないでしょうか。
華栄の丘
春秋戦国時代は中国全土で約550年間(B.C.770 ~ B.C.C221)もの間続いた戦乱の時代であり、多いときで100以上の国が乱立していました。
本書は宮城谷昌光氏による春秋時代に宋(そう)の宰相として活躍した華元(かげん)を主人公とした歴史小説です。
先ほど触れたように100以上の国が存在しましたが、春秋時代の超大国は晋(しん)・斉(せい)・楚(そ)あたりであり、物語の舞台となる宋は中規模程度の国に位置付けられます。
しかし宋の南には楚、北西に晋、北東に斉があり、3大国の緩衝地帯のような場所に位置していました。
華元の生きた時代は晋と楚がもっとも大きな力を持っており、両国が諸国の盟主としての地位を巡って激しく争いを繰り広げていました。
もう少し詳しく説明すると、のちの戦国時代に秦が史上初めて中国全土を統一することになりますが、春秋時代にはそもそも中華統一という概念が存在していませんでした。
かつて統一王朝を築いた周(しゅう)はこの時代でもかろうじて存在しており、力を失った周に代わって諸国へ号令をかけることのできる、つまり天下を裁量できる国が盟主と呼ばれたのです。
宋には大国と渡り合えるような国力を持っていなかったため、時代によって晋、あるいは楚を盟主に仰ぐといった難しい舵取りを迫られている国でした。
両大国の旗色を見ながら、同盟相手としての晋と楚を巧みに乗り換えることが出来る宰相がいるのならば、それは有能という評価となるでしょう。
しかし宋としての国の方針を明確にして両国からの武力による脅しには屈せず、かつ国を保つことが出来るのならば、それは名宰相と評されます。
華元はそれを成し遂げた宰相ですが、さらに1歩進んで第三者として長年に渡り天敵同士だった晋と楚の和平をも実現させたのです。
それを現代史で表すならば、冷戦時代のアメリカとソ連との間の和平条約締結を日本の総理大臣が仲介して実現させたようなものです。
(もちろん仮の話ですが。。)
華元は武力を用いることや詐術を弄することを嫌った戦乱の世には珍しい宰相です。
しかしそれだけでは戦乱の時代を生き残ることはできません。
代わりに華元は"礼"を用いて大事に当たろうとしました。
この時代にまだ孔子は生まれておらず、後世のように"礼"には複雑で儀式的な意味はなく、約束した事を守る信義や、弱い立場の者を守る仁義のような考えのみがありました。
果てしなく続く戦乱の時代が人心を荒ませ、かつて古代で大切にされてきた"礼"が忘れられ、"武力"が重んじられる時代になろうとしていたからこそ、華元の存在は光り輝いたのです。
詳しい内容は本書を読んでからの楽しみですが、いつものように宮城谷作品の登場人物はどれも個性的かつ魅力的であり、読者を最後まで楽しませてくれることは保証します。
傷つきやすくなった世界で
本書はフリーペーパー「R25」の誌上での石田衣良氏の連載エッセイ「空は、今日も、青いか?」を文庫化したものです。
「R25」といえばリクルート社が創刊した20代、30代前半の読者をターゲットとしたフリーペーパーであり、当時は私自身もターゲット層だったということもあり何度か手にとった記憶があります。
エッセイといえば作家自身の何気ない日常の出来事や、時事ニュース、仕事や趣味について自由に綴ってゆくスタイルですが、本書では連載当時40代半ばだった石田氏が若い世代へ意識して語りかけるスタイルで執筆されています。
もし読者の親世代の大御所作家がエッセイを連載するとなると、読者(若者)との距離が開き過ぎてしまい、内容も説教や教訓めいたものになりがちになることが予想されます。
また同世代となると、年齢的に実績のある作家がほとんどいません。
その点で石田氏は、少し歳の離れた若者に理解のあるお兄さんという立ち位置で、実績も申し分ない人選であるといえます。
本書に収められているのは2006年から2008年にかけてのエッセイですが、おもに話題にしている内容を取り上げてみます。
- 臆病にならずに積極的に異性と交際しよう!
- 日本人は働き過ぎ。自分にとっての生きがいを大切にしよう!
- 選挙へ行って政治を良い方向へ変えてゆこう!
- ネットの情報だけでなく、自分で考えることが大事
- 格差や差別を無くしてゆこう!
