月下美人
吉村昭氏の短編集です。
本書には8作品が収められいますが、全ページの3分の1が表題作の「月下美人」に割り当てられています。
この「月下美人」は以前本ブログで紹介した作品「逃亡」の取材ノートというべき作品です。
この「逃亡」は昭和19年に霞ヶ浦海軍航空隊に所属する若い整備兵が、米国のスパイと思われる謎の日本人の指示で戦闘機を爆破し、そのまま終戦まで逃亡を続けたという事実を元にした戦史小説です。
著者は最初、この事実を偽名を名乗る人物からの電話により知ることになります。
(結局、この人物の正体は最後まで判明せず。)
この情報提供を頼りに直接本人へ取材をすべく訪れますが、彼は結婚して東京郊外の市役所に勤めており、職場の同僚はおろか妻にもそうした過去を秘密にして暮らし続け、最初は著者へ対して心を許さず警戒していました。
終戦から25年が経過しているとはいえ、本人にとっては出来れば誰にも知られたくない過去であったことは容易に想像できます。
しかし著者の取材申し入れが長年に渡る心の重荷を下ろす機会になると考えた元整備兵は、重い口を開く決心をするのです。
ただし当然のように吉村氏が発表した「逃亡」では作品中の出来事はノンフィクションであるものの、プライバシーを考慮して登場人物はすべて仮名(小説では望月)で執筆されています。
しかし作品が発表され肩の荷が下りたと感じた元整備兵は、かつて逃亡を続けた自らの軌跡を確かめるかのように旅へ出るようになり、ついには本人自らが歴史研究家との共著で本名を公表して回想録を出版するに至るのです。
そこまでの過程はそれほど単純ではなく、元整備兵の心の浮き沈みが激しく、何度となく吉村氏を困惑させるような出来事があったことが書かれています。
一方で著者が取材を申し込まなければ元整備兵がそうした過去を生涯心に秘めたまま人生を終えた可能性も充分あり、吉村氏は彼へ対して一種の罪悪感を抱き続けていました。
そうした作品発表の前後を併せて10年間にも及ぶ彼との関わり合いが書かれた「月下美人」は、元になった「逃亡」と併せて是非読んで欲しい作品です。
残りの7作品については私小説的な短編になっており、吉村昭の代表作といえば長編小説が有名ですが、短編小説を書かせても超一流の作家であるというのが個人的な感想です。
つまり本書はとてもお得な1冊であり、吉村昭ファンであれば必読の1冊といえるでしょう。
