本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

左近 (下)


島左近の生涯を描いた、火坂雅志氏の絶筆となった「左近」下巻のレビューです。

絶筆となったため本作品は未完ではあるものの、単行本の上下巻でそれぞれ400ページにも及ぶ分量であり、個人的には8割方まで執筆が進んでいたのではないかと思います。

念願の大和統一を果たした島左近が仕える筒井順慶ですが、実質的には織田信長の勢力下に組み入れ、京都周辺の軍事作戦を担当してた明智光秀の与力大名という位置にありました。

しかし光秀が主人・信長を相手に本能寺の変を起こしたことから筒井家の命運が大きく左右されることになります。

結果として左近をはじめとする重臣たちの判断により筒井家は秀吉と光秀が戦った山崎の戦いに加担することになく、秀吉の時代になって伊賀へ移封されることになるものの、引き続き大名として存続することになります。

一方で若くして病死した順慶の後を継いだ定次が暗愚であり、どんな苦境にあっても筒井家へ忠誠を誓い続けた左近はついに出奔することを決意します。

このときの左近はすでに50近い年齢でしたが彼の武勇は鬼左近として全国的に有名であり、筒井家を辞した直後から各国から仕官の要請がありましたが、それらをすべて断っていました。

その左近を三顧の礼のような形で迎え入れたのが石田三成であり、19万石の城主であった三成は左近へ破格の条件である2万石の俸禄を約束します。

高禄にも関わらず、世間は左近を召し抱えた三成を次のように評しました。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

三成は武将ではあるものの、秀吉政権下にあって五奉行に任じられたいわば官僚であり、合戦での実績が圧倒的に足りていませんでした。

事務官として優秀な三成でしたが、ときには冷淡と思われようが意に介さず忠実に任務を遂行してゆくため、福島正則藤堂高虎をはじめとした実戦経験豊富な武将たちから蛇蝎のごとく嫌われていましたが、歴戦のつわ者である左近の存在は石田家に箔をつける意味でも重要な存在でした。

一方で秀吉へ対して紛れのない忠義を尽くす三成の心情は本物であり、かつて筒井家へ忠義を尽くしてきた左近はその姿に感銘に近いものを受けるのです。

そんな三成だけに豊臣家へ対して上辺だけの忠誠を誓う家康へ対しては早くから警戒心を抱いており、結果としてそれは杞憂には終わりませんでした。

ちなみに上巻で左近の好敵手として登場したのは柳生宗厳でしたが、作品が完結したときに左近の好敵手となるべき存在は藤堂高虎だったはずです。

8度も主君を変えたといわれた高虎ですが、それは日和見だったわけではなく、つねに最前線で自らの命を的にしながら戦い続けてきた武将であり、その点では左近と共通するものがあります。

残念ながら未完の作品であるため関ヶ原の戦いが作品中で描かれることはありませんでしたが、文学作品が結末を明らかにせずに完結することが多いように、惜しいとは思うものの途中で終わってしまうこと自体はそれほど気にはなりませんでした。

作品のはじめから終わりまで左近は左近であり続け、戦国武将としての生き様を全うすることが分かっているからです。

左近 (上)


島清興(しま きよおき)、通称である島左近で知られている戦国時代の武将を主人公とした歴史小説です。

著者の火坂雅志氏は本作品を執筆中の2015年に58歳で急逝されており、もっとも油の乗り切った時期だっただけに大変悔やまれます。

左近は大和の豪族である筒井家順昭・順慶・定次と3代に渡って仕え、のちに石田三成に破格の条件で召し抱えられ、関ヶ原の戦いで討ち死したと伝えられている武将です。

とくに筒井順慶に仕えていた時には、大和を巡って松永久秀三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと死闘を繰り広げ、一時期は筒井家が滅亡寸前にまで追い詰められることもありました。

合戦、そして外交とあらゆる手段を駆使して順慶は大和一国を平定することに成功しますが、それには重臣であった島左近の活躍が欠かすことができませんでいた。

弱肉強食の戦国時代にあって弱き者は、強者によって滅ぼされるか、服従するかの二択という殺伐とした世界でしたが、左近は筒井家が劣勢に立たされても主家を見限ることはありませんでした。