10年以上前に執筆された内容ですが、今でも話題として取り上げても不思議でないものばかりです。
暗い事件や重いテーマを取り上げる回もありますが、作者の姿勢や結論はどれもポジティブであり、一貫して世の中を嘆いて諦めるより、少しずつでも良くしゆく努力を続けることの重要性を訴えている点は、まさに若者向けといえます。
どんなに時代が変わっても若者たちはつねに前を向いて自分の道を歩んでほしい、そんな作者の希望と応援が詰まったエッセイに仕上がっています。
私自身はもうR25世代ではありませんが、このエッセイからは元気をもらえる気がします。
白い航跡(下)
引き続き明治に活躍した医師・高木兼寛を主人公にした歴史小説「白い航跡」下巻のレビューです。
イギリスで最優秀の成績を収めて医師の資格を得た兼寛は、帰国してそのまま海軍軍医における要職を次々と任せられるようになります。
この頃の兼寛は、紛れもなく日本でもっとも最先端医療の知識を持った医師だったのです。
ところで明治の早い段階から、陸軍と海軍は別々の道を歩み始めます。
陸軍はドイツ式への兵制改革を取り入れ、海軍はイギリス式の制度を積極的に取り入れます。
それぞれ良い所を取り入れたといえば聞こえはいいですが、結果的にはダブルスタンダードのような形となり、太平洋戦争が終わるまで続く陸海軍間の不仲の大きな原因となりました。
これは医学においても同様であり、海軍は兼寛に代表されるようにイギリスから最先端医療を学び、陸軍は同じくそれをドイツから取り入れ、東京大学もドイツ医学を採用することになります。
当時イギリスでは実証主義に徹した医療が重んじられ、ドイツでは学理を重視するという性格の違いがありました。
その頃、軍では脚気(かっけ)が猛威を振るっており、特に海軍では脚気の病人により艦隊を運営する必要人員を確保できないほどの危機に陥っていました。
当時、脚気は西欧では見られない病気であり、日本独自の風土病とみなされていました。
しかし兼寛はそれを白米を中心とした兵食の栄養の偏りであると見抜き、粘り強く上官へ兵食改革を訴え続けます。
海軍内で行われた実験で確証を得た兼寛は、天皇陛下に拝謁してその必要性を訴える機会に恵まれます。
それから急速に改革が進んだ海軍では脚気をほぼ壊滅させることに成功したのです。
しかし陸軍内では、世界的な細菌学の権威であるベルツなどが唱える脚気は細菌による伝染病であるという説を曲げず、真っ向から衝突します。
どう考えても、お互いの医学の長所を持ち寄って協力して研究するのが一番良い方法ですが、陸海軍間は派閥や権力争いに明け暮れるのが日常で、とてもそんな状況を望むことはできませんした。
兼寛も脚気の原因を突き止めた訳ではなく、兵食の洋食化、そして白米と麦を混ぜたメニューにより脚気問題を解決したというイギリス式の実証主義のスタイルで望んだのです。
一方、学理で説明できなければ意味が無いという陸軍側の主張はまさしくドイツ式であり、日露戦争においても陸銀は脚気による死亡者が深刻な数になっていました。
その急先鋒となったのが森林太郎(森鴎外)であり、理論武装の弱い兼寛は実績があるにも関わらず、つねに劣勢に立たせられます。
兼寛にとって不幸だったのは、脚気の原因がビタミンB1不足によるものであり、結果的に彼の方針は間違っていなかったという立証が、その存命中に行われなかったという点です。
ただしそれ以上の不幸は、両者の縄張り争いにより多くの兵士が命を落としたという現実です。
兼寛の功績により日清戦争時には海軍における脚気死亡者はほぼセロになっていましたが、日清戦争における陸軍は戦死者977名に対して脚気により死亡者は3,944名、同じく日露戦争では戦死者47,000名に対して脚気死亡者は27,800名という驚異的な数字であり、国の指導者が兵卒の命を軽視する傾向は、この頃からはっきりと表れていたのです。
歴史上に埋もれたあまたの人物の中で、当時ほとんど世間から忘れらていた高木兼寛という人物を掘り出して長編小説とした吉村昭氏の慧眼が光る作品です。
白い航跡(上)
日本の近代医学発展に貢献し、東京慈恵会医科大学を創立した高木兼寛を主人公とした歴史小説です。
明治維新後に日本は積極的に西洋文明を取り入れ、医学もその中で急速な発展を遂げます。
そしてその担い手は、西洋医学を学んだ若者たちでした。
以前ブログで紹介した「夜明けの雷鳴」の主人公・高松凌雲もその1人であり、彼が旧幕臣として箱館戦争に医師として参加したのとは対照的に、兼寛は薩摩藩の医師として戊辰戦争に従軍しました。
兼寛はその時20才という若さでしたが、蘭方医学の軍医として従軍したのです。
蘭方医学とは江戸時代にオランダから伝えられた医学であり、その意味では西洋医学の1つではありました。
しかし当時ヨーロッパで急速に発展を遂げていた最先端の医学と比べると内容はかなり遅れており、おもに書籍による座学であったため、実用性が高いとは言えませんでした。
蘭方医学や漢方医も刀槍傷の手当は心得ていましたが、銃創についての治療方法については無知だったのです。
実際に戦争では、銃創の負傷者へ対して銃弾を取り出さずに傷口を縫い付けたために壊疽を起こし悪化させ、助かる命も助からないということが起きていたのです。
兼寛も銃弾の適切な治療方法を知らない1人でしたが、当時数少ない最先端の西洋医術を学んだ関寛斎やイギリス人医師ウイリスの医療技術を知り、自分の無力さを実感します。
明治時代に入りイギリス人の元で医学を学び続けた兼寛は、海軍医師としてイギリスで最新の医学を学ぶという幸運に恵まれます。
こうしてセントトーマス付属医学校に留学することになった兼寛は懸命に勉学を続け、日本人としてはじめての留学生だったにも関わらず最優秀の成績を収めるまでになります。
最先端医学はもちろんですが、兼寛はイギリスの医療制度に深い感銘を受けます。
1つは貧しい人びとが無料で治療を受けられる制度であり、この運営資金は王室や篤志家からの寄付によって賄われていました。
そしてもう1つは的確に医師をサポートし、きめ細やかに患者へ奉仕する看護婦という制度です。
もちろん当時1人の留学生に過ぎない兼寛に日本で同じ制度を実現させる影響力はありませんしたが、後年、海軍医師の頂点である海軍軍医総監になったときに、2つとも彼の手によって実現されることになるのです。
本作品を通じて1つの時代が終わり、新しい時代に入ってゆこうとする当時の日本の姿が、1人の若者の生き方の中に凝縮されているかのような爽快さを感じるのは私だけではないはずです。
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