十六の話
司馬遼太郎氏の評論、追悼文、さらには講演内容を1冊にまとめたものです。
テーマは本職の歴史はもちろん、宗教、思想・哲学、美術から人物評、さらには環境問題など多岐にわたり、普通は代表的なものから本の表題を付けるのですが、著者自身も迷った末に掲載されている作品の数を単純にカウントして「十六の話」と名付けたようです。
本書に掲載されている作品は以下の通りですが、文庫版は付録として著者と井筒俊彦氏の対談が収録されています。
- 文学から見た日本歴史
- 開高健への弔辞
- アラベスク -井筒俊彦氏を悼む
- "古代史"と身辺雑話
- 華厳をめぐる話
- 叡山美術の展開 -不動明王にふれつつ
- 山片蟠桃のこと
- 幕末における近代思想
- ある情熱
- 臨海丸誕生の地
- 大阪の原形 -日本におけるもっとも市民的な都市
- 訴えるべき相手がいないまま
- 樹木と人
- なによりも国語
- 洪庵のたいまつ
- 二十一世紀に生きる君たちへ
司馬氏は1996年に亡くなりますが、本書は最晩年に近い1993年に発刊された本であり、この頃は小説の創作活動から離れてエッセイや批評の執筆が中心となっていました。
それだけに本書の内容はどれも長年の作家人生の中で養われた知識や経験の集大成といえる内容であり、読み応えは充分です。
歴史といえば年表と出来事、そしてそこに登場する人物を順番に暗記してゆく教科だと思っていましたが、私にとって歴史の面白さを教えてくれたのが司馬遼太郎という存在でした。
実際に作品を読むと、歴史上の人物たちが生き生きと描かれており、読者の胸を躍らせると同時に、過去の出来事を不思議と新鮮な感覚で読ませてくれる魅力があります。
本書では次のように語っています。
歴史とはなんでしょうか、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
歴史上の人物に関する記録などを読み漁り、現地を訪れて取材を続けているうちに、次第に彼らが著者にとって友人のような身近な存在になってゆくのであり、著書を通じて読者たちへも同じような感覚をもたらせてくれるのです。
著者は自嘲気味に自身を第二次世界大戦の敗残兵であると言っていますが、20世紀が終わろうとしている当時、国家間で発揮するエゴ、つまり戦争を最大の懸念事項として考えていました。
そして残念ながらその懸念はウクライナや中東で現実のものとなりつつあります。
本書ではその本質を著者らしく次のように表現しています。
「あの国は、ひとびとはすばらくいい。だが、国家としてはじつにいやな国だ。」
という言い方を、しばしばききます。
近代国家というものは、自国の国民の幸福をもたらす機関として成立し、二十世紀後半になって多くの国家が誕生しました。
こんにち、大小無数の国家が、自国民の利益という二十世紀の神話を守るために、怪物群のように地球上を横行しています。
どの国にとってもその隣国は、悪魔に似ています。なぜなら、隣国は、自国にとって荀子の思想でいうところの、"利己的欲望"しかもっていないからです。
とはいえ、世界中の叡智を集めたところで決して無くならないのが戦争でもあります。
著者は"壊れた地球"を子孫へ相続させないために、かぼそい可能性ながらも国家やイデオロギーを超えた影響力のある思想が生まれてくることが必要だと考えていたようであり、長年にわたり歴史を身近に触れてきただけに、その難しさを誰よりも実感していたに違いありません。