作品中で左近はその理由を「それは漢のすることではない」と明快に答えています。

そこには悲壮な覚悟というより、自分がいる限り好き勝手にはさせないという絶対的な自信がバックボーンになっている、戦国武将らしい武将として描かれています。

そして左近にとって好敵手として登場するのが、松永久秀側に仕えている若き日の柳生宗厳(やぎゅう むねよし)です。

"若き日の"と表現したのは、のちに石舟斎と名乗った時代の方が有名なためですが、宗厳もまたかつては左近同様に自らの力を信じて戦乱の中で成り上がろうとした武将の1人であったのです。

筒井順慶にとって最大の敵となった松永久秀も織田信長に一時は従いながらも、おのれの野心に忠実であり、一度反旗を翻したのちは命乞いを潔しとはせず、信長が喉から手が出るほど欲しがった名器・平蜘蛛とともに居城の天守閣で爆死するという壮絶な最期を遂げます。
彼もまた戦国武将らしい人物だったといえるでしょう。

やはり歴史好きの読者にとって、いつ滅びるか分からない乱世にあってひらすら保身に走る武将よりも、その結果はどうあれ生き様を見せてくれる武将に魅力を感じるものであり、その点で島左近はうってつけの主人公なのです。

非情の空: ラバウル零戦隊始末



太平洋戦争における零戦部隊の戦史を綴った1冊です。

著者の高城肇氏は、こうした太平洋戦争における旧日本軍のパイロットたちに焦点を当てた作品が多いようです。

本書は坂井三郎をはじめ日本を代表するエースパイロットたちが在籍した台南海軍航空隊(台南空)が貨物船に揺られてニューブリテン島のラバウルへ転戦するところから始まります。

ラバウルといえば太平洋における旧日本軍最大の拠点があり、アメリカをはじめとした連合軍との間に激戦が繰り広げられた場所として知られています。

旧日本軍としてはラバウル防衛のために精鋭部隊である台南空を配置するという定石通りの戦略を用いた形になりますが、彼らはその期待に応えるかのように次々にアメリカの戦闘機を撃墜してゆきます。

それはパイロットたちの高い伎倆と零戦の性能によるところが大きいですが、空中戦は一瞬の判断ミスや操縦ミスよって生死が分かれる世界であり、作品中ではその様子がよく描かれています。

毎日のように出撃しては敵機と交戦を続けるということは、毎日真剣勝負に出かけるようなものであり、パイロットには強靭な肉体と精神力が求められます。

当時の戦闘機にはレーダーもまた味方と通信するための無線も装備されていませんでした。

そのため敵をいち早く発見することが重要になり、目の良さやセンスが求められ、敵機を攻撃する際には太陽を背にするのが理想的でした。

味方との連携はバンクを振る(機体を横に傾ける)などの合図しか使えず、コミュニケーションとして使える手段は極めて限られていました。

序盤は優位に空中戦を進めていた日本軍ですが、やがて米軍の圧倒的な物資の前に苦戦するようになってきます。

1対1の戦いでは決して遅れを取らない歴戦のパイロットたちも出撃を重ねるうちに、1人、また1人と櫛の歯が欠けるように大空で散ってゆきます。

そもそも空中で撃墜されたパイロットの遺体が回収されることは殆どなく、一瞬のうちに火の玉となって機体と一緒に燃え尽きる運命にあるのは敵味方を問わず一緒なのです。

遂にはラバウル方面で使用可能な零戦の総数が21機であり、戦況の悪化や物資の欠乏により新たな増援が見込めない一方、米軍は1週間に30機もの戦闘機を新規に補充できる状態だったということからも分かる通り、いかにパイロットの能力が優れいようとも戦況は絶望的なジリ貧状態に陥っていたのです。

こうした戦況の中でもパイロットの当時の手紙に残されたから文面から分かるのは、こうした逆境にあっても士気がますます旺盛であったということです。

そこには何としても生き残ってやる、戦争に勝利するという意志よりは、今まで幾度となく弔ってきた仲間たちのように、いつか自分も大空で散るその時まで精一杯戦い続けるという、まさしくサムライのような心境であったように思えます。

それは現代の読者たちから見れば、死を覚悟した悲壮感のようなものに感じてしまいますが、少なくとも当時のパイロットたちは自らが置かれた境遇へ対して悲しみや憐れみを抱くようなセンチメンタルな感情は持ち合わせていなかったのではないでしょうか。

結果的にはラバウル方面へ派遣された台南空が部隊として全滅することはありませんでした。

それは劣勢となった局面を打開するために特別攻撃隊、つまり兵士1人1人の精神力を武器とした特攻という愚劣な作戦を遂行するために機体を明け渡す必要が出てきたからでした。

それでも多くの若い命が日本から遠く離れたラバウルの空で散っていったのは事実であり、生き残ったパイロットたちも心に大きな傷を受けて生きてゆくことになるのです。

青衣の人



今まで読んできた井上靖氏の作品は、歴史を題材としたものや自伝的小説でしたが、本書は恋愛を題材とした純文学といった印象です。

恋愛といいつつも若い男女のそれではなく、いずれも結婚している男女が10年ぶりに偶然にも再会して恋愛感情を抱いていゆくという展開です。

外見上のストーリーはきわめて展開が少ないまま進行し、それは不倫とは呼べない程のものです。

それでも本作品は長編小説としての分量があり、加えて読者を飽きさせない作者の小説家としての伎倆が光っています。

陶芸家として活動し、妻が病気により長期入院中であるという境道助、資産家であり教授である夫を持つ主婦の三浦暁子が主人公といえる存在ですが、暁子を叔母として慕っているれい子という存在がトリックスターのように、例えば時には2人の恋のキューピットとして、時には暁子の恋のライバルとして色々な立ち回りをします。

れい子にも将来を約束した男性がいましたが、移り気の多さ、怖いものを知らないが故の大胆さといった、ときに若い女性に見られるような天真爛漫を絵に描いたような女性です。

一方で道助、暁子に共通するのは自制心、そして怖いものを知っているが故の慎重さであり、本質的には常識ある大人なのです。

おもにこの3人の微妙な心境の変化によって次の展開が次々と訪れてゆき読者を引き込んでゆくのです。

巻末には文芸評論家の亀井勝一郎氏が本作品で扱っているテーマを的確に言い表しています。
たとえば自由という概念がある。
それが最も効果を発揮するのは、いうまでもなく不自由という抑制を設定したときだ。 激しい恋愛は必ずしも恋愛の自由のなかにあるとはかぎらない。
古風なことばが「人目をしのぶ」という抑制や圧力のもとで燃え上がるものだ。
やはり恋愛、不倫といった題材は文学と相性がよいと改めて思い直した作品です。

母親ウエスタン



本ブログでは2作品目となる原田ひ香氏の小説です。

本書を読み始めると、すぐに2つのストーリーが同時並行で進んでいることに気付きます。

それも一時的な転換ではなく、頻繁にストーリーが切り替わりるため最初はすこし戸惑いますが、かなり規則的に一定のペースで切り替わるためすぐに慣れることができます。

加えてこの2つの物語は同時並行に進んでるものではなく、過去と現在を行き来していることも分かってきます。

過去の物語での主人公は広美という不思議な女性です。

彼女は父子家庭となった家にふらりと現れて、子どもたちの世話を献身的にこなします。

そしてまたふらりと父親や子どもたちの目の前から姿を消してゆくのです。

父子家庭といっても子どもの年齢や人数、また家庭事情は異なっていますが、いずれも子どもたちが死別、または家を出ていった母親を恋しがっているという点は共通しています。

冒頭に書いた通り、彼女の作品は本書でまだ2冊目のため、天使が人間の姿を借りて人助けをするというファンタジーな作品なのかもしれないと思いましたが、作品中で描かれる各家庭の事情、そして広美とその時々で訪れている家族たちとの会話の描写はリアリティを重視していることが分かり、現代社会を鋭く捉えようとしている作品であることが分かってきます。

一方で現代で進行してゆくストーリーの方では、スナックのママとなった広美、そして彼女の正体を突き止めようとする大学生の悠理が登場しますが、主人公は悠理と交際している女子大学生であるあおいの視点から描かれています。

悠理がかつて広美によって育てられたという過去があることは推測できますが、あえて広美とはまったく縁のないあおいの視点を用いることによって、読書にとって最大の関心事、つまり広美という謎の女性の正体や目的、さらに知られざる過去が明らかなになってゆく過程が少しずつ自然に描かれています。

広美は特別な美貌の持ち主ではなく、天真爛漫な性格でもありませんし、まして力持ちでも大富豪でもありません。

しかし彼女には子どもたちの気持ちを理解し、寄り添うことのできる能力があり、彼らに危険が迫れば身を挺して守り抜こうとする強い意志があります。

つまり彼女の強さは母親が本来持っている強さであり、それを他人の子どもへ発揮できるという不思議な能力を持っており、綿密な作品の構成とともに読者をストーリーに釘付けにする魅力を持った作品になっています。

コロナとバカ


私にとって一番長くTVで見てきた芸人といえばビートたけしです。

昔ほどTVを見なくなって久しいですが、今でも現役で活躍している姿をたびたび目にします。

また映画監督としても国際的に有名であり、多彩な才能を発揮していることは多く人が知るところです。

作家としての活動も知られており、今までかなりの数の著書を出版しています。

一方で私は今まで彼の著書を1冊も読んだことがなく、比較的最近出版された本書を手にとってみました。

タイトルからわかる通り、本書はコロナ禍の最中(2021年)に発表されており、世の中を色々な角度から評論しています。

もちろんお馴染みのキャラクターは本書でも健在であり、冗談を交えながら歯に衣着せぬ発言をしています。

はじめの章では"コロナがあぶり出した「ニッポンのバカ"と題して、コロナ対策のちぐはぐな政策、またコロナ警察に代表される行き過ぎた同調圧力へ対して容赦なく批判を加えています。

本の良いところの1つは、TVでは炎上するような発言や表現も比較的寛容に受け止められるという点です。

先行きの見えない当時の状況、とくに人を集めて笑ってもらうことを生業にする芸人たちにとっては死活問題でしたが、それだけにその舌鋒はTVでの発言よりかなり鋭くなっていると感じます。

続いての章は"さよなら、愛すべき人たちよ"と題して、最近亡くなってしまった有名人へ想いを馳せています。

まず最初に言及されているのが志村けんであることが意外でした。

いわばライバル関係でお笑いの方向性も異なるため、それほど仲は良くないと勝手に思っていましたが、昔はよく飲みに行った仲だと言います。

ビートたけしにとって志村けんの存在は、仲間というより戦友であったといい、2020年で一番ショックな出来事だったと語っています。

ほかに渡哲也にも言及してますが、カッコいいと感じる憧れの存在だったようです。

最終章では、"ニュース・テレビの「お騒がせ事件簿」"と題して、芸能人たちの不祥事を評論しています。

かつて自分自身が起こした有名なフライデー襲撃事件は、今の時代では完全に芸能界引退レベルの不祥事だったはずです。

もちろんそれは彼自身も充分に分かっており、その上で近年は芸人に対する世間の目が厳しくなっていることを嘆いています。

そもそも芸人に限らず、役者もアーチストという人種は本来ロクでもない人間にも関わらず、とくに芸人に関しては多方面へ進出して「品性を求められる仕事」までに手を出した結果のしっぺ返しだと断言しています。

それでも不倫をネタにできないような芸人はダメだ、遊び方が下手などなど、個人名を挙げて手厳しく批評していますが、ビートたけしほどのキャリアと実績を持つ芸人がいない状況だけに反論できる人も少ないのではないでしょうか。

本書から感じるビートたけしのイメージは、テレビというよりも深夜ラジオで縦横無尽にしゃべり倒していた頃の"ビートたけし"に近いかもしれません